書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

千街晶之

『ザ・メイデンズ ギリシャ悲劇の殺人』アレックス・マイクリーディーズ/坂本あおい訳 

ハヤカワ・ミステリ文庫

 夫を亡くして悲しみに沈む心理療法士のマリアナは、ケンブリッジ大学に通う姪から学友が殺されたと知らされ、ケンブリッジへと向かう。やがて起こる第二の殺人。被害者たちに送られていた古代ギリシャ語の手紙。マリアナはギリシャ悲劇が専門のエドワード・フォスカ教授を疑うが……。このフォスカ教授、お気に入りの女子学生ばかりを取り巻きにしているなど言動はいかにも怪しいけれども、一方でアリバイがあり、夫に先立たれて精神的に不安定なマリアナの思い込みに満ちた疑念が果たして的中しているのか、読者はハラハラしながら彼女の暴走気味の行動を見守ることになる。そして、そのサスペンスに満ちた展開の中に、見事なミスリードが仕掛けられている。実力あるミステリ作家は読者の思い込みを逆手に取って見当外れな方向に疑惑を向けさせる手管に優れているものだが、本書はその種の巧妙なミスリードが、一つではなく二重三重に仕掛けられているのだ。デビュー作『サイコセラピスト』も意外性に満ちた秀逸な本格ミステリだったけれども、第二作の本書はその上をゆく。本格ミステリファンは、アレックス・マイクリーディーズという名前をゆめゆめ忘れるなかれ。

 

酒井貞道

『象られた闇』ローラ・パーセル/国弘喜美代訳

早川書房

 2024年2月は大豊作でしたが、「そう来るとは思わなかった」枠はどう考えてもコレ一択。温泉保養地バースを舞台にゆったり進むヴィクトリアン・ミステリが、ラスト20%でこんな鬼の追い込みをかけてくるとは思わないじゃん。切り絵作家のオールド・ミス、霊媒の少女をダブル主人公に据えて、作者は彼らを取り巻く環境と人間関係とを遅いペースで丁寧に描き込む。これだけでも小説として十分成り立っていた以上、それが単に「下拵え」に過ぎなかったとは思わないじゃん。終盤の展開は衝撃的と言う他ない。なお原題でもDarknessという言葉が使われている。この物語の隠された闇を、たっぷりと味わっていただきたい。

 

霜月蒼

『7月のダークライド』ルー・バーニー/加賀山卓朗訳

ハーパーBOOKS

 面白さだけで言ったらダントツで『両京十五日I  凶兆』だった。いずれも名作『黄土の奔流』も『虎口からの脱出』も蹴散らさんばかりの冒険活劇スリラーの傑作なのだが、まだ未完なのだ。後半『両京十五日II  天命』は3月刊。よほどのことがなければ3月ベストは上下揃えて『両京十五日』となるだろうから、細かな話は来月まで取っておくことにする。しばし待たれよ。

 というわけでベストは『7月のダークライド』である。イケてなくて非モテの20代男子が、ふと見かけた幼い兄妹に虐待の痣を発見、でも役所や立派な大人たちが役に立たないので業を煮やして自ら動き出す——という主人公の若さゆえの痛々しいほどの不器用な奮闘が心に刺さる逸品である。

 惹句は「青春ノワール」だが、主人公の行動原理は「正しいことをなす」ことにあるので、ハードボイルド小説というべきか。無力感と怯懦から出発し、それを乗り越えようとする感情のドラマという意味では、ディック・フランシスにも近いかもしれない。これ以上のことは言わないが、翻訳ミステリー大賞受賞作『11月に去りし者』同様、多彩でふてぶてしい女性キャラがみな素敵で、準主役からチョイ役まで忘れがたい。さらに今回は、主人公や虐待されているらしい子供たち、主人公の後輩など、弱い者たちを扱うルー・バーニーのやさしさもよく見て取れるのもいい。

 

川出正樹

『有名すぎて尾行ができない』クイーム・マクドネル/青木悦子訳

創元推理文庫

 『平凡すぎて殺される』という捻りの利いた邦題に、おっと気を引かれてから早二年、あの三人が帰ってきた。

 “完全なる平凡”な顔ゆえ他人と間違われてしまい執拗に命を狙われる羽目に陥ったポール。“平凡な人生なんて誰にとっても物足りないと思っている”“度を超すほどの犯罪実録もののファン”の看護師ブリジット。ハーリング(アイルランド式ホッケー)のクラブを運営し、“地域の治安維持について自分流の型破りなところ”があるレジェンドで、ポールと因縁浅からぬはみ出し者の部長刑事バニー。矜持も信条も、そして正義感もあれど、なぜか世間とズレてしまう三人が、三者三様の持ち味を活かして未解決誘拐事件の真相を解明せざるをえなくなり、ダブリン中を走り回る。

 苦笑と失笑と血と愛と暴力と風刺とユーモアに溢れるノンストップ犯罪小説『平凡すぎて殺される』の結末から八ヶ月、《ダブリン三部作》の二作目となる『有名すぎて尾行ができない』は、トリオで私立探偵事務所を開こうとしたものの、恋人のブリジットとはとある理由から喧嘩中、バニーとはなぜか連絡が取れず、正式オープン前に坐礁しそうな状態の事務所で不機嫌を囲っているポールのもとに、赤いドレスの謎の美女が訪れて不可解な尾行を依頼するシーンで幕を開ける。いや正確には前作で上司から“高度な教育を受けた馬鹿”認定されたウィルソン刑事が、惨殺死体の発見現場で新任上司のハイヒールにとんでもないことをしでかす場面が冒頭にあるのですが。

 ともあれ、アイルランド中が注視する不動産開発詐欺裁判の関係者を尾行するポールとバニーの行方を探り出そうとするブリジットの現在進行形の視点に、金に目がくらんだ再開発事業を阻止しようと暗躍する十六年前のバニーの過去視点を加えた三本の筋がどこでどう絡んでくるのか気になり、前作同様数ページに一回嗤いをかみ殺しつつページをめくっていくと、物語はどんどんあらぬ方向へと進んでいきスタンピード状態に突入。 『平凡すぎて殺される』を上回る狂騒とスケール、バニーの特異な人間性の核をうかがい知れるエピソード、そして新メンバーとなる傍若無人な元警察犬マギーの活躍と読み所満載のエンターテインメントに大満足。次作が待ち遠しいシリーズだ。

 

吉野仁

『両京十五日 Ⅰ凶兆』馬伯庸/齊藤正高・泊功訳

ハヤカワ・ミステリ

 まずは祝ポケミス2000番達成ということで、その記念すべき作品に選ばれた、馬伯庸『両京十五日 Ⅰ凶兆』を讃えたい。明の皇太子らが南京を脱出し北京に帰還するまでの十五日をたどる中華歴史冒険小説の第1巻。襲いかかる敵や幾重もの陰謀と闘い、危機につぐ危機から逃れて生還する波瀾万丈の物語である。なんといってもすべての登場人物に日本語読みでのひらがなルビをつけてあるのは画期的でありがたかった。そのほか個人的な好みでいえば、やはり負け犬青年を主人公にしたルー・バーニー『7月のダークライド』がもうとてもすばらしく、哀愁ただよう『11月に去りし者』にはなかったユーモアと情けなさが全編に漂っており、主人公の心情がひしひしと伝わってくる物語に震えるばかり。おそらく意表をついた新作をこれからも読ませてくれるだろう。ローラ・パーセル『象られた闇』はヴィクトリア朝のバースを舞台に、切り絵作家がモデルとなった客が殺される事件に巻き込まれ、怪しげな霊媒師の少女が登場する物語で、もったいぶった語りと怪しい雰囲気でじっくりと読ませるゴシック・ミステリ。アレックス・クイクリーディーズ『ザ・メイデンズ ギリシャ悲劇の殺人』は、題名から、なにか重厚で衒学的なミステリかと思って手にとったが、セラピストがヒロインをつとめるサスペンスで軽妙な読みやすさであり、しかし意外な真相に驚かされた一作だ。ネレ・ノイハウス『友情よここで終われ』は〈刑事オリヴァー&ピア〉シリーズの第10作。今回の被害者は編集者であり、作品剽窃の過去が暴かれたベストセラー作家が容疑者というドイツの出版業界をめぐる文芸ネタあたりがまずは興味深いところ。スウェーデン作家ラーシュ・ケプレルによる〈ヨーナ・リンナ〉シリーズ第6作『蜘蛛の巣の罠』は、なんとまだ『砂男』をひきずった連続殺人が展開していくことに驚かされた。ライアン・ステック『燎原の死線』は、海兵隊特殊部隊員が主人公で、モンタナを舞台に、牧場主の養父殺しをめぐるローカルな展開かと思いきや、最後は大がかりなアクションが展開するという、ある種のハリウッド調大風呂敷の大作だ。クイーム・マクドネル『有名すぎて尾行ができない』は、『平凡すぎて殺される』の続編で、探偵事務所を始めようとすると美女が依頼に訪れるという私立探偵小説のパロディのようなふざけた展開が楽しめるコメディミステリ。反対にロバート・ベイリー『ザ・ロング・ザイド』は、地元の人気バンドのボーカルだった女子高生が遺体で発見され、彼女の恋人であるアメフトのスター選手が容疑者となるというきわめて古典的なストーリーによるしみじみしたリーガル・スリラー。そして新潮文庫の海外名作発掘シリーズの最新刊は、あの古典名作『彼らは廃馬を撃つ』(白水Uブックス)の作者ホレス・マッコイによる『屍衣にポケットはない』で、地方紙の人気記者が独立し、自ら告発記事を書いていく熱い物語ながら、さまざまな苦難が襲いかかるという展開に加え、長びく大恐慌のさなか、男たちはいまだ第一次大戦を引きずっており、そして次の戦争の足音が欧州から聞こえる時代性なども加わり、どこまでも厳しい現実がひしひしと伝わってくる小説だ。未読の方はあわせて、涙流さずに読めない『彼らは廃馬を撃つ』もぜひぜひ。最後に、デイヴィッド・グーディス『溝の中の月』(HM出版)が2024年1月に電子出版のみで刊行されていたのを前回書き逃してしまったので書いておくが、これは最底辺の町を舞台に妹の死や自身の恋愛をめぐる主人公の哀れながらもありのままの愛おしい姿を描いた貧民街物語で、ルー・バーニー作の主人公ハードリーが幸せにみえるほどのみじめさを覚えるのはさすがグーディスだと妙な感心をしてしまった。

 

杉江松恋

『屍衣にポケットはない』ホレス・マッコイ/田口俊樹訳

新潮文庫

 奥付準拠でこちらを。自分で解説を書いた作品なのだがお許し願いたい。ホレス・マッコイの長篇が出た、というだけで大変なことなのだ。

 マッコイの長篇はこれまでデビュー作の『彼らは廃馬を撃つ』と『明日に別れの接吻を』が邦訳されたのみだった。未完で他人が補筆したものを含めると長篇は六作あるのだが、実はミステリー色の強いものはそれほどない。アマチュア劇団に長く在籍したことなど、自身の過去を色濃く反映した本作が実はいちばんミステリー度の高い未訳作だったことになる。そもそもマッコイは自分がハードボイルド作家に分類されることを嫌い、唯一無二の存在であると標榜したがっていた形跡がある。ジャンルに収まる作家ではないのだろう。

 内容については解説に詳しく書いてしまったのでここではあまり触れない。突き詰めて言うと「もしも文春砲が1930年代のアメリカ小都市にあったら」という話だ。しかも「記事の書き手が狂犬みたいに誰彼構わず噛みつく危ないやつだったら」というキャラクター設定つき。異物感のある主人公を集団の中に投げ込んでどうなるかを見る、というタイプのプロットで、ご想像通りたいへんなことになる。嫌われ、憎まれ、妨害される。そんなことになれば当人の怒りは高まる一方で、世間のすべてを敵に回した状態で主人公マイク・ドーランは突き進んでいくのである。そういうキャラクター小説である、ということだ。これは性格悲劇に分類すべき作品で、主人公にホレス・マッコイが投影されているらしい点に妙味がある。ドーランの怒りはマッコイのものなのか。

 これは余談になるかもしれないが、マッコイは一人称の語りを用いる作家で、本作は長篇では唯一の三人称小説である。自分を書くようなものなので、あえて三人称で突き放そうとしたか。この作家が理解されにくいのは、一人称の語りであるにも関わらず、主人公の意識を読者が共有できないためである。ハメットが『ガラスの鍵』で試みた、心理を一切省いて客観描写のみに徹した文体とはまたちょっと違う。心理は書かれるのだが、でもわからないのだ。たとえば『明日に別れの接吻を』の主人公は、突如理解しがたい理由でヒロインを憎悪し、また執着もする。そこには彼の半生が反映されているようだということが読者にはぼんやり判るのみである。この不可解さは後段で解消されはするのだが、謎解きに当たる箇所が突如噴出してくる変性意識としか言いようのない文章で語られるため、真偽の判断がつかない。このわかりにくさ、もうちょっと止揚して言うと、人間存在の把握づらさのようなものがマッコイ作品の肝である。本作のマイク・ドーランはわかりづらいマッコイ主人公の中では比較的理解しやすい。なにしろずっと怒っているから。しかしその怒りの下にはもっと違ったものがありそうにも見える。そういうわけで小説の深掘りをしだすと、止まらなくなってしまうのである。読んだほうがいいと思う。

 

 またもやばらばらの月になりました。古典的な犯罪小説からヴィクトリア朝を舞台としたスリラー、明代中国の冒険小説とバラエティ豊かでいいですね。次月はどのようなことになりますか。お楽しみに。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧