『フロム・ヘル』
アラン・ムーア作、エディ・キャンベル画
柳下毅一郎訳 みすず書房
1888年、ロンドンのホワイトチャペル地区で娼婦が次々と惨殺された。世に言う「切り裂きジャック」事件だが、実際に起きた迷宮入り犯罪の中でも、これほど世界中のクリエイターの創作意欲を掻き立てたものは他にない。ロバート・ブロック、エラリイ・クイーン、M・J・トロー、マイクル・ディブディン、島田荘司、菊地秀行、服部まゆみ……と、作中でこの事件を扱った作家の名を挙げてゆくだけできりがないことになる。
今回、その真打ちとも言うべき作品が邦訳された。アメコミ界の鬼才アラン・ムーアの代表作『フロム・ヘル』である。1989年発表のこのコミックが今になって紹介されたのは、たぶん『ウォッチメン』映画化にあやかったものと思われるが、版元がみすず書房というのにはちょっと驚いた。
それはともかく、切り裂きジャック事件にある程度通暁している人々からすると、本書で披露される「真相」は既にお馴染みのものだろう。巻末の「各章の註解」でムーア自身が詳細に語っているように、真相はスティーヴン・ナイトの『切り裂きジャック最終結論』(成甲書房)を踏まえている。王室の秘事の隠蔽とフリーメイソンの謀略が事件の背景にあったとするナイトの仮説は、この事件に関する考察の中でもスキャンダラスさでは随一だろうが、他の研究家からの批判も集めているようだ。『フロム・ヘル』を読む前に、この『切り裂きジャック最終結論』か、あるいは手際よくこの仮説をまとめた文章として、高山宏『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』(創元ライブラリ)所収の「切り裂きテクスト」に目を通しておくことをお勧めしたい。
ムーアはナイトの仮説を作中にかなり大幅に取り入れているものの、仮説の単純な物語化が本書の眼目ではない。彼は切り裂きジャック事件のみならず、ヴィクトリア朝のあらゆる史実をパラノイア的な執念でリサーチし、19世紀末イギリスの大パノラマを創造してみせたのだ。ヴィクトリア女王をはじめ、その嫡孫クラレンス公アルバート・ヴィクター、王室侍医ウィリアム・ガル、「エレファント・マン」の名で知られるジョン・メリック、切り裂きジャック事件の捜査官フレデリック・アバーライン警部(映画版では彼が主人公になっている)、芸術家ウィリアム・モリス、画家ウォルター・シッカート、作家オスカー・ワイルド、詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ、霊媒ロバート・リーズ……等々、登場するキャラクターの殆どは実在の人物である。彼らの中には事件の中枢に関わる役目を負わされている人物もいるし、ちょっと顔を出すだけの端役もいるけれども、無意味に登場させられている人物はひとりもいない。彼らがかたちづくる人間関係は、ある異様な世界観を物語ることに奉仕している。
第四章で、「(娼婦たちを)片づけちまうわけで」と言う共犯者に、主犯は「違う! 『片づけちまう』んではない! そんなのはただの殺人、ただの追いはぎのやることだ。わしが言っておるのは大いなる業だ、(中略)偉大なる計画だ」と反論し、そこから数十ページに亘って、ロンドンという都市の開闢にまで遡るひとつの歴史を語り始める。そこには、18世紀の建築家ニコラス・ホークスムア(彼については、ピーター・アクロイドのオカルト・サスペンス小説『魔の聖堂』〈新潮社〉に詳しい)の建築群の秘密や、ギリシア・エジプト・インドの神話までもが、小栗虫太郎ばりの超論理によって取り込まれてゆく。主犯たる人物にとって、王家の不名誉の隠蔽などは動機のごく一部にすぎない。彼自身の歪な歴史観・世界観を、殺人という行為を通じて現実化することこそが真の目的なのだ。
そして、事件の因果の糸は太古に遡るだけではなく、未来にも伸びてゆく。切り裂きジャック事件の終わりが、殺戮の世紀たる20世紀の幕開けにつながってゆく……というのが本書の壮大な歴史観なのである。膨大なペダントリーとオカルティズムと陰謀史観の結合といえば、世界的ベストセラーとなったダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』(角川文庫)などが思い浮かぶけれども、それらの中でも本書は、構想の異様さと禍々しさにおいて、セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』(文春文庫)に比肩するものである。
なお、本書には文章表現では難しい、コミックならではの視覚的な伏線やお遊びも随所に見られる。例えば第九章に、第五の犠牲者となるメアリー・ケリーが、下半身を曝け出したしどけない姿でベッドに横たわっているコマがあるけれども、このポーズはどう見ても、現在伝わっているケリーの無残な遺体写真の構図そのままなのである。こういった細かい芸も本書の読みどころだろう。