「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 屑のような人間が発した「俺を分かってくれ」という叫びが聞こえてくる、そんな小説が好きです。
 歪んだ判官びいきなのだと思います。
 その登場人物が、同情の余地がなければない程、好きになる。私欲のために悪事を犯す嫌な奴だからこそ、愛おしくなるのです。
 何故なら、そういう人は、現実世界でもフィクションの世界でも決して全肯定されることはないから。
 クライム・ノヴェルが好きなのは、そういう、世界に否定されている人間の叫びを拾い上げてくれるためだと思います。作品世界で肯定的に書かれるわけではない。けれど、顧みてくれる。
 以前、W・P・マッギヴァーンは優しいと書いたことがありましたが、それは他のクライム・ノヴェル作家に対しても言えます。ジム・トンプスン、ハドリー・チェイス、デビッド・グーディス……彼らの書く世界は、僕にとっては、とてつもなく暖かい。
 エド・レイシイも、そうした優しさを感じる作家のひとりです。
 特に今回紹介する『さらばその歩むところに心せよ』(1958)などは、作品自体も、主人公も、ただただ愛おしいと感じるような、そんな一冊です。

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 『さらばその歩むところに心せよ』は主人公である悪徳警官バッキーと、年長の相棒ドックが隠れ家で待機している場面から始まります。
 彼らは何か悪いことをして、百万ドルを手に入れたらしい。けれど、その悪事が何かというのはまだ明かされない。
 どうしてこんなことになっているのだろうと思ったところで章が切り替わり、バッキーの回想が始まります。回想といっても、犯行の直前ではなく、もっと遠いところ、彼の幼少時代がスタート地点です。
 この回想の中でバッキーにとって第一の契機となった出来事が話され、また章が切り替わって、現在パートへ戻る。その後、現在パートと回想パートは基本的に交互に進んでいきます。所謂、カットバック形式です。
 このカットバック形式で現在と過去の物語を描いていくというのが本書のキモの部分となります。
 現在パートでは、何かを終えたあとの悪徳警官二人の動向が描かれる。
 回想パートでは、その何かをするに至るまでのバッキーの半生が描かれる。
 彼らが何をしたのかは、回想が現在に追いつくまで語られない。そこがフックであり、ページをめくる求心力になっている。
 ここが、本書最大の仕掛けです。
 仕掛けといっても、別に読者を騙したり、驚かせたりする類のものではありません。ただ、作者はこの構成に、ある狙いを重ねているのです。その狙いとは、読者にバッキーという人間がどんな人間なのかを理解させるというものです。
 バッキーという男は、どのように育ったのか。どういう変遷をたどって、悪徳警官になったのか。一章ごとにエピソードが積み重ねられていき、回想パートを一通り読み終えたあたりで、読者はバッキーのことを完全に理解します。
 彼は、自分自身の手で何かを掴みとれたと実感を持てたことがない人間なのだ、と。
 最初のつまづきは、義理の父親ネイトとの仲違いです。
 誰よりも尊敬していた父親からの愛を信じられなくなったバッキーは、別の誰かからの承認を得たいと願う人生を歩み始めるのですが、しかし、何もかもが上手くいきません。
 大英雄になりたいと入った軍隊では、確かに勲章をもらえた。けれど、それは彼が自分の意志で行った行動に対して正当に与えられたものではなく、ただの棚ボタでしかない。軍隊を辞めて、もっと、自分の力で手にしたと実感できるものを、と求めるも、自分の意志で行ったことは全てが裏目に出る。と思ったら、また棚ボタで都合の良いものが降ってくる……。
 自分にとってプラスになったものは、全て運が良かっただけ。逆にマイナスになったものは、全て自分のせい。
 バッキーという男の人生はこれの繰り返しで、当然、自尊心などというものはズタズタになっていきます。その末に、彼は悪徳警官にまで堕ちるのです。
 ここまで読者が理解したところで、回想パートは現在時点の一歩手前まで追いつき、バッキーとドックが犯した罪が何なのかが、とうとう語られます。

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 回想パートの時制がその地点に至ってからは、物語が一気に加速します。
 そこまでスパンの長かった出来事と出来事の間が詰められ、バッキーとドックの周囲の状況は目まぐるしく変わっていきます。
 やがて、二人に決断の時は訪れ、物語はとうとう本書の冒頭部分、ゼロ時間へ辿りつき、クライマックスに至ります。
 このクライマックスからラストシーンに至るまでの展開が、ただただ素晴らしい。
 絶望的な地点へ向けて突っ走る加速具合、そこで待っている読者の意表を突くツイスト、それを無理に感じさせない伏線の数々、こちらの心を揺さぶってくる最後の数段落の文章……様々な角度から見て最上級の収束のさせ方なのですが、なんといってもそれらをバッキーの人生という線で、一本筋を通しているところが凄まじい。
 本書の展開は、最後の一行に至るまで、全てが必然的なのです。
 何もかもを自分の力で手に入れることができなかった彼の物語なのだから、色々なものがこう収まっても仕方ない。読者にそう思わせるような書きっぷりで、意外でありながらも、ここに落ちるしかないという説得力があるのです。
 バッキーという、どうしようもない屑のような人間の物語として、作者は本書を書ききっているのです。

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 エド・レイシイの作品は、弱者に対しての優しい視線があると評されることが多いようです。また、彼の作品の主人公のほとんどが何らかのハンディキャップを背負っている、とも。
 まさしくその通りだと思いますが、しかし、本書に関してはその評は不適切だと思われる方もいるかもしれません。
 先に示した通り、バッキーは権力を悪用する悪徳警官で、一般的な意味合いとしては強者として扱われる立場です。
 また、ハンディキャップという点においても異質です。
 バッキーは、確かに歪んだ家庭事情というハンディキャップを背負ってはいますが、たとえば『ゆがめられた昨日』(1957)や『褐色の肌』(1969)の主人公らとは違って、それを背負って戦おうとはしません。その重みに負けて、悪の道を歩んでしまった人間です。
 しかし、僕は、だからこそ、バッキーは弱者であると主張したいのです。
 バッキーは、自分に課せられたハンディキャップに負けてしまう、どこまでも弱い人間なのです。
 現実にいたらきっと、誰からも同情されないだろうし、作中でも恐らくはほんの数人以外からは極悪人とみなされて終わってしまう、そんな奴です。
 そんなバッキーを主人公に、彼が彼だからこそ必然的に発生した犯罪の一部始終を描ききったレイシイはやはり、どこまでも優しいと思うのです。
 『さらばその歩むところに心せよ』は、僕にとって、特別な小説の一つです。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人三年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby