「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 二十万ドルというのは、果たしてどこまで大金だろうか。
 ハドリー・チェイスの『世界をおれのポケットに』(1958)を再読しながら、そんなことを考えてしまいました。
 『世界をおれのポケットに』はケイパー小説です。五人の男女が現金輸送トラックを襲撃する話で、そのトラックに積まれている現金の額が百万ドル、五人で分け合えば二十万ドルというわけです。作中で、あるフレーズが何度もリフレインされます。「それだけの金がありゃ、ふところに世界をねじこんだようなものさ!」
 しかし、本当にそうでしょうか。
 確かにとんでもない大金ではあります。現在のレートでも十分凄いですし、本作が発表された一九五八年ではその価値は比べ物にならないでしょう。
 ただ、文字通りに世界のありとあらゆるものが思いのままになるという程ではない。
 大体、彼らが狙う現金輸送トラックはロケット研究所とはいえ、一法人の一か月の給料を運ぶ程度のものです。近い時期に発表されたライオネル・ホワイト『逃走と死と』(1961)は競馬場を襲撃するという筋でしたが、そちらで手に入ると目されていたのは総額百五十万ドルから二百万ドルだからそっちの方が多い。
 登場人物自身、とんでもない金額ではあるが、現実の範疇と考えている節もあります。たとえばチームのリーダーであるフランク・モーガンは、二十万ドルが手に入ったら無記名の社債を買い漁ろうと計画をしている。金がなければできない金稼ぎの頭金と捉えているわけです。計画性がないところで言うと、ヨーロッパ旅行に出かけてカジノで遊び放題なんて考えている奴さえいる。
 決して、天文学的な額ではないのだな、と読み返して意識しました。
 生活を大きく変えることができる。その程度のお金。
 けれど、彼らにとっては、その程度こそが必要なのです。
 『世界をおれのポケットに』は、そのことをひたすら綴るクライム・ノヴェルです。
 
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 粗筋を書こうにも、上に述べたこと以外は書くことがないような物語です。代わりに、この襲撃計画のチームメンバーについて紹介しようと思います。
 まず、リーダーであるフランク・モーガンは冷たい目と薄い唇が特徴の大男です。四十二年の人生の中で十五年も刑務所に暮らしているという常習的な犯罪者で、チームの誰よりも肝が据わっている。また、観察眼が鋭く、メンバーの性格については細かく分析していますし、それぞれの心理状態を踏まえてサポートを行うこともできる、大黒柱的存在です。
 そのモーガンの片腕エド・ブレックは、腕が立つことを自認している色男。その自信ゆえ他のメンバーに対して傲慢な態度を取ることがありますが、モーガンのことは信頼していて言うことを素直に聞くのでチームは上手く回っている。
 ジポことジュゼッペ・マンディーニはこの二人と比べると、臆病であるし、頭も回らない。ただ、錠前破りの技術を持っているので重用されている。故郷であるイタリアのことをよく想う、ちょっとロマンティストなところがある好々爺です。
 最年少のアレックス・キトスンは職業犯罪者としてのキャリアもヒヨッコです。元々はボクサーをやっていたのですが、クビになってモーガンに拾われました。立場は一番弱く、時には発言を無視されたりすることもある。チームの中での役割はもっぱら運転手です。
 この四人は、物語の開始時点で既に何度か仕事をこなしています。少額ではありますが、手堅いヤマで、チームは上手く回っていた。
 そこに、現金輸送車の襲撃の作戦を持ち込んできたのが紅一点となるジニー・ゴードンです。
 キトスンと同年代の赤毛の美女をモーガンが紹介した時、チームメンバーは幾つかのことに驚きました。ゴロツキの集まりに顔を出しているというのに、彼女がやたら落ち着いていること。それから、彼女が立案した襲撃作戦が細かいところまで考えられた、よくできた作戦であること。
 突然舞い込んできた話に動揺をしつつも、五人は全会一致で襲撃作戦の実行に賛成します。
 この五人が計画を遂行していく様を順を追って描いていく。これは、それだけの物語です。
 
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 まず、小説としての巧さに惚れ惚れさせられます。
 モーガンたち四人がポーカーをしている様子を語る書き出しからして素晴らしい。一番良い手を冷徹に出して勝利するモーガン、無駄口を叩きながら負けたことを悔しがるジポ、何も言わずチップを押しやるブレック、それから言いかけた言葉を全員に無視されるアレックス。それぞれの性格とチーム内での立場をあっという間に説明してしまう。そして、すぐに「きみたち、二十万ドル手に入れたくないか」と本題に入る。
 一切の無駄を省いた、どこまでもスピーディな文章の流れです。
 これがそのまま続いていく。
 この物語に寄り道はありません。冒頭の会合の後は、即座に計画の遂行に必要な下見に入る。その後、必要な資金を手に入れるための軽い仕事の後、準備を整え、実行する。ただ物語がテンポよく進行しているというだけでなく、それらの行動の中で、登場人物の感情や関係性の変化についても語り切っている。
 全編に渡ってピンと糸を張ったような緊張感が緩むことがない。犯罪を行いつつある人間を捉えることだけに尽力している、ストイック過ぎるほどの筆さばきです。
 しかし、犯罪の進行だけを語っているというのに、本書は全編に感傷的な読み心地が満ちています。僕は、何度も胸が苦しくなり、泣き出しそうにさえなってしまった。
 それが何によるかといえば、『世界をおれのポケットに』という合言葉なのです。
 最初に語った通り、二十万ドル、総額百万ドルの金は、実のところそこまで大した金ではない。だけれども、この五人にとっては違う。
 今の生活をどう思っているか、金が入ったらどうしたいか。チェイスは一人一人、事情を語っていきます。
 生活を変えたい理由は、方向性としては一つです。自分が〈世界〉に受け入れられていないから。
 生まれてこの方、そうだった。あるいはどこかで踏み外してしまった。人によって違いますが、少なくとも今の自分は〈世界〉から拒絶されてしまっている。金さえ手に入れば〈世界〉に受け入れてもらえる。
 五人誰しも、人生の敗北者として同じ立場なのです。
 〈世界〉に受け入れてもらうための作戦は、案の定、順風満帆とはいかない。不運やアクシデントが襲いかかり、五人の中でさえ醜い争いが発生してしまう。
 読み終える頃には『世界をおれのポケットに』という合言葉が、悲痛な叫びにしか聞こえなくなる。おれをこの世界に入れてくれ。むしろ、そう言っているんじゃないか。
 
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 『世界をおれのポケットに』は、初読の時から僕にとって特別な輝きを放っている本でした。
 僕が、クライム・ノヴェルに求めているものはThe World In My Pocketという気持ちだけだと思う時さえあります。どうにもならない世界をどうにかしたい。僕自身の中にもある感情を慰めるために読んでいるところが多分にある。
 生涯のベストテンを選ぶなら絶対にその中から落とすことはないだろう。今回読み返して、その気持ちを新たにしました。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人八年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby