うっわ懐かしいという声が聞こえそう、今回はマーシャ・マラーの私立探偵シャロン・マコーンのシリーズを取りあげます。サンフランシスコを舞台に庶民のための弁護士事務所の若き探偵として初お目見えしたのはアメリカ本国で77年、日本で80年の『人形の夜』。ショショーニ族の血を8分の1受け継いでいてアイルランド系に見える家族の誰とも違ってご先祖ぽい風貌でチョコレートが大好き、タフでありながらダメダメな友人や家族に手を差し伸べずにいられない頑張り屋。女性探偵としてはサラ・パレツキーのヴィクよりもスー・グラフトンのキンジーよりも早い登場だったことになります。本国でも2作目が出るまで5年かかったこともあり、長編邦訳はあいだが飛んで全部で9作、2004年の『沈黙の叫び』までとなりますが、本国では最新作となる昨年の34作目まで順調に書き続けられている長寿シリーズなのです。
 で、すみません、未訳を全部読破して記事を書けたらよかったのですがちょっと多かった。『沈黙の叫び』以降のシャロンについてどれか1冊読むならばと選んだのは、刊行当時からとても気になっていた27作目『Locked In』です。シェイマス賞の2010年度長編賞受賞作。

 Locked In=閉じ込め症候群の話です。いまでは独立して自前の探偵事務所を構えて何人もスタッフを雇い、サンフランシスコでは有名人となっているシャロン。愛車は相変わらずMG。『沈黙の叫び』でパートナーとして描かれていた警備会社経営のハイ・リピンスキーと結婚しており、半年前に事務所の日々の経営から一歩退いて自分が本当に関心のある事件だけに集中することにしてようやく余暇の時間が取れるようになったところですが、夜間に忘れ物をとりに無人の事務所にむかい何者かに襲われて頭部を撃たれます。10日後に意識は完全にもどって周囲の声も聞こえて視界もはっきりしているのに、目蓋と眼球しか動かせない閉じ込め症候群となっていることがわかります。骨と弾丸のかけらが脳を圧迫しているのですが、取り除く手術は高い確率で生命の危険を伴う。夫のハイは医師から『潜水服は蝶の夢を見る』を例に、数カ月で死亡することが多いけれど数年もつ例もあると説明を受けて苦悩します。

 シャロン本人は絶望と悲観と激怒、感情がめまぐるしく移り変わるなかでも強く生きようとします。もう一度、夫と乗馬を楽しんで趣味のセスナで空を飛びたい。まばたき一度がイエス、二度がノーと決めて周囲に意志を伝え、なんとかつま先を動かそうとします。次々に見舞いに訪れる事務所のスタッフたちの計画を聞き、安楽椅子探偵というのがいるのだから、わたしは閉じ込め症候群探偵になって事件を解決してやる、と考えます。

 スタッフたちの計画というのは、捕まっていないシャロン襲撃の犯人は事務所が現在抱える事件について資料を探っていたと考え、それぞれが手がける事件を徹底的に洗い直して犯人を割りだす、というもの。弁護士事務所時代からアシスタントだったレイはシャロンの事務所が無償で協力しているベイエリア女性被害者未解決事件救済団体の調べる3年前の売春婦殺害を、シャロンの甥でもあるミックはセレブのID乗っ取りを、ストリートでタフな生活を送っていてシャロンに救われたジュリアはワイナリー経営者夫妻の息子の失踪を、元FBI特別捜査官のクレイグは議員がらみのスキャンダル内部告発を追う1週間が、多視点でテンポよく進行していきます。

 シャロンが動きまわって調査するシーンはないのですが、登場人物それぞれが彼女への思いを胸に動いて結果的にシャロンの存在感が際立つ作りです。彼女のまいてきた種がいかに大きく育ったかを感じる信頼の物語。シャロンてば、この状況で身内のある苦難を聞かされてわたしが支えにならなくちゃ、あ、そのためには回復しなくちゃと考えるんですよね。彼女のまわりに人が集まってくるのには理由がある。

 そして、シャロンの実父がいい、めっちゃいい。ほかの身内にはたしかに心配はしていても自分の感情をぶつけているだけでシャロンやハイにとっては迷惑でしかない人なんかもいるなかで、冷静に真理をついてくる姿勢。彼のセリフを読むためだけにも本作を手にしてほしいくらい。

 主役の危機なのでおもだったスタッフ家族友人がもれなく登場して状況が詳しく説明されているので、その後のシャロンを知るのにも、逆にまったく予備知識なく読むのにもこれはいい作品かも。シャロンは養父母に実父母、それぞれにきょうだいがいる複雑な家庭環境ですし、事件解明の部分も入り組んだ物語なんですが、マーシャ・マラーうまいですね、とてもわかりやすいのです。いいシリーズなんだけどな、邦訳が途切れてしまったのがほんと残念です。28作目以降の紹介文にざっと目を通しましたが次の『Coming Back』、33作目の『The Color of Fear』あたりも読んでみたいですね。

 著者マーシャ・マラーは来年3月、アメリカ探偵作家クラブの75周年記念で夫ビル・プロンジーニとの共同編集でアソンロジー『Deadly Anniversaries』が刊行される情報が出ています。

三角和代(みすみ かずよ)
訳書にタートン『イヴリン嬢は七回殺される』(仮・8月刊行予定)、カー『盲目の理髪師』、バーク『償いは、今』、カーリイ『キリング・ゲーム』、ハーウィッツ『オーファンX』、ジョンスン『霧に橋を架ける』、アンズワース『埋葬された夏』、テオリン『夏に凍える舟』、プール『毒殺師フランチェスカ』他。ツィッター・アカウントは@kzyfizzy

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