書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

酒井貞道

『夜の人々』エドワード・アンダースン/矢口誠訳 

新潮文庫

 先のことなど恐らく何も考えていない、考える余裕もない、考える教育も受けていない、ないない尽くしの者たちが堕ちていく様を描いた犯罪小説である。特に、三人の脱獄囚は、開幕時に既に堕ちている。彼らは、それぞれ濡れ衣でも何でもない、自分の意志で凶悪犯罪を選択し、その結果逮捕・収監された三人は、冒頭で脱獄からの逃避行にある。人生は既に閉じているが、そのことを彼らは認識していない。それとも、認識はしていても軽視しているのか。そして彼らは、強盗にひた走る。教育程度の低さ、倫理観の欠如は否定すべくもない。だが彼らの会話はやたらと箴言に満ち、人生と世界における何か大切なことに気付いていることを確実視させる。そこには確かに意志の力があり、信念の輝きがある。だがやることは強盗であり、罪を重ねることである。他人の生命財産を屁とも思っていない。夢を語ることはあるが、それに対する具体的アクションは起こさないか、起こしたとしても微弱だ。それら全てが胸に刺さる。アメリカで1937年に発表された本作は、恐らく今新作として発表されたらノワールにカテゴライズされよう。だが、主人公の若者ボウイと、逃避行中に出会った恋人キーチーとの破滅含みの純愛を見ていると、今の「ノワール」とはまた少し違う物語であることも見えているように思うのだ。オススメ。

 

川出正樹

『ポケミス読者よ信ずるなかれ』ダン・マクドーマン/田村義進訳

ハヤカワ・ミステリ

 4月も中々に豊作だった。「最後の仕事」に臨んだ殺し屋の虚偽と暴力と喪失で形作られた人生がゼロ・アワーを機に大きくうねり変容し躍動する、巨匠スティーヴン・キング畢生の大河犯罪小説『ビリー・サマーズ』(白石朗訳/文藝春秋)。第二次世界大戦下のロンドンで凄腕金庫破りの女性とエリート情報将校の青年がスパイ網を暴くために心ならずも再び手を組むアシュリー・ウィーヴァー『金庫破りとスパイの鍵』(辻早苗訳/創元推理文庫)。寂寞としたひとときの幸福と明日の見えない逃避行を渇いた悲しみと諦念の漂う硬質な文体で活写するエドワード・アンダースン『夜の人々』(矢口誠訳/新潮文庫)。どれも独創的で面白く、中でも『ビリー・サマーズ』はキングの犯罪小説の最高峰かつ年間ベスト級の傑作であり、今月はこれで決まりかと思いつつ続いてダン・マクドーマン『ポケミス読者よ信ずるなかれ』を読了。一瞬、狐につままれたかのような気分になった後に、想定外の衝撃波が押し寄せる。な・ん・だ・こ・れ・は!? こんな珍味を味わわせて貰ったら推すしかないじゃないか。

 建国200年を迎える週末に、嵐で陸の孤島となったニューヨーク州の人里離れた会員制狩猟クラブで発生した連続死。大学時代の友人から招待された私立探偵マカニスは、虚飾と背信まみれのクローズド・サークルの秘密を暴き、犯人を捕らえるべく調査を開始する。

 “卑しき街を往く誇り高き孤高の騎士”ならぬ“卑しき人々の懐に入り込んだ油断のならない探偵(オプ)”が、クローゼットの中を探り骸骨の山を白日の下にさらす。これだけなら私立探偵小説スタイルで書かれた黄金時代本格ものを彷彿とさせるオーソドックスな謎解きミステリだ。けれども冒頭から“読者”に向かって語りかけてくる作者の存在が、この伝統的な物語の領域を外側から破壊する。黒塗りで一部の情報が伏せられた登場人物評。ミステリの規則や定義、犯行方法、さらには密室に関する蘊蓄コラム。アンケートに質問票。そしてなによりも随所で“読者”の思考を先回りして誘導する作者の声。これら物語に強制介入してくる外部要素が、本筋を上回って面白くかつ刺激的で、作者に翻弄されていると解っていながら読み進めていると終盤間際に来て、とんでもないことが起きる。な・ん・だ・こ・れ・は!? さらに結末に至って再び頭の中に谺する。な・ん・だ・こ・れ・は!? な・ん・だ・こ・れ・は!? 

「ポケミス70年の歴史上、最大の問題作」という帯の惹句はまさにその通り。「フェアでないミステリは最悪の詐欺だから」という作中で開示される作者の持論に反しないかどうかは、うん、大丈夫。ちなみに小山正氏が解説で述べている試みは、読了後、自分でもやりたくなること必死。ぜひ、ご一読の程を。

 

千街晶之

『ビリー・サマーズ』スティーヴン・キング/白石朗訳

文藝春秋

 現在七十六歳、今年で作家生活五十周年を迎えたスティーヴン・キングだが、そんなことを感じさせないほど近年の作品群もパワフルだ。中でも『ビリー・サマーズ』は、その長大な分量(キングの場合は平常運転だが)にまず驚かされ、次いで内容の充実ぶりにもっと驚かされる一作である。主人公のビリー・サマーズは腕利きの殺し屋。そんな彼に、ある男を抹殺してほしいという依頼が持ち込まれる。引退を考えていたビリーは、これを最後の仕事にするつもりで引き受けた。ビリーは極悪人しか殺さないのをモットーにしているが、ターゲットは文句なしの悪党だし、報酬もこれまでにない高額である。だが、殺しまでの段取りが依頼人側のペースで進んでいるのが気にかかる。彼はデイヴィッド・ロックリッジという架空の作家志望者になりすまして殺しの準備を進めるのだが……。殺し屋の「最後の仕事」をテーマにした作品には幾つもの前例があるけれども、そこはキング、すれっからしの読者の先読みを裏切るような意外な展開が続く。といっても、ジェットコースター的な進行となるのは後半であり、前半はむしろ殺しに至る地道な準備を悠揚迫らぬ筆致で綴っているのが読みどころで、前半も後半も小説を読むことの豊饒な歓びで満ち溢れている。しかも、作家を装うことになったビリーはもともと小説好きであり、実行の日までの待機時間を利用して本当に小説を書きはじめるのだ。作中作として織り込まれたその原稿に仮託して語られるビリーの過去から、殺し屋となった現在の彼の行動原理が浮かび上がってくる構想が実に心憎い。キングの全作品中でも上位に来る円熟の大作であると同時に、殺し屋小説の歴史に永遠に残る金字塔だ。

 

霜月蒼

『夜の人々』エドワード・アンダースン/矢口誠訳 

新潮文庫

 ベテラン犯罪者ふたりとともに刑務所を脱走した青年ボウイ。彼は仲間とともに銀行強盗をくりかえして日銭をかせぐが、やがてキーチーという娘と出会い、恋愛関係に入ってゆく――というストーリーがいずれ破滅に至るだろうというのは想像できるし、その意味では目新しくはない(1937年発表なのだから当然だ)。けれども本書は素晴らしく読み手の心をかき乱す荒々しくも抒情的な青春小説だ。たぶんこのマジックの核心は最小限の描写と見事な会話で、本書がニコラス・レイとロバート・アルトマンという優れた映画人を魅了したのも当然だろう。

 レイモンド・チャンドラーの絶賛と、「ノワールの原点」という言葉が帯にあるが、人工的な光と影に縁取られた都会小説としての「ノワール」ではなくて、もっと原初の――だから「原点」なのだろう――歩けば埃の巻き上がる「どこでもない土地」の風景が広がるアメリカ文学に直結する小説であり、だから解説にあるようにチャンドラーが本書を『二十日鼠と人間』を引き合いに出して激賞したのもよくわかる。いわば本書は、スタインベックとジム・トンプスンのあいだに橋を架ける作例なのだ。青春ノワールとして『彼らは廃馬を撃つ』と併せ読んでもいいし、ウェスタン的な風景と犯罪小説の交錯という点でジェイムズ・カルロス・ブレイクも僕は思い出した。

 まっとうに選べば4月のベストは間違いなく『ビリー・サマーズ』で、キングが持てる技巧を総動員して描く殺し屋小説であり、その技巧と筆力の双方によって、最高に美しいラストが実現されている。犯罪小説の傑作だし、キングの作品中でもトップ10に入るのではないか。とはいえ、そんな問答無用の大作の割を食っちゃったらイヤだな、ということで『夜の人々』を推す。埃に煤けた風景が、諦念と希望のないまぜになった主人公の心象を写して心に残りつづけるのだ。

 

吉野仁

『ビリー・サマーズ』スティーヴン・キング/白石朗訳

文藝春秋

 キングの新作は殺し屋ビリー・サマーズの物語。「最後の依頼」を引き受けた凄腕の暗殺者に待ち受ける運命は、どこか「陰謀にはめられたケネディ暗殺犯」を連想してしまったが、そんな調子でずっと物語は進むのかと思いきや、後半の意外な話運びに驚いた。次第にちりばめられた伏線が効いてくるなど、作家デビュー50周年も伊達ではない。作中作を含め、圧倒的な読みごたえで上下巻を堪能させられた。ホラーの苦手な読者にまで強く響くであろうキングの新たな代表作だ。そのほか、もしキングが出てなければこれを挙げていたのが、ネイサン・オーツ『死を弄ぶ少年』で、タイトルを含め、パトリシア・ハイスミスのリプリー・シリーズを連想したものの、次第にリプリーとは違う毒の強さを感じた。とくに、ふたりの主要人物の偏執ぶりが強烈だ。あとがきにはナボコフの影響下で本作を書いたとあり、主人公が文学を愛する大学教授で作家という面を含め、読んでいていろいろ興味深いところだった。そしてエドワード・アンダースン『夜の人々』が邦訳されたのは、ほんとうにめでたい。1937年刊、つまり昭和12年刊なので、スタインベック『二十日鼠と人間』と同じ年の発表(ちなみに日本だと乱歩「少年探偵団」シリーズ連載がはじまった年)ゆえに、時代を感じさせられるものの、ニコラス・レイ、ロバート・アルトマンらの映画化作品のみならず、のちに影響を与えた古典名作犯罪小説かつ青春恋愛小説なのである。ダン・マクードマン『ポケミス読者よ信ずるなかれ』はやはり一種の問題作といえるだろうか。ポケミスを読むようなマニアに向けたミステリなのだ。最近、こういう技巧に満ちたメタミステリが目立っているが、古典探偵小説に対してさまざまなつっこみをいれる部分よりも個人的には、ハメット某作に出てくる有名な逸話の考察やクリスティの失踪事件などの無駄話がやたらと楽しかった。なぜこの邦題になったのか、読んでいくとわかった。マリー・ルイーゼ・カシュニッツ『ある晴れたXデイに』は『その昔、N市では』に続くオリジナル短編傑作選で、不安や恐怖が生み出す日常の幻想が語られるかと思えば、それこそハメット某作の逸話をそのまま連想させられる作品があったり、男性作家が仕事をやめる決意をした話が語られるなど、それぞれに異なる題材ながらも、いずれもカシュニッツらしい味が出ており、しみじみと読んでいった。最後に、カーリン・スミルノフ『ミレニアム7 鉤爪に捕らわれた女』は、スティーグ・ラーソン亡きあとに書き継いだダヴィッド・ラーゲルクランツの次に就任した新たなミレニアムシリーズの新作。ラーゲルクランツがラーソンの完コピをめざしたのに対し、スミルノフはあくまで自分のスタイルにこだわったという感じで、この先、どう展開していくのかが楽しみである。

 

杉江松恋

『ビリー・サマーズ』スティーヴン・キング/白石朗訳

文藝春秋

 個人的にいちばん訳されて嬉しかったのはヤーン・エクストレム『ウナギの罠』だった。いったんは翻訳が上がっていたにもかかわらず某社編集部の机の中に消えたと囁かれる幻の一作である。密室殺人ものなのだが、その謎が読者の前に立ち上がってくる展開に芸があり、なるほどこういう手があるのか、と感心させられた。松坂健さん、『ウナギの罠』がついに本になりましたよ。見てますか。

 で、作品としてはやはりキングのこれを取り上げざるをえない。司法取引で誰かを不利にする証言をすることがわかっている男を狙撃して殺す。それが引退を決意したビリー・サマーズ最後の仕事だ。報酬は200万ドルと破格である。街に潜伏して標的がやってくるのを待つ間、サマーズに与えられたのは、館詰めになって原稿執筆に取り組んでいる作家という仮面だ。周囲の人間は知らなかったが、コミックブックばかり読んでいるように装っているサマーズは、実は大の文学好きだった。半自叙伝を小説の形式で綴るという機会の誘惑には耐えられず、サマーズはパソコンのキーボードを叩き始める。ただし、監視ソフトが入っていて自分の文章を誰かが読んでいるという可能性が捨てきれないため、いつもの知性が足りない男を装った文体で。このへんの文章の遊びがなんともたまらない。

 上巻は殺し屋の潜伏についての物語で、これをここまで長く書いた小説というのもあまり例がないように思う。いよいよ任務をこなす日が来てしまうと、これでサマーズの穏やかな日々は終わりか、と逆に残念に感じてしまうくらい、このくだりが楽しかった。そして上巻の終わりであるびっくりするようなことが起き、急転直下で別の展開へ。この下巻が何小説なのかは書かないほうがいいだろう。なるほどね。上巻が潜伏小説なら下巻はそうなるよね。でも、その要素は意外だった、とずっと感心しながらページをめくり続けた。殺し屋ものといえばローレンス・ブロックのケラー・シリーズが現代犯罪小説の最高峰だと思うが、それに肉薄する充実ぶりでありました。今年の必読作でしょう。

 作家生活50周年を迎えたスティーヴン・キングがますます衰えない健筆ぶりで頼もしい限りでした。その他の作品も意欲作ばかり。嬉しい悲鳴を上げたくなりますね。来月もこの欄をどうぞお楽しみに。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧