書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。
さて、いつも通りに始めましたが、今回はお知らせがあります。
2023年に北上次郎さんが急逝されて以来、六人体制でお送りしてきた書評七福神に、今回から翻訳家の上條ひろみさんが参加されます。長屋での連載でみなさんご存じのとおり、優れたミステリー読書家でもある上條さんに加わっていただくことはメンバー一同誠に嬉しいことです。その最初の原稿をどうぞご覧くださいませ。
というわけで今月も書評七福神始まります。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
千街晶之
『終の市』ドン・ウィンズロウ/田口俊樹訳
ハーパーBOOKS
小説家の断筆宣言というものは時として覆されがちなので、果たしてこの『終の市』が本当にドン・ウィンズロウの最後の作品になるかというと「さあ、どうだろう?」としか言いようがない。とはいえ、『業火の市』『陽炎の市』そして『終の市』と続いてきたこの三部作が、ウィンズロウの作家歴のフィナーレを飾るに相応しい充実した出来なのも確かだ。東海岸のマフィア同士の凄惨な抗争に巻き込まれ、自らも手を血で汚し、逃亡の果てに西の地ラスヴェガスで、堅気の実業家として押しも押されもせぬ地位を築いたダニー・ライアン。しかし、過去に犯した罪は、彼に穏やかな余生を送ることを許さない。ちょっとした行き違いが抜き差しならぬ対立を生み、そこにさまざまな思惑を抱えた勢力が介入することでトラブルは雪だるま式に膨らんでゆき、敵味方の屍が累々と積み重なる。前二作で愛する人を二人まで失ったダニーは、今度こそかけがえのない者を守り抜けるのか。私は終盤でダニーを襲う苛酷な運命を読んでいて、この三部作と同じく映画『ゴッドファーザー』を意識したという共通点があるNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で晩年の北条義時を見舞う運命を象徴した最終回の「報いの時」というサブタイトルを思い返していた。成功と失墜を繰り返した男の半生に現代アメリカ史の光と闇を絡めた、壮大な大河ドラマ犯罪小説のフィナーレを見届けてほしい。
川出正樹
『グッド・バッド・ガール』アリス・フィーニー/越智睦訳
創元推理文庫
結婚生活が破綻に瀕している相貌失認の男とその妻の心理戦に、妻から夫への配達されなかった一年ごとの秘密の手紙を加えた三つ巴のドラマが思いも寄らぬカタストロフィへと突き進む顛末を、緩急自在の展開とどんでん返しのつるべ打ちで一気に読ませる『彼は彼女の顔が見えない』から早二年。アリス・フィーニーの待望の新刊『グッド・バッド・ガール』が素晴らしく面白い。愛憎相半ばする母と娘の関係をテーマに、隅々まで入念に心を配って精妙な筆づかいで描かれた騙し絵である本書は、逸品ぞろいの既訳四作の中でも一頭地を抜く傑作だ。
秘密を抱え、後悔を押し殺し、重大な決意を胸に虚偽で身を固めた四人の女性――ロンドンのケアホームに入居させられた八十歳のエディス、彼女の年離れた友人でもある十八歳の介護スタッフ・ペイシェンス、母エディスとは長年犬猿の仲にあるセラピストのクレア、そして一年前に家出した娘を探し続けている刑務所の図書室長フランキー。スーパーマーケットでの嬰児失踪事件に端を発する母と娘の縺れた物語は、ケアホームで奇妙な死体が発見されエディスが姿を消した日に、新たな局面へと一気に動き始める。
作中で、これまた一癖ある警部が繰り返し口にする「三人の容疑者とふたつの殺人事件、それに被害者がひとりいるようです」というフレーズに、おやっと思いつつ、隠し事をしている四人の視点を頻繁に切り替えてスピーディーに展開される物語が、一体どこに向かうのか、そもそも何が起きているのかという強烈な好奇心に抗えず次々とページを繰ってしまう。そして終盤、それまで巧妙に配置されてきた布石と、綱渡りギリギリのラインに敷かれてきた伏線が、多重連鎖爆弾となって全貌を明かしていく手際の見事なことと言ったら。
世界を反転させて読者を唖然とさせる技量において、今、最も優れた書き手であるアリス・フィーニーの超絶技巧サスペンスである『グッド・バッド・ガール』は、読了後、すぐに再読して技巧の妙を確認したくなる傑作だ。
上條ひろみ
『終の市』ドン・ウィンズロウ/田口俊樹訳
ハーパーBOOKS
「長屋」から引っ越してきた上條ひろみです。本業は翻訳者ですが、今月からなぜか書評七福神のみなさまのお仲間に加えていただくことになりました。どうぞよろしくお願いします! これまでマイペースで読んでいたので、新刊を刊行月内に読むって大変!というのが今の正直な感想ですが、わたしなりの視点で今月の一冊を紹介できればと思っています。ひゃー、緊張するー!
六月刊の本のなかでわたしがいちばん心をわしづかみにされ、夜を徹して読まずにいられなかったのは、なんといってもドン・ウィンズロウ『終の市』。『業火の市』『陽炎の市』からつづく新三部作の完結編です。ロードアイランド州プロヴィデンスからカリフォルニア州ハリウッドときて、今回のおもな舞台はネヴァダ州ラスヴェガス。イタリア系マフィアとの壮絶な抗争の末に西へと逃れ、映画業界で意外な成功を手にしたアイルランド系マフィアのダニー・ライアンは、母親のいるラスヴェガスでカジノホテルの経営に乗り出す。バランス感覚が絶妙で、独特な勘のよさもあり、何をやってものし上がってしまうダニー。シングルファーザーとして子育てにも奮闘していて好感度は抜群だ。しかし、マフィアの生き方を封印して堅気のビジネスマンに徹するダニーを、過去の亡霊たちが追いかけてきてどこまでも苦しめる。エピローグで息子のイアンが語っているように「まっとうではない世界で、懸命にまっとうに生きようとした」ダニーは、男も女も惚れずにはいられないいい男だ。彼のような男がアメリカの理想なのだろうか。恋人になったら大変そうだけど。『犬の力』からの三部作がヘビーでダメだった人も、この新三部作ならそれほど抵抗なく読めるのでは。それにしても、これがドン・ウィンズロウの最後の作品だなんて、うそでしょ?
六月刊ではほかに、『ハリー・ポッター』のホグワーツ魔法魔術学校を彷彿とさせる細かい設定が楽しいルパート・ホームズ『マクマスターズ殺人者養成学校』(奥村章子訳/ハヤカワ・ミステリ)や、母娘の複雑な関係に気を取られているうちに足元をすくわれる、たくらみに満ちたアリス・フィーニー『グッド・バッド・ガール』(越智睦訳/創元推理文庫)も印象に残った。
霜月蒼
『終の市』ドン・ウィンズロウ/田口俊樹訳
ハーパーBOOKS
ウィンズロウの最後の小説を読み終えてしまった。『業火の市』『陽炎の市』につづく三部作完結編である。ロードアイランドのアイルランド系ギャングのダニーを主人公に、同地のイタリア系犯罪組織との衝突からの敗北、カリフォルニアへの流浪からハリウッドでの復活を描いてきた大河犯罪小説は、ラスヴェガスで幕を閉じる。登場人物たちの欲情や強欲や弱さが物語のカギを握るという意味で、ウェットでロマンティックでオペラティックな作品になっている。
『ゴッド・ファーザー』の流れに連なる正統派ぶりを見せた第一作から、ハリウッドを舞台として狂騒と華麗が交錯する第二作、そして主な物語が「合法的」なものとなる本作と、古風と言っていいほどの栄枯盛衰の物語をウィンズロウは悠然と語ってゆく。『犬の力』から『ザ・ボーダー』への三部作で凄惨なできごとを冷たく叙述してゆくドライな筆致をつきつめたウィンズロウは、最後の大仕事で等身大のパースペクティヴを選び、人間の情のもたらす悲劇に焦点を合わせた。あわてずにじっくり読んでいただきたい大作です。
ほか、キングが犯罪小説専門出版社のために書いた『死者は嘘をつかない』はコンパクトだが凝ったアイデアが冴えたホラー・サスペンスで、楽しんで読んだ。幽霊との交信をこういう用途に使うというのを、酒席のジョークならともかく、物語の重要な要素に使ってみせるところがキングの豪腕である。
吉野仁
『終の市』ドン・ウィンズロウ/田口俊樹訳
ハーパーBOOKS
ドン・ウィンズロウによる『業火の市』『陽炎の市』とつづいた新三部作の掉尾をかざるのが『終の市』だ。現代ギャングたちの血の抗争がいよいよクライマックスへと向かい、現在形でつづられた詩的な文章による物語は心に響きわたり、なにか荘厳さまでをも感じるラストだった。じゅうぶんに堪能した。しかしながら、この作品をもってウィンズロウは小説家を引退すると宣言しており、残念でならない。『ストリート・キッズ』もしくは『仏陀の鏡への道』を読んだときの初々しさと力強さをあらためて思いだすとともに、ドンの退去にいくばくかの寂しさも感じてしまう。そのほか、とても印象に残ったのが、平原直美『クラーク・アンド・ディヴィジョン』だ。時代は一九四四年、場所はアメリカのシカゴ、主人公は日系二世の若い女性アキ・イトウと単なる歴史ミステリーではなく、日系人は三人以上集まることが禁止されていた戦時下のなか、ヒロインの姉の不審な死をめぐる探偵小説で、当時の状況が活写されているともに、さまざまな人間模様も読ませる青春小説でもある。ク・ビョンモ『破砕』は、第十五回翻訳ミステリー大賞を受賞した『破果』の外伝的な短編で、爪角が殺し屋になるべく訓練を受けていた過去が描かれており、張りつめた鋭い感覚が伝わってくる作品だ。殺し屋の訓練といえば、上司を殺すために殺人者養成学校で殺人を学ぶ主人公の物語、ルパート・ホームズ『マクマスターズ殺人者養成学校』で、かつて「ヒム」を歌ったルパート・ホルムズが作家のホームズになって帰ってきたことにも驚いた。『破砕』とは対照的にすべて洒落で書かれたような小説で、音楽ネタのくすぐりなども含め、このまじめにヘンな話を愉しんだ。M・W・クレイブンは、ごぞんじ『ストーンサークルの殺人』ではじまる〈ワシントン・ポー〉シリーズの著者だが、もし作者名が隠されたまま読めば誰が書いたか分からないほど、がらっとスタイルの異なる新作『恐怖を失った男』を発表した。こんどは流れ者の一匹狼タフガイ、冷酷非情な男ケーニングを主人公にハードな活劇スリラーなので、読めば読むほどその作風の変化に驚かされた。アリス・フィーニー『グッド・バッド・ガール』は、ロンドンのケアホームを舞台にした母娘もの家族サスペンスで、こちらは驚かせることを得意とする作者の新作なので、なにがあっても驚かないぞと身構えたが、複数の語り手による短い章立てがくりかえされ、それぞれの人間関係や話している話題がどう結び付くのか、すなわちバラバラのパズルがどう組み合わされれば正しい絵柄になるか、なんとなく予想がつきながらもひねりがあり、結局は驚かされるのだった。マウリツィオ・デ・ジョバンニ『P分署捜査班 鼓動』、こちらは驚きというよりも気持ちがやきもきしてしまう警察小説。というのも今回は、赤ん坊と子犬という弱き存在の保護や発見が物語の軸になっているのだ。シリーズ第四作ともなると、捜査模様と並行して描かれる署員らの私生活にも馴染みが出ており、そのダメ男ぶりと人情味の深さがあわさって、ますます物語に引き込まれてしまった。C・J・ボックスによる〈ジョー・ピケット〉シリーズ第17作の『暁の報復』は、第15作『嵐の地平』の事件をひきずって展開しているので、そこだけ注意したほうがいい。まずは民間航空パトロールのセスナで空の上から行方不明者を捜索していくという幕開けでワイオミングの大自然を意外な視点から見せ、やがて因縁の悪党たちとの戦いが展開していく熱い物語だ。文庫オリジナルで刊行されたスティーヴン・キング『死者は嘘をつかない』は、死者が見えて彼らと会話できるという異能をそなえた少年が主人公で、彼が二十二歳の青年になって過去を振り返るというスタイル、死者は嘘がつけないというルール、そしてシングルマザーである母の友人が刑事だったり爆弾魔が登場したりするストーリーと単なる超自然ホラーで終わらない妙が最後まであって、ウィンズロウより6歳上のキングはまだまだ現役の帝王でいつづけてほしいと願うばかりだ。
酒井貞道
『マクマスターズ殺人者養成学校』ルパート・ホームズ/奥村章子訳
ハヤカワ・ミステリ
環境も施設も良いが脱出困難なキャンパスに、老若男女問わず様々な人物が学生としてやって来て(大半が学費を納めて自発的にやって来るが、主人公は拉致されてやって来る)、人殺しの手法を学ぶ。これだけ聞くと職業的な殺し屋の養成学校だと思ってしまいそうだが、学生たちは自分のための殺人――ほとんどのケースで知り合いを、自分自身のために殺害することを目標にしている。そして学校では、殺したい相手がいても無暗に殺せば良いというものではなく、複数の条件を満たさないと殺してはいけないと教えられる。ミステリの世界で殺しを教えているのに、意外と良心的である。ただし、失敗すると学生自身が「削除」される、厳しい設定もあって油断はできない。プロを育てているのではなく、アマチュアが自分のために頑張るのがミソで、主人公をはじめ数名の登場人物たちの、やむにやまれぬ事情が丁寧に描写されて、読者の胸にそれがすっと染み込んでくる。この手の設定の物語で、この読み口は珍しい。作者が1947年生まれ(作品の本国刊行は2023年)と結構なお歳であるせいか、主要な学生の年齢が30代前後と年齢設定がやや高めで、登場人物たちの言動には若さと成熟の綱引き感じられ、物語に深みをもたらすことに一役買っている。好きな人には間違いなくぶっ刺さる作品だ。
杉江松恋
『終の市』ドン・ウィンズロウ/田口俊樹訳
ハーパーBOOKS
解説を担当した作品ではあるのだが、6月は本作を措いて他にないと思う。犯罪小説の大家が引退を決めて書いた三部作の最終作である。この説明だけで感じるものがある方はお読みになることを勧めたい。
正直、第一作の『業火の市』を読んだときはウィンズロウのやりたいことがぴんと来ず、巻末の千街晶之氏解説を読んで、なるほどと感じ入った次第である。次の『陽炎の市』は途中までは通常のギャング小説フォーマットに則っているのだが、後半がまったく違う。だってハリウッド小説になるのだもの。そして本作『終の市』は、ハリウッドと並ぶ夢の国・ラスヴェガス小説だ。バグジー・シーゲルじゃないか、これ。元ギャングの主人公がカジノホテル王を目指して表裏の手を尽くしていくという物語で、ギャング小説的な雰囲気は薄いのだが、緊迫感のある話運びですこぶるおもしろい。どうなるのかわからないけどおもしろいな、ほとんど犯罪小説じゃないけどもうこのままでもいいや、と思っているところで前半が終わって折り返し点からウィンズロウの意図がわかる展開になっていく。犯罪小説であると同時に、すこぶるおもしろい小説であった。
解説にも書いたが、ウィンズロウは「偉大なるアメリカの小説」を書きたかった人なのだと思う。ニック・ケアリーものの第四作『ウォーター・スライドをのぼれ』の解説を依頼されたとき、このシリーズは変わりゆくヴェトナム後のアメリカを書く連作になっているな、と気づいた。壮大な『犬の力』三部作は、アメリカが帝国主義的支配関係を維持するために行ったことが、まわりまわって自身の首を絞める結果になっていることを示した、国家の犯罪を描く小説だった。最後はドナルド・トランプ批判にまで結びつき、アメリカの現在を諷刺する小説として完結したのである。アメリカのすべてを書き尽くそうとした犯罪小説作家として、永くその名を残すことになるだろうと思う。こんなことは他の誰もやらなかった。ウィンズロウ、あなたは素晴らしい作家だったよ。でも、いつだって戻ってきてくれていいんだぜ。
やはり今月はウィンズロウへの言及が多くなりましたね。本当に引退してしまうのか、まだ信じられない気がします。おつかれさまです。そして、上で紹介した通り、今月から上條ひろみさんに加わっていただきました。新生七福神を、今後ともお引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。(杉)
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