——今も昔も怖ろしきは自分の正義を疑わない人たち
全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。
「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁)
「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳)
今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!
加藤:いやあ、毎日暑い日が続いてイヤになっちゃいますね。皆さん体調は大丈夫ですか? 暑さ寒さも彼岸までと申しますが、今年の彼岸の入りは9月20日。もうちょっとの辛抱です。そして、その日はラグビーワールドカップの開幕日。皆さんの家庭や職場でも毎日この話題で持ちきりですよね、ええ勿論そうでしょうとも知っていますとも。
日本はホスト国として、何としてもベスト8に残って大会を盛り上げたいところ。日本代表にとって、そのカギを握るのが10月13日(日)のスコットランド戦です。今日はこれだけでも覚えて帰ってくださいね。
さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今回のお題は『この町の誰かが』です。作者は警察小説の巨匠ヒラリー・ウォー。むむむ、ちょっと待って、ウォーといえばウォー・クライに触れないわけにはいかないでしょう。開幕まで1ヵ月を切ったラグビーワールドカップ、世界のハイレベルなプレーが見られるのもの楽しみですが、ポリネシアの国々が試合前に披露する戦いの踊り=ウォー・クライも楽しみですねえ。有名なのはニュージーランド代表オールブラックスの「ハカ」ですが、今大会の出場国では他に、フィジー代表の「シンビ」、トンガ代表の「シピタウ」、サモア代表の「シヴァタウ」が見られます。
さて、改めましてヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』は1988年の作品。こんなお話です。
コネティカット州の平和な新興住宅地で16歳の少女がレイプされて殺された。町の人は大体が顔見知り、そんなことをする人間がいるはずはない。しかし容疑者と目されたヒッチハイカーのアリバイが証明されると事態は一変。住人たちは疑心暗鬼となり、お互いに疑いの目を向けはじめる。日を追うごとに人間関係はおかしくなり、コミュニティーは崩壊してゆく。事件発生から数週間、住民たちの証言で顛末を綴った異色ミステリー。
著者のヒラリー・ウォーは1920年生まれのアメリカ人作家。2008年に亡くなっています。作家としてデビューは1947年で、その名を一躍世に知らしめたのは1952年に発表した『失踪当時の服装は』でした。警察による地道な捜査を丁寧かつリアルに描いたこの作品は、今も「警察小説の金字塔」としてミステリー史に名を残し、その後の警察小説の礎となった傑作です。生涯に警察小説を中心に46の長編を発表、アメリカのミステリー界の重鎮としてMWAの会長も務めました。
そして今回取り上げる『この町の誰かが』は1988年の作品。ヒラリー・ウォーが作家として最後に発表した長編小説です。
本作の特徴は何と言ってもその独特の構成にあります。地の文章はなく、主人公の一人称でもない、町の人々の証言集というスタイル。それはまるでドキュメンタリーを読んでいるようなリアルさです。
ミステリーとしてはかなり異色というか実験的だったのではないでしょうか。読者が犯人を推理する材料はほぼ無いし、謎がほぐれ真実が明らかになってゆくカタルシスがあるわけでもない。でも、それを補って70円くらいのお釣りがくるような臨場感。そういえば昔こんなの読んだよなと思いだしたのが、宮部みゆきさんの直木賞受賞作『理由』でした。あれは本作へのオマージュだったのか。
関係者の証言を時系列順に並べることによって描かれるのは、捜査の進捗ではなく、世間のムードや世に出回っている風説の移り変わり。それは緊張で空気が張り詰めた一つの町という密室における人間ドラマ。昨日まで何も問題なく付き合っていた人たちが、自身の保身と猜疑に走ったとき、コミュニティーは音をたてて崩れ始める。その顛末を読者は俯瞰で眺めながら、自分がそこにいたら一体どうするだろうと考えずにはいられないのです。
畠山:ひょんなことから私もW杯を観戦することになりました。ルールもロクにわかっていないのにどうしよう……。オールブラックスの「ガンバッテガンバッテ」は知ってるけど(汗)。なんの予習もしないわけにはいかないが、ルールブックは睡眠導入剤になってしまう。そこでW杯招致の道のりを描いた『釜石の夢』を手に取りました。震災を思い出し、復興に尽力される人々に思いを馳せ、空に翻る釜石の富来旗(=大漁旗)を想像し、何度も目を真っ赤にしました。ラグビーに興味のない方も開会式は観てほしいな。
あとは、『ノーサイド・ゲーム』、『10-ten-』なんか読んでおこうかしらね。ROAD TO 半可通!
さて『この町の誰かが』です。私は初めてのヒラリー・ウォー。
リアリズムの巨匠というイメージだったので、少し構えて読み始めましたが、最初の証言者である被害者の母親が早速感じが悪くてつかみはOK。愚痴と正当化しか言ってない気がするけど本当に娘が死んだのを悲しんでる?って訊きたくなっちゃった。
レイプ殺人犯が隣人かもしれないという不安と緊張感から、人々は好き勝手に他人を疑い始め、少しずつ排除の論理が町を支配していきます。
警察署長は、住民のイライラが募る中、法的な立場を崩すまいと極めて慎重な姿勢でいますが、一度悪い方向に勢いがついてしまったらどんな立場の人も為す術がない。そんなこんなのうちに、やがては罰する必要のない人まで不幸にしてしまいます。平和のメッキが剥がれた町を糾弾する黒人青年の言葉は、そのまっすぐさが悲しくて堪りませんでした。
罪の証拠となるものはひとつもないのに、常識、感性、信条、生活スタイルその他もろもろ、「自分と違う」ことを見つけては、憶測で悪者を仕立て上げる。これって昨今のネット私刑とそっくり。30年も前の作品なのに、描かれていることが現在とまったく変わらないのに驚きます。というか、我々はなんの成長もないのか?と思うと情けない。
加藤さんが「自分がそこにいたら一体どうするだろうと考える」と言っていましたが、最近、札幌ではヒグマの駆除でひと騒動ありまして、もし私がこの町の住人だったら「北海道の人はすぐに動物を殺すから恐ろしい」と言われて町を追われるかも…と想像してしまいました。有り得ないと笑われそうだけど、本書を読むとそんな可能性を否定できなくなるのです。
加藤:ラグビー本といえば、ベタで恐縮だけどテレビドラマ『スクール・ウォーズ』の原作『落ちこぼれ軍団の奇跡』(馬場信浩著)が忘れられないなあ。山口良治先生が伏見工業に赴任してきてから、天才・平尾誠二を擁して花園で優勝するまでの物語。これがまた泣けるんだ。
ちなみに畠山さんが言ってるハカの「ガンバッテガンバッテ」は「カマテ、カマテ」。マオリ語で、直訳すると「私は死ぬ、私は死ぬ」だそうです。
『この町の誰かが』を読んでいて思い出したのが、僕の地元で起きたこの事件。今も昔も健全経営を続ける信用金庫を突然襲った取り付け騒動です。この事件はデマの発生から拡散経路までが判明した、とても珍しい事例なんですって。そして、この事件の怖いところは、どこにも責められるような悪意が存在しないところ。その意味で『この町の誰かが』と似ています。
前段で本作を「町の人々の証言集」と書きましたが、考えてみれば、それが全く無味乾燥な記録ではなく、面白い読み物として成立しているのが、実は本作の本当の凄いところかも。さすがアメリカ、登場する住民一人ひとりが個性的で本音の部分では気持いいくらい自己チューなのが可笑しい。人種、宗教、政治的信条、性的志向など、日本では考えられないほど様々な背景を持った人がいることを大前提に運営されているのがアメリカ社会なのだなあ。でも、悪い方に転がりだすと歯止めが効かなくなる恐ろしさはこの話の通りなのかもと考えさせられる。さらに、畠山さんも書いていたけど、この話が何だか「今」と被っているように思えて怖くなりました。
間違いを犯した人間を徹底的に叩き、みんなで留飲を下げるみたいな今日の社会の風潮。ストレスフルなこの世の中で、誰もが自分に正義があると思っている状況って危なくないですか?
自分の考えを簡単に(そして無責任に)表明できる時代だからこそ、まずは違って当たり前の相手の考え方や立場を思いやることの大切さを痛感し反省する今日この頃。ああもう、本やラグビーの話だけして暮らしていたい。
畠山:全てが話し言葉で書かれていることもあり、とても読みやすくて、やめられないとまらない系の本書ですが、ミステリー小説としても秀逸でした。特に犯人が明らかになる終盤は、「今まで何を読まされてたんだろう?」と、慌ててページを逆戻り。ああ、そうだそうだ、ここで「?」と思ったのにすっ飛ばしてたわー、といつものヤラレチャッタ感も清々しゅうございました。それに犯人のサイコパスぶりったらもう! 足元がさーっと冷えていくような感覚でした。
ノンフィクションのようだった雰囲気が一転、いかにもミステリー!な虚構世界にぐいっと引き入れられてラストまで堪能。ヒラリー・ウォーは面白い!
こうなるともう1冊の名著『失踪当時の服装は』も読まずにはいられません。でもその前にヒラリー・ウォーに大きな影響を与えたとされるチャールズ・ボズウェルの『彼女たちはみな若くして死んだ』に寄り道してみよう。
詳しくはストラングル成田さんにお任せすることにして、ノンフィクションなのに短編小説を読んでいるかのような面白さでこれまた一気読み。憶測を入れず、煽ることもなく、淡々と描かれるいてるがゆえに、殺人という行為の空しさ、被害者の憐れ、遺族や友人知人の苦悩、加害者の身勝手……そういったものがダイレクトに伝わってきました。そして事件を解決するのは警察の丹念な捜査のみということも。
続けて『失踪当時の服装は』を読んでみると、なるほど共通するものを感じます。ある日突然、寮の部屋から失踪した女子学生の行方を捜すお話。警察がひとつずつ可能性を拾い集め、検証して潰していく捜査過程は、めちゃくちゃ地味なのに目が離せません。ベテラン刑事が自分の経験則を信じきれなくなって、何度も方向性を考え直さねばならなくなる様子は、いかにも実際の仕事現場といった雰囲気でした。
警察小説がお好きなら『失踪当時の服装は』、心理サスペンス好きなら『この町の誰かが』を入り口にするのも良いかもしれません。
ちなみにどちらも、ラストの1行は刑事の台詞で〆られています。特に粋な言葉使いというわけではないのに、ビシッと決まってるんですよ。最後まで読んでウォーカラー(クライじゃないですよ)にしっかり馴染んだ読者だからこそ「かっこいい!」と感嘆できる台詞です。ぜひぜひ両方ともお読みになってみて下さい。
おっと、9/28には『生まれながらの犠牲者』が新訳で発売ですね。楽しみです!!
■勧進元・杉江松恋からひとこと
ヒラリイ・ウォーは警察小説を現代小説にバージョンアップさせた作家です。上にも書かれているボズウェルの犯罪実話集『彼女たちはみな若くして死んだ』を読み、そこで書かれたような現実感のある犯罪を小説の題材として用いることを思いつきました。彼の書いた現代警察小説の第一作である『失踪当時の服装は』で大学生の女性が失踪する事件が描かれるのは、間違いなく犯罪実話のような手触りの物語を意図したからですし、もう一つの代表作である『事件当夜は雨』は、その犯罪実話が作中の重要なモチーフとして用いられます。
こうして書くとノンフィクション寄りのおもしろみのない作品を想起してしまうかもしれませんが、ウォーは違います。一口で言うならば、フィクションの想像力をノンフィクション的な土台の上で働かせることでウォーの才能は開花しました。それは犯罪者の心理、内的世界に分け入る作業であったと私は考えています。ウォーの書く警察小説は、五里霧中の状態から捜査が始まることが多い。実際の警察捜査もそのようなものでしょうが、初めは経験則に従って常習犯罪者などの疑わしい人物のリストを潰したり、こつこつ証拠集めをしてやれること、推理の選択肢を増やしていくしかない。ここの序盤の捜査を書くのがウォーは抜群に巧く、地道な作業をしているだけなのに読ませてくれます。物語作家としてのウォーが最も光る部分でしょう。そして、不足していた欠片が増えてくると、次第に犯人の思考が見えてくるようになります。そこから物語は急展開する。現実の似姿として描かれていた世界に、突如犯人の内的世界がはみ出してきて、リアルをフィクションが浸食し始めるからです。作者が想像力の翼をはばたかせ始めるからです。この輝かしい瞬間を読みたくて、私はウォーを手に取るのでした。
本来ならば『事件当夜は雨』(私が解説を書いています)を入れたかったのだけど、たしかこのときは品切れだったんじゃないかな。『この町の誰かが』を挙げたのは、最晩年の作品であり、上に書いたような技法をウォーが自家薬籠中のものとした練れ具合が素晴らしかったからです。疑似ノンフィクション的な構成も奇を衒ったものではなく、情報公開の方法として最も適していたからでしょう。本書と並ぶ疑似ノンフィクション技法の犯罪小説に、ジョン・D・マクドナルド『夜の終わり』(創元推理文庫)がありますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
さて、次回はジル・チャーチル『ゴミと罰』ですね。こちらも期待しております。
加藤 篁(かとう たかむら) |
愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato |
畠山志津佳(はたけやま しづか) |
札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N |