書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」はご覧いただけているでしょうか。その二人+文藝春秋編集者永嶋俊一郎氏による上半期の翻訳ミステリー総括イベントの動画を公開しています。よろしければこちらからご覧ください。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

川出正樹

『マンハッタン・ビーチ』ジェニファー・イーガン/中谷友紀子訳

早川書房

 凄い本を読んだ! 「不思議で、荒々しく、美しい海」の如き『マンハッタン・ビーチ』は、2019年のMust Read本だ。舞台は第二次世界大戦下のニューヨーク、ブルックリン海軍工廠で働く海に魅せられた十九歳のアナは、女性初の潜水士を目差す。禁酒法廃止の翌年に始まる本書は、男社会の中で闘い生き抜き自立する女性の物語であり同時に、アイルランド系とイタリア系の犯罪組織の対立を軸に移民国家アメリカの光と影を活写した作品でもある。その上、失踪した父親探しのミステリであり、さらにハモンド・イネスばりの戦争海洋冒険小説でもあるのだ。

 なんという豊穣さ。主人公のアナが犯罪ものの映画と読書が好きで、当時人気を博していたエラリー・クイーン作品を愛読しているという設定に思わずニヤリとしてしまう。差別と偏見、貧富の断絶、支配と被支配といった根深い問題に正面から向き合い、複数の視点を用いて狂騒の20年代から大恐慌を経て第二次世界大戦参戦へと至るアメリカの諸相を多面的に描いた力強くも詩情溢れる読後に勇気の湧く物語だ。

 今月は、筋金入りのミステリ・マニア、ピーター・スワンソンによる所謂〈イヤミス〉とは一線を画す懐かしくも新しいサスペンス・ルネサンスの逸品『ケイトが恐れるすべて』と、ミッシング・リンクの謎をひねりにひねって連続殺人ものに新機軸を打ち出したジョー・ネスボの『レパード 闇にひそむ獣』も、年間ベスト級として強烈にお薦めします。

 

北上次郎

『ケイトが恐れるすべて』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 前作『そしてミランダを殺す』のときにも、ヘンな小説だなあとハイスミスを想起したものだが、どうもそれはこの作者の持ち味のようだ。ハイスミスの小説がまっすぐに進まないように、この長編もまっすぐには進まない。アパートの隣室で女性の死体が発見されても、その犯人探しはなかなか始まらないのだ。物語はヒロインの過去をひたすら遡る。ヒロインは、又従兄からその部屋を借りただけなのだが、次は又従兄の過去を遡っていく。そこにいろいろな人物がからんできて、やがて渾然一体となっていく。つまり通常のミステリーのパターンを取らない。この構成がすこぶる新鮮だ。未読の第1作『時計仕掛けの恋人』を急いで買い求めたのである。    

 

千街晶之

『ケイトが恐れるすべて』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 タイトル通り、ケイトというヒロインがとにかくすべてを恐れる話である(原題もHER EVERY FEAR)。最初のページからして、まだ何も起きていないのに彼女は又従兄との住まいの交換を、過去最悪のアイデアであるかのように感じているのだ。彼女はもともと何事にも最悪の事態を想定するタイプであり、実際にとんでもない事件を体験してからはその傾向に拍車がかかっている。本書は、そんな彼女が殺人事件に巻き込まれるという内容だ。ただでさえ恐ろしい事態なのに、何事にも怯える女性が主人公なので不安感は倍増する。展開の意外性もさることながら、マーガレット・ミラーやジョン・フランクリン・バーディンの小説を想起させるようなケイトの不穏な心理描写が最大の読みどころと言えよう。果たして彼女が想定しているより真実は最悪なのか、そして彼女の恐怖は解消されるのか、最後まで一気読みせずにはいられない。

吉野仁

『カルカッタの殺人』アビール・ムカジー/田村義進訳

ハヤカワ・ミステリ

 インドのカルカッタ、それも英国領時代の1919年が舞台設定となる歴史ミステリ。まずはその時代と場所の魅力に惹かれてしまった。妻を流行病で失った戦争がえりの男がインドへ赴任し、現地のインド人刑事とともに奮闘するという展開で読ませる。「お約束」といえる部分が目立つものの、最後まで飽きることなく愉しんだ。作者の次作以降にも期待ができる。そのほか、個人的に気に入ったのは、ショーン・プレスコット『穴の町』。ミステリー小説ではない作品ながら、「消えゆく町々」やら「突如としてできた大穴」をめぐる奇想な話のなかに、なんともいえないもの悲しさや寂しさが感じられ、深く心に残った。あと、話題の劉慈欣『三体』、残り二作が待ち遠しい。

 

霜月蒼

『三体』劉慈欣/大森望・光吉さくら・ワン・チャイ・立原透耶訳

早川書房

 無理だ。今月1冊だけ選ぶのは無理。ここはそういう欄だが無理な月もあるのだ。上記を今月の1冊に選んだのは、たまたま今そういう気分なだけにすぎない。以下の作品も昼飯を抜くとかして、ぜひ読まれたい。ドン・ウィンズロウ『ザ・ボーダー』(世界の問題について作家が怒りを燃やしたときに生じる恐るべき熱が全編を埋め尽つくす人間のブルータリティの交響楽)、マイクル・コナリー『訣別』(傑作『シティ・オブ・ボーンズ』以来の私立探偵小説のスタイル。律儀なフーダニットとしても◎)、ピーター・スワンソン『ケイトが恐れるすべて』(古典的なファム・ファタルものだった前作よりも、いったいどういう物語かわからない進行のこちらのほうが個人的に好み)。

 さてイチオシは話題の『三体』である。現代ハードSFではないのがSFの分野でどう評価されるのかわからないが、不吉でパラノイアじみた陰謀スリラーの空気感がきわめて魅力的だった。SFとスリラーは一個の小説内で共存できるということの新たな証が本作なのである。とくに異様な謎の連続で語りはじめる序盤は、『継ぐのは誰か?』などの小松左京のSFスリラーを思い出させる。

 文化大革命と、その後の中国の支配体制をめぐる挿話は、中国作家だからこそかくも説得的な感情とディテールをともなって書けたのだろうし、これまでの課外スリラーが逃れられなかった「非=欧米諸国は『異文化の敵』」という見方から解放された展開もあり、新たなスリラーのありようを見せてくれた。見たことのない風景や人物を見せてくれたことと、何よりも一気読みのスリラーであったことで本作を推す。

 

酒井貞道

『ケイトが恐れるすべて』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 複数の登場人物が、それぞれの視点から一つの事件を語る。この順番と切り替えのタイミング、更には全体のタイムスケジューリングが実によく考えられており、非常に魅力的な「五里霧中」の状況が実現している。物語が急転する瞬間がそれほど多くないのもポイントで、事件はじわじわとその様相を変えて来るのである。この点では前作『そしてミランダを殺す』よりも地味、という印象を読者に与えるかもしれない。しかしながら、よく練られている点では同水準にある。しかも心憎いことに、各登場人物の心情が丁寧に、染み渡るように描き込まれていおり、「比較的地味」で「じわじわ」な展開と親和性が強い。あ、地味ってのは比較的であって、「妙な事態になりつつはあるが、具体的に何が起きているのかなかなか見えてこない」というセンスオブワンダーは強烈ですらあります。おススメ。

 

 

杉江松恋

『ザ・ボーダー』ドン・ウィンズロウ/田口俊樹訳

ハーパーBOOKS

 

 自分が解説を担当した本なのでやや躊躇ってしまうが、これだけの力作を推さないわけにはいくまい。アート・ケラー三部作の掉尾を飾る本作では、メキシコ・カルテルと麻薬取締局の闘いを巡る物語がさらに深度を増して語られる。何がすごいかというと第三作にしてケラーが、自分の過去をすべて否定しているところである。メキシコからの麻薬流入を止めるために生涯をささげてきた男が、本当の敵はそこにはいない、と気づくところから『ザ・ボーダー』は出発する。本当の敵は麻薬ビジネスを求めるアメリカ国内にこそいるのだと考えたケラーは、金の流れの元を断とうとするのである。国外に敵を求めようとするのは誤りだ、というケラーの視点は言うまでもなく現政権の施策を痛烈に批判するものでもある。題名からして国境に壁を作るという大統領の公約を想起させる。ウィンズロウは怒っているのだ。その怒りを、理性によって統御し、これだけの大作を書き上げた。『犬の力』『ザ・カルテル』と過去の二作もたいへんなものであったが、はっきり言ってそれよりも上である。『犬の力』のひりひりするような対立構造と『ザ・カルテル』の戦慄するしかない無政府状態を共に備え、さらに弱者への眼差しをも備えた全体小説に仕上がっている。現時点におけるウィンズロウの最高傑作であり、犯罪小説の頂点と言うべきである。

『ケイトが恐れるすべて』がややリードした感のある七月でしたが、それにしても粒ぞろい。このまま十月の投票月間にまで雪崩れ込んでいくのかと思うと恐ろしくさえあります。さあ、来月はどんな作品が登場するのでしょうか。また次回、お会いしましょう。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧