「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 ジョージ・V・ヒギンズの『エディ・コイルの友人たち』(1972)を初めて読んだ時は、正直、よくわかりませんでした。
 やたらと饒舌な悪党どもの会話についていくのに精一杯で、どういうストーリーなのかすらよく追えない。ただ、場面場面の情景と、悪党がよく喋る話だという印象が残ったのみ。
 どのような話なのか、ちゃんと理解したのは、今回、再読してようやくです。
 分かると同時に笑いがこみあげてきました。
 ……この小説、つまりは、エディ・コイルには友人なんていやしないって話じゃないか。

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 エディ・コイルは悪党だが、強盗や殺しを直接はしようとしない。するのは、もっぱら、そういうことをする連中の橋渡しだ。
 たとえば、拳銃をこそ泥から仕入れてギャングへ流したり、情報を売ったり。彼に、顔馴染みは多い。
 そんな顔馴染みの間で、ここ最近、コイルの様子が怪しいという噂が流れていた。以前、彼がパクられた事件の判決が近いので、そのために何やら動いているというのだ。
 悪党どもの間で不信感は高まっていき、やがて……というのが本書の大まかな粗筋です。
 ジョージ・V・ヒギンズは物語を、地の文ではなく、会話を中心に描いていきます。このスタイルが、作品の、ひいてはヒギンズ作品の最大の特徴でしょう。
 本書では、会話以外では登場人物の感情や、関係性、情報がほとんど示されないのです。
 たとえば、地の文ではエディ・コイルという名前すら出てきません。〈ずんぐりした男〉とだけ書く他は、詳しい外見の描写もせず、どこまでも簡潔に、彼が何をした、という行動だけが示されます。
 そんな地の文とは対照的に、台詞は冗長といっていいくらいに長い。必要な情報も、そうとは思えない情報も詰め込んだ会話がひたすらに続く。
 正直、面食らってしまい「読みにくい」と感じるところもあるのですが、ページをめくればめくる程、この文体に馴染んできます。冗長と書きましたが、だからこそ、そのダラダラした部分にひりつくようなリアリティを感じてくるのです。
 普段、僕らが日常でする何気ない会話に必要な情報がほとんどないように、作中で悪党どもがする会話は不要な情報だらけなだけだ、と分かって、そこからは、その〈不要な情報〉が作中世界を構成する要素なのだと思えてくる。
 気がつけば、悪党たちの人間模様が、目の前にグッとリアルに立ち上がっている。本書は、そういう小説です。

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 登場人物たちの関係性が見えてきたところで、まず感じるのは、エディ・コイルの立ち位置の頼りなさです。
 キャラクターたちを繋いでいるのは紛れもなく彼で、そういう意味ではコイルは中心にいる筈なのに、ちっともそんな感じがしない。
 どうしてか。
 彼が登場人物たちに信頼されていなければ、重宝もされていないからです。
 まだ年若い拳銃の密売人ジャッキー・ブラウンからも、銀行強盗しかやらないギャングのアーティ・バンからも、彼を情報屋として使っている刑事デーブからも……本書に登場するありとあらゆる人間が、彼を嘲笑している。
 それはたとえば、コイルと直接話す時の口調や行動でも察せられるのですが、もっと、はっきりと示されるのは、コイルがその場にいない際の噂話です。
 〈落ち目になってきている〉、〈男気のあるやつじゃない〉……彼の評判として出てくるのはネガティブな表現ばかりで、ポジティブな言葉は、せいぜいが〈間抜けではない〉程度です。コイル本人が、ある種の武勇伝として語る自分の指に関節が一つ増えてしまったというエピソードでさえ、あいつが馬鹿をやった時の話として消費されます。
 現実感のある会話の中で語られるからこそ、コイルの実像がくっきりと見えてくる。ここが本書の最も面白いところでしょう。
 一方で、コイル本人だって誰も信頼していません。
 だからこそ、一つの勢力に所属するのではなく、色々な勢力の間を行ったり来たりして、どうにか自分の生存の芽を探そうとしているのです。誰かと取引をして、その取引をした誰かを警察へ売り、また別の誰かと話をし、というのがコイルの生き方です。
 最初に言った通り、コイルには友人なんていないのです。
 いるのは利用できる時には利用してやろうとお互いに思っている程度の、知人だけ。
 『エディ・コイルの友人たち』とは、なんと皮肉なタイトルでしょうか。

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 物語の後半になると信じてくれる人も、信じられる人もいないエディ・コイルのコウモリの如き奔走がどこに辿りつき、何を生むのかというのが焦点となっていきます。
 コイルが仕入れた銃を使って銀行強盗をした悪党、コイルが行った密告から銃の密売人を逮捕した刑事、コイルの行動に不審を抱いたギャング、それぞれが行動に出て、それが噛み合ったり噛み合わなかったりしていく。ハードな暴力が描かれるシーンも増える。
 コイルも、暴力の流れに呑み込まれ、その場面が本書のクライマックスとなっています。
 彼があちらこちらで広げてきた波紋が、一つの波となって、彼自身へと返ってくる。そんなシーンで、作者はそこも台詞以外では感情を見せない文章で描ききるのですが、淡々としているからこそ響くものがある。
 その後、読者の「この話は、コイルのやってきたことは、結局なんだったのか」という気持ちを拾い上げてくれるような会話で、物語は幕を閉じます。
 この一連のシークエンスがただただ素晴らしい。『エディ・コイルの友人たち』という作品そのもの、そして、七十年代のアメリカの犯罪者コミュニティの様相を端的に表してくれている。
 極上のクライム・ノヴェル、といって良いでしょう。 

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 そんな極上のクライム・ノヴェルなのに、初読の時の僕は、どうして分からなかったのか。
 そもそもがあの頃はクライム・ノヴェルを余り読んでいなかったのでジャンルの文法が分かっていなかったとか、会話中心の文体が読みにくかったとか、色々な理由があったでしょうが、何より大きかったのは、僕自身が作中の登場人物のことを理解しようとしなかったということだと思います。
 自分の知らない国の、自分の知らない時代の、自分の知らない界隈の人間の話で、しかもその人間が格好良いヒーローではなくって、目先の利益のことばかり考えるみみっちい小悪党ときている。そんな奴の話なんて、どうでもいい。そう思ってしまうと、本書は、興味を持てない人の噂話を延々と聞かされるだけの小説になってしまう。
 あれから数年が経って、人生経験や読書経験を経て、小悪党でも良いから、そいつがどういう奴なのか分かってやろうという気持ちになった。故に、今回は心地よく、楽しく読めた。
 そういうことではないか、というのが自己分析です。
 今思うと、このエディ・コイルみたいな奴のことなんて興味ない、という気持ちは作中世界の登場人物と同じであるように感じます。ろくな奴じゃないコイルのことなんて、信頼しないし大事にも扱わない、あの気持ちと。
 だから、今は少しホッとしたような、嬉しい気分です。
 僕は、ようやく、エディ・コイルの友人になれた。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人三年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby