そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
マーク・マクシェーンの『雨の午後の降霊術』(1961)は、なんとなくで買った本でした。
仕事帰りに寄った溝の口の古本屋の店頭、百円均一棚で見かけたのです。手に取った理由を覚えています。〈シリーズ 百年の物語〉という叢書名に見覚えがあったのです。確か、シャーロット・アームストロングの『魔女の館』(1963)が出ていたシリーズじゃなかったか。
『雨の午後の降霊術』については作者名も、タイトルも、聞いたことがありませんでした。『雨の午後の降霊会』と改題されて二〇〇五年に創元推理文庫入りしていることも当時は知りません。響きの良いタイトルと、その響きに似つかわしくない〈誘拐〉というフレーズが帯に書かれていることを面白いなとだけ思い、小脇に抱えレジへ向かいました。
買った時のことをしっかり記憶しているくせに、すぐ読まなかった理由については曖昧です。興味の惹かれ方がささやかだった故に、いわゆる〈積み本〉の棚に並べて、そのまま忘れてしまったのでしょう。恥を忍んで告白すると、僕の家はそういう本だらけです。
そんな本のことを思い出したのは、川出正樹さんの『ミステリ・ライヴラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(2023)を読んだためでした。〈シリーズ 百年の物語〉が紹介されていて、それで、瀬戸川猛資さんが編んだシリーズであることと、『雨の午後の降霊術』の詳しい粗筋を知ったのです。
慌てて引っ張り出して読んで、愕然としました。これ、めちゃくちゃ面白いじゃないか。
もしも僕のようになんとなくで買ったまま、書棚に放りっぱなしになっている人がいたら、すぐさま読み始めた方が良い。
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作中人物が行う幼稚な計画の犯行が産む不安によるサスペンスと、その計画とは対照的な計算し尽くされた美しい構成。『雨の午後の降霊術』のストロングポイントは、この二点です。前者については、粗筋を読んでいただくだけでも、なんとなく納得していただけることでしょう。
主人公は、ロンドンの郊外に住むマイアラとビルのサヴェジ夫妻です。
夫婦は現在、経済的にも精神的にも芳しくない状態です。ビルは喘息のため、仕事に就くことができない。生活を支える立場にあるのは妻のマイアラですが、彼女が行っている仕事は、なんと霊媒師。インチキではなく本物だと、マイアラもビルも知っているし、信じているが、大きなことを行えるわけではなく有名でもない。
そこでマイアラが考えたのが、誘拐作戦なのです。
身代金目当ての作戦ではありません。彼女がしたいのは、自身の力の宣伝です。
社会的に地位のある人の子どもを攫えば、当然、大騒ぎになる。その騒ぎの中、霊媒師として現れたマイアラが子どものいる場所をぴたりと当てたら、本物の霊能力者だと世間の誰もが認めるだろう。実際、マイアラが本物の霊能力者であること自体は事実なのだから、何の問題もない。子どもを傷つける気も毛頭ない。ちょっと、利用させてもらうだけだ。
かくして、二人は誘拐を実行する……。
他に類を見ないストーリーと言って良いのではないかと思います。犯人によるマッチポンプだった、という構図が最後に解き明かされる謎解きミステリーはありますが、犯行をする側を視点人物に置き、あらかじめ目的を提示してある作品は思い当たらない。
マイアラとビルの誘拐について、稚拙ではなく、幼稚と言いました。
実際のところ二人の計画はあらゆるところで見通しが甘く稚拙でもあるのですが、けれど、ここで使うべきは幼稚という言葉でしょう。余りにも身勝手で、善男善女たる我々読者には感情移入できる由がない。
けれども、それで問題ありません。
感情移入などしなくても良い。その上でドキドキハラハラさせてくれるように、マクシェーンは文章を綴ってくれています。
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小説という媒体の素晴らしさの一つは、実際に顔を合わせることがあったら一秒でも早くその場から離れたいと思ってしまうような類の人の気持ちさえ、なんとなく理解できてしまうところだと思います。
決して応援したくはならないが、マイアラとビルが、こういうことをやっている理由は分からなくもない。だから、二人の犯行計画を見守ってしまう。成功はしなくたって良い。ただ、これ以上、悪いことにならないでくれ。『雨の午後の降霊術』を牽引するサスペンスは、そうした微妙な読み心地から生まれています。
マイアラに尻を蹴飛ばされ、実業家の娘を誘拐しにいくビルの背中を僕らは見守ってしまう。可哀想というよりも、哀れだ。娘の通学用の送り迎えをしている運転手に話しかけ、車から離れさせる? 運転手に顔を覚えられたらどうするんだ。ほら、もうやめておけよ。今ならまだ間に合うから。ああ、攫ってしまった。もう取返しがつかない……。
マイアラ、お前は本当に娘の姿を霊視したという演技を続けるのか? 既に怪しまれてるじゃないか。ここらで諦めて、自首してしまえよ。
あちらこちらに綻びがあって、明らかに失敗することが見え透いている。けれど、致命的な失敗は中々しないから計画はどんどん進行してしまう。枕木が腐り、レールも錆びた線路の上を機関車が煙を噴いて走っていくのを見ているような、なんとも言えない厭な感触が全編を包んでいる。
案の定、物語は終盤に入ろうかという部分で最悪の展開を迎える。
だから言ったじゃないか! と読者の口の中にまで苦いものが湧き出てくる。中々できない読書体験です。
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しかしながら、この小説は単に厭なものを見せつけるために書かれたものではない。
創元推理文庫版の解説で小山正さんが「本書の筆致はブラックユーモアの域にまで昇華されている」と書いていますが、まさに、と頷きます。全てが裏目に出ていくマイアラとビルの計画に不安と苦々しさを覚えながらも、一方ではその滑稽さに笑ってしまう自分もいる。
作者であるマクシェーンの腕が確かだからでしょう。登場人物を冷徹に突き放し、物語の全てをしっかりコントロールしている。見事なコーナリングで脱線しかけの機関車を目的地へと連れていってくれる。その目的地に着いた時、僕は感心して、思わず手を叩いてしまいました。
古本屋で手に取った時に既に感じていた『雨の午後の降霊術』という詩的なタイトルと誘拐作戦のアンバランスさが、最後の最後に至って、解消する。このどうしようもない誘拐物語のタイトルは、Seance on a Wet Afternoonでしかあり得ない。そう思うようになるのです。
どこも欠けていない綺麗な円が描かれたところで物語が終わる、鮮やかな結末で、ただただ美しい。
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〈シリーズ 百年の物語〉の折り込みチラシには「百年たってもおもしろい。百年読んでもスリリング。まさしく不滅の物語」と謳われています。本書を読み終えてみて、確かに、と唸りました。
なんとなく買ったまま、ずっと放っておいて、切っ掛けがあったから読んでみたら面白かった。恐らくは買った直後に読んでも、五年後、十年後、百年後に読んでも同じように僕は楽しんでいたはず。
『雨の午後の降霊術』、まさに百年の物語だと思います。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人八年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |