そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
ウィリアム・モール『ハマースミスのうじ虫』(1955)は、探偵による犯人の追跡を描いたミステリです。
探偵の名前はキャソン・デューカー、ワイン商を営む青年実業家です。社会的な成功者で、かつ、人当たりも良いので人望もある人物ですが一つ、悪癖と呼んでも良い性質を持っています。それは、「人間の珍種」に興味があるということ。
人種や見た目の話ではありません。キャソンの言う「珍種」は、法の束縛の及ばない世界に住むような人間……つまりは、犯罪者のことです。空挺師団の除隊後に保養地で体験したある出来事を切っ掛けに、キャソンは、自身の属している社会からはみ出る行動を取る者に興味を抱くようになったのです。
後に〈ハマースミスのうじ虫〉と呼ばれる、その男のことを知ることができたのも、キャソンのこうした性格ゆえでした。
ある夜、彼の所属しているクラブで、飲んだくれて暴れている男がいた。ヘンリー・ロッキャーという、ギヤマンズ銀行の重役で、こうも荒れるようなタイプじゃない。何かあるはずだとキャソンはロッキャーを介抱し、事情を聞き出す。
バゴットと名乗る男に強請られたのだという。
恐喝に使われたネタは事実無根だ。ただし、周囲に広められた際、信じてしまう人が出てくる。今進めている事業は、それで台無しになってしまう。そうした話で、結局、屈してしまったのだとロッキャーは語る。
話を聞く限りでも、男は常習的な恐喝魔だと思われた。弱味の突き方もそうだし、何度も強請らず、たった一度だけ金を奪って去るというやり口もそうだ。まさに、キャソンの追い求めている類の「珍種」らしい。
キャソンは、この男を追うことを決意した。
まず目を引かれるのは、扱われる犯罪の小ささです。恐喝という行為がメインに据えられるのは推理小説の世界では珍しい。
殺人や強盗といった犯罪に比べれば少なくとも刑法上の罪は軽い。それ故に嫌らしい。
本書の前半部で、読者はそのことを思い知らされます。
ジョージ・ストラット警視をはじめとする友人たちからの情報を得て、キャソンはバゴットの犯行の全容を知っていきます。この男は、幾つもの変名を使って、何人もの人を強請っているらしい。そのいずれもが、事実無根だが、ばら撒かれては困る話だ。この恐喝を切っ掛けに、死人まで出ているらしい。
キャソンの中で、段々と義憤の気持ちが高まっていきます。うじ虫(maggot)のような男による汚らしい所業だ。
一方で、好奇心も強くなっていく。どういう人間が、こんなことをしているのだろうか。
ロッキャーから聞き出した情報の中に、一つ、気になるものがありました。男はロッキャーの家にあったローマ貴族の胸像に興味を示していたというのです。恐喝魔には似つかわしくない趣味だ。
キャソンは、この胸像からプロファイリング的な推測を発展させ、恐喝魔の身元を突き止めます。男の本名はジョン・ペリー。元銀行員の、冴えない中年男。
最初に、本書は探偵による犯人の追跡を描くミステリだと書きました。
ということは、以上の粗筋で、物語は終わりなのでしょうか。
そんなことはない、というのが最大のポイントです。恐喝魔の身元までは突き止められても、キャソンはまだ、彼がどんな人間なのかを理解まではできていない。追跡は終わっていない。ここから本番なのです。
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実のところバゴットがペリーだと突き止めるまででも『ハマースミスのうじ虫』は十二分に上質なミステリとして仕上がっています。
素人探偵にしかできないような大胆な捜査は読んでいて痛快ですし、キャソンの鋭い観察眼が各所でうかがえる描写も素晴らしい。
しかし、ペリーが顔を見せてからは、はっきり言って、そこまでとは格が違う。この小説でしかみたことがない領域に物語は突き進んでいきます。
まず行われるのは、大胆な視点の切り替えです。
キャソンがこいつこそがバゴットだ、と確信を得たところで、ペリー視点の章が始まる。
そこで示されるペリーの姿は、とにかく、ちっぽけです。
ペリーはキャソンと対照的な男です。社会的地位も、人望も持っていない。生まれからして中流の下で、長年勤めていた銀行の中で、取るに足らない小物扱いされたことを、ずっとコンプレックスとして抱いている。
俺はこんな扱いをされるべき人間じゃない。あんな奴らに下に見られたくない。生まれは悪いし、ろくな人脈もないかもしれない。だが、芸術を愛しているし、教養だってあるんだ。
このことを……自分が、他の連中とは違うことを思い知らせてやるために恐喝を始めた。汚らしい強請りを行っている男は、とことん卑小な、届かないものに手を伸ばしたがる人間だったのです。
モールは、これを、残酷なまでに明晰な文章で語ります。感情移入というよりも共感性羞恥に近い読み心地を僕は覚えてしまいました。
こんな場面があります。
捜査のために近づいてきたキャソンと、ペリーが連れ立って歩くシーンです。ペリーは、クラブのことについて話を何度も振ろうとするのですが、キャソンはなかなか意図をつかめない。
そこでペリーが言う。「こういう場所に出入りできる身分になりたいものです」
社交界入りをしたいと彼が語り、その様子を想像したところで、キャソンは思います。あり得ないユーモアだ、と。
僕は心を抉られてしまいました。
作者の筆は、ペリーのことを、とことん突き放しています。嘲笑っているようなところもあります。けれど、そこにある卑しい欲望の切実さはしっかり拾ってくれていて、鮮烈な印象が残るのです。
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キャソンによる追跡が素晴らしい。ペリーの心情の描写が素晴らしい。
そして『ハマースミスのうじ虫』は、何より、ここから先が素晴らしい。
物語はキャソンがペリーを完全に理解したところで終わります。そのことが、最後の一文で端的に示される。
本書を読み終えた時、どうにも落ち着かず、泣きそうになりながら部屋を歩き回ったことを僕はよく覚えています。〈ラスト一行の衝撃!〉みたいな類ではありません。でも、そうしたもの以上の、世界をひっくり返すような効果がある。
犯罪小説というのは、こんなことができるのかと叫びたくなる終わり方なのです。
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さよならを言う値打ちもないような人間のことを想うため、クライム・ノヴェルを読んでいるところがあります。
生まれながらの貧乏の末、だとか、愛する誰かを悪人に殺されてしまった故の復讐、だとか、凶行に至っても仕方がないと思ってしまうようなキャラクターよりも、自分の欲望を満たそうとするがため罪を犯す者が愛おしい。
僕の中にも彼ら彼女らを突き動かしている自分勝手な「欲しい」という気持ちがある。勿論、僕は実際には行動には移さない。だけど、金が欲しいだとか、社会的に認められたいだとか、その欲望そのものを否定されてしまうと心が痛む。それを肯定してほしいとは言わない。ただ、そうした感情がこの世にあることは許してほしい。クライム・ノヴェルは、少なくとも、欲望の存在を認めてはくれるから好きなのです。
故に『ハマースミスのうじ虫』は、ずっと、僕の中で特別な本です。
◆乱読クライム・ノヴェル バックナンバー◆
小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人八年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |