書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。
というわけで今月も書評七福神始まります。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
川出正樹
『悪い男』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由美子訳
東京創元社
今月のベストは、“灰色の物語(グレイ・サガ)”の語り手アーナルデュル・インドリダソンによる《犯罪捜査官エーレンデュル》シリーズの七作目の翻訳作『悪い男』だ。このシリーズの最大の特徴は、レイキャヴィク警察の犯罪捜査官であるエーレンデュルと同僚が対峙する犯罪の誘因が、黒とも白とも言い切れず常に“灰色”であることだ。スウェーデンの新聞インタビューで、「殺人者が最悪の悪者であることはめったにない」「なぜ殺すに至ったのか、真の動機はなんなのか。私はそれを書きたい」と旗幟を鮮明にしているように、エーレンデュルたちがたどり着く真相は正邪渾然一体であり、大団円に胸がすくことはない。捜査側が納得のいく結末を迎えることが出来ないこともまれではない。それ故、昇華しきれない思いが、読後長く心に留まるのだ。
にもかかわらず推すのは、魅力的な謎とサスペンスフルな捜査過程で読み手を引き込むエンターテインメントだからだ。アイスランド伝統のサガに倣い、くだくだしい描写を省いた簡潔な文章でテンポ良く物語を展開するアーナルデュルの作品は、テーマの重さとは裏腹に驚くほど読み易い。重厚長大で読み応え十分な反面、時に胃もたれしてしまう類いのミステリではないのだ。
今回、主人公エーレンデュルは、とある理由から登場せず、代わりに彼の同僚のエリンボルクが主役を務める。レイキャヴィクの人気住宅地にあるアパートの一室で血の海の中に横たわったいた若い男の死体。鋭利な刃物でノドを切り裂かれた男は、上着のポケットにレイプドラッグを入れていた。強姦常習犯と思しき男を殺したのは、彼の被害者なのか?
現場に残された特徴的な匂いが残るスカーフを手掛かりに、料理に凝りレシピ本も刊行しているエリンボルクが、一見単純に見えるものの容疑者を絞りきれない事件の真相に迫っていく過程が面白い。警察官であると同時に、自動車修理工であるパートナーとの間にもうけた三人のティーンエイジャーの母でもある彼女の生き方、悩み、信条も絶妙のさじ加減で描かれており、「普通の人の暮らし」に関心を持つ作者ならではの血肉を備えた物語として堪能した。それ故、今回の幕切れが何ともやるせなく胸に迫るのだ。シリーズ中でも取り分け澱となって残りそうなこの終わり方に。
吉野仁
『悪い男』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由美子訳
東京創元社
インドリダソンによる〈捜査官エーレンデュル〉シリーズの第七作。ところが今回はエーレンデュルではなく、女性警察官エリンボルクが主人公をつとめる。レイキャヴィクのとあるアパートで、ある人物が首を切られて死んでいた事件をめぐる物語ながら、予想を裏切る展開のくりかえしだけでは終わらない。さすがインドリダソンは最初から最後まで波乱を感じさせながらぐいぐいと読ませる。家族をもつヒロインの私生活をふくめ、深い人間ドラマを今回もまた堪能した。今月は、キャサリン・ライアン・ハワード『ナッシング・マン』もベストに挙げたかった。警備員ジムがぐうぜん見つけた犯罪実録本『ナッシング・マン』を読んでいく。その本の著者は、十二歳のとき家族を連続殺人鬼に殺された女性で、成人したのちに事件を取材し『ナッシング・マン』を発表した。作中作がもりこまれており、例によって、作者ならではの手のこんだ企みに驚かされる小説だ。手がこんでいるといえば、紫金陳『検察官の遺言』も、スーツケースに入った遺体が発見されるショッキングな導入部から、ある教師の冤罪事件へとつづくものの、事件の真相は想像もしなかった地点に到達し、驚かされた。ハビエル・セルカス『テラ・アルタの憎悪』は、スペインの田舎町で起きた富豪夫妻の惨殺事件をめぐるミステリ。なんといっても主人公の刑事メルチョールの個性が強烈で存在感がある。何者かに母親を殺されたという過去もさることながら、ユゴー『レ・ミゼラブル』を愛読書とし、十九世紀の小説をこよなく愛する警察官なのだ。ジョアン・トプキンス『内なる罪と光』は、アメリカの東海岸の町を舞台に、息子を殺された父と謎の少女をめぐる物語で、少女の名がエヴァンジェリンであるとおり、どこまでも宗教色の強い長編。一方、軽妙に愉しませてくれたのが、ホリー・ジャクソン『受験生は謎解きに向かない』。これは高校生ピップが活躍した『自由研究には向かない殺人』の前日譚で、なんと架空の孤島を舞台にした犯人あてゲームがくりひろげられるのだ。短い作品ながら、この作家による痛快な感覚と凝った趣向には毎回やられっぱなしだ。
霜月蒼
『屍衣にポケットはない』ホレス・マッコイ/田口俊樹訳
新潮文庫
ホレス・マッコイの主人公たちはいつもナイーヴで青くさくて、自意識過剰な高校生のようだ。そんな男子がイキがった挙句にどんづまりに追い込まれる。ホレス・マッコイの小説はどれも、脆さゆえにガラスのように砕けてしまう青春小説のようで、本邦初訳の本作もそうである。
主人公は地方都市の新聞記者マイク。どんなスクープを持ってきても政財界に忖度してボツにされるのに飽き飽きして、彼は仲間とともに雑誌を起ち上げ、これまで記事にできなかったスキャンダルを次から次へと誌面で大展開しはじめる。しかしマイクは「正義と真実の使徒」という感じではなく、とにかくひたすら義憤に駆られているのである。難しい理路はなく、「大人は汚い!」を叫ぶ少年のような闇雲な怒りだ。それをひたすら燃やして醜聞を暴きつづける彼の姿が、柔弱な青春小説とふてぶてしいノワールを奇蹟的に同時に成立させる。そして読む方としては、ああもう本当におまえは!マイク!という気持ちで、彼の破滅を見守ることになるのだ。
なお杉江松恋の解説を先に読んでおくと、謎の女マイラの読み方が補正されて得をします。1938年の小説であるはずなのに、レイシズムや外国人嫌悪やスキャンダルを書かない有力新聞、といった要素が古びていないどころか現在そのままなのもポイント。これはかなりの傑作です。
千街晶之
『受験生は謎解きに向かない』ホリー・ジャクソン/服部京子訳
創元推理文庫
『自由研究には向かない殺人』『優等生は探偵に向かない』『卒業生には向かない真実』と続いたホリー・ジャクソンのピップ三部作が衝撃的な結末を迎えた余韻も醒めやらぬうちに、その前日譚が登場した。同級生の家で行われるマーダー・ミステリ・ゲームに招待されたピップ。自由研究の課題がまだ決まっておらず、それどころではない気分だった彼女だが、実際にゲームが始まってみるとノリノリで謎解きに没頭することに……。一九二四年の孤島にある富豪の館が舞台という設定で、ピップと同級生たちは富豪一族とその使用人たちになりきり、与えられた手掛かりをもとに互いを疑いあうのだが、なにしろ自分が犯人なのかそうでないのかも知らされていないゲームなので、自分に与えられた役を手探りで演じなければならない綱渡りの緊張感が全篇に漂う。そして、自分なりに辿りついた真相を披露したピップを待ち受けていた結末は、本格ミステリファンなら誰でも味わった経験があるのではないだろうか(そこから『自由研究には向かない殺人』へのつなげ方も巧い)。二百ページもない短めの作品ながら、そこに凝縮された謎解き趣味に大いに満足させられた。
酒井貞道
『ナッシング・マン』キャサリン・ライアン・ハワード/髙山祥子訳
新潮文庫
誰にも正体を知られず暮らしている連続殺人事件の犯人が、自分が起こした事件を題材とする犯罪実録(生き残った被害者が著者)を読み、冷や汗や脂汗を流す。
この作品の題材の種子は間違いなくこの珍妙なシチュエーションである。この作者らしいアイデアだと思うが、もちろん肝心なのは、アイデアそれ自体ではなくそれをどう実際の小説に化けさせるかだ。この点で『ナッシング・マン』は、ハワードとしても会心の出来ではないかと思うぐらい、見事なスリラーとして成立している。作中作の使い方がとても上手い(どう上手いかはもちろん書けない)し、犯人が実生活ではうだつが上がらずフラストレーションを溜めていく様、実録の著者=被害者にも隠し事があるらしい怪しさ、被害者に犯人が会いに行こうとする緊張感と先行き不透明感など、物語はあの手この手で読者を牽引する。終盤の展開も実に劇的。オススメです。
杉江松恋
『悪い男』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由美子訳
東京創元社
ミステリーの着想では『ナッシング・マン』、小説としての品質では『悪い男』で、キャラクターのおもしろさでは『テラ・アルタの憎悪』というのが今月の評価ではないだろうか。その中で『悪い男』を選んだのは、もう、好みの問題と言うしかない。
アイスランド警察小説の人気シリーズ第6弾で、今回は主人公の偏屈男・エーレンデュルは出てこない。どこかに行って行方不明なのである。どうするかというと、同じチームのエリンボルクが主役を務める。ちなみに次作でもエーレンデュルは不在のままでシグルデュル=オーリの話になっているらしい。いろいろ考えるものである。警察官が誰にも行き先を告げずにいなくなっていたら、日本だったら大問題になると思うが、アイスランドでは違うのだろうか。
今回の事件はレイプドラッグを使って次々に女性を襲っていた男が殺害されるというものである。そういう被害者だという時点で殺人犯の動機はほぼ見えているだろうし、事件の真相もそこまでひねりのあるものではない。にも拘わらず読まされてしまうのは、男の犯した罪の深さを丹念に掘り下げて書いているからだろう。レイプによって破壊されてしまった人生がいかに辛く重いものになるかということを複数の登場人物が語ることによって描き出されていく。ある登場人物は被害者とセックスをしたのかと聞かれて、していないと答える。行為はあくまで暴力によるもので、同意の上のセックスではないからだ。簡単なやりとりなのだが、この会話だけで女性が負った傷の深さと怒りの程が明らかになる。こうした形で登場人物たちを素描していくのがインドリダソンは抜群に巧いのである。脇役の一人ひとりに至るまで生彩に飛んでおり、孤独な人間は孤独なままに、迷える者はどこにも行き着くことなくインドリダソン世界に存在する。ある中年男性は、明らかに脇役なのだが、その侘しい有り様が目に浮かぶようであった。小説家としての到達度では、イギリス作家のアン・クリーヴスが唯一これに比肩しうる存在であると思う。感心するほどに上手い。
2024年最初の月は、刊行点数はそれほどではないものの、なかなかに粒ぞろいだったように思います。この調子でどんどん行ってもらいたいものですね。さて、来月はどのような作品がここに並びますことか。どうぞお楽しみに。(杉)
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