Little Jack Horner, Sat in the corner, Eating a Chiristmas pie,

 (ちびっこジャック・ホーナー、角っこに座ってクリスマス・パイを食べた)

He put in his thumb, And pulled out plum ,And said,

 (親指をパイに突っこんで、中からスモモを取って、こう言ったんだ)

“What a good boy am I!”

 (僕ってなんてお利口さん!)

——マザーグース 「ちびっこジャック・ホーナー」

 ようこそ、ミュリエル・スパークの黒くて楽しい、不条理な嘲笑の世界へ。

 読もうかどうか迷っている方は、まず本屋に行って54ページから始まる「捨ててきた娘」だけさっと立ち読みしてみてください。たった5ページですから! もしくは90ページから始まる「ハーパーとウィルトン」を。「黒い眼鏡」も「双子」もいいですよ! 私のイチオシは「上がったり、下がったり」「ミス・ピンカートンの啓示」なんですが、これはぜひ収録順どおりに後回しにして頂きたいので、やっぱり……ぜひ購入していただいて、冒頭の「ポートベロー・ロード」からじっくりお読みになるのが一番でございましょう!

  私がはじめてミュリエル・スパークを読んだのは西崎憲編訳『短編小説日和』(ちくま文庫)の冒頭に収録された「後に残してきた少女」(『バン、バン! はい死んだ』では「捨ててきた娘」)でした。それを読み終わったときの衝撃といったら! そこらを歩いている人を誰でもいいから捕まえて「とにかくこれを読んでみてくれ!」と押しつけたい気持ちでいっぱいでした。

 それから『ポートベロー通り』に手を出しつつ、今回の『バン、バン! はい死んだ』が刊行されるなり喜び勇んで買ったのですが、これまたどうして、収録された15作の短編のほとんどが「後に残してきた少女」と比べても遜色のない粒ぞろいの出来だったのです。むしろ凌駕してしまっている作品もあるくらいで、私にとっては“捨て曲のないCDアルバム”のようでした。

 ちなみに本作は日本オリジナル短編集なのですが、「世渡り上手と世渡り下手」「自信家たち」「頭の中をのぞいてみれば……」という3つの章立てがいい味を出してます。

 ミュリエル・スパークの短編を表現するのに一番便利な単語は「不条理」「皮肉」だと思うんですが、彼女の作品はそんな一言では表せるものではありません。たった数ページの悲喜劇の中に、更なる深い深い魅力が秘められているのです。

 全体に「知的な現実主義者が真面目な顔をして、すっごくおかしな冗談をくすりともせず淡々としゃべり続けている」ような雰囲気があります。普通だったら真面目に描くべき人生の大きな転換期において、ありえない現象やふざけた出来事、滑稽で哀しい奇跡を、平然と物語の中にすりこませてくる。

 しかも読みながら「そこかよ!!」と大笑いしてしまう作品だってあるんです。この作者もしかして本当は遊んでるんじゃないかしら、と思わせられるくらいに。

 ただし、その不条理さがただの遊びになっていないところがスパークの本当の魅力なのでございます。

 例えば主人公の性格に込められた、私たち読者の隠しておいた秘部をこっそりと静かに刺してくるところ。

 あなたは「自分は賢く特別で人とは違う」と密かに信じていませんか? または子供の頃に信じていませんでしたか? このサイトを見にくるような読書狂のあなたなら当てはまるのではないでしょうか? もちろんこれを書いている私も例外ではありません。ええ、子供の頃は特によく思っていましたよ。「私はあんたたちと違う」って。

 短編集『バン、バン! はい死んだ』の収録作の多くには、そんなナルシスティックなコンプレックスを抱えた人物が主人公として登場します。

 冒頭に収録されている「ポートベロー・ロード」の主人公の女性“ニードル”もそのひとり。彼女は幼馴染の4人組と遊んでいた子供の頃から「自分は彼らと違う」と気づいていた少女なのですが、ある時、干し草の中から針を見つけると、仲間のひとりから「親指を突っ込んだらスモモが出てきた」とからかわれます。彼女の自惚れを見透かして、狡賢く“オイシイトコロだけ”を抜き取った人物を揶揄するマザーグース「ちびっこジャック・ホーナー」になぞらえちゃう、子供らしい意地悪な友達ですね。でも主人公はそんなからかいもまるで意に介していないような素振りを見せます。

 「自分は特別だ」を信じている人間はそれを隠しているつもりでも、周囲に感じ取られてしまうもの。自惚れを指摘されてからかわれたり嫌がらせを受けたりしても、恥ずかしいのをひた隠して平静を装わないといけない。そんな経験をしたことのある人は、ここでぐっさりとハートを刺されてしまうことでしょう。

 賢いと信じていた自分が実は愚かで矮小な、取るに足らない存在であること、人生は惨めであること、他人は想像以上に強かであること、世界は無関心で融通がきかないこと。ミュリエル・スパークはそう説いてみせながら、ふいに作中で奇跡を起こしてしまう。ありえないこと、突拍子もないことをさらりと出現させておきながら、平然とした顔で登場人物たちの動向を見つめている。肝心の登場人物たちはというと、これまた当たり前のように奇跡を受け入れ、その場でどうするか決めていく。そこに神の御手はなく、仰々しさもなく、ただ自分や他人の意思によって決定される世界があるだけ。

 なぜこのような主人公を配したのか。それはミュリエル・スパーク自身が同じく、自尊心が粉々に崩壊する経験をした女性だったからにほかなりません。

 巻末に収められている訳者あとがきを読んで、なぜスパークがこのような登場人物や表現を好んだのか、何となくでも察することができた気がしました。

 1918年に生まれ、芸術に理解のある優れた女教師や先進的な思想を持っていた祖母を慕い育った少女時代を経験しながら、大人になって結婚した後、アフリカに移り住んだことで人種差別などの現実に直面し、夫からの暴力に苦しみ、自分への誇りや自信がもろくも崩れ去っていく。少女の頃に信じた理想はただの絵空事だったと知ったに違いありません。

 けれど詩を愛し、筆の力と芸術的な直感に恵まれたスパークは、「皮肉と嘲笑の芸術」を根幹として諦めや失望を見事に作品へと昇華させました。

 彼女の作品に心を惹かれるのは、皮肉や嘲りの覆いの底に、諦めや喪失感が流れていながら、「それでもなお」という光が、かすかにきらめいているからです。

「ポートベロー・ロード」の冒頭で、臆することなく純粋だった少女時代を思い返している主人公が決然と意思を表します。「でも、あの頃に戻りたいと思わない」と。そこにミュリエル・スパークの前を向き続ける姿勢が現れています。

 純粋に悲喜劇の面白さを味わうもよし。端正な技巧に舌を巻くもよし。

 しかし私としては、現代に生きてなにごとかにぶつかり、自信を失い途方に暮れている人々にも、『バン、バン! はい死んだ』をオススメしたいです。あなたと同じような思いを抱え、それでも芸術作品へと昇華した女流作家がいることを知ってほしい。そして最近まで生きておられたということを実感してほしい。きっとミュリエル・スパークは皮肉な表情の奥底に隠した優しさや笑いのある活力を、与えてくれることでしょう。

深緑 野分(ふかみどり のわき)

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 デビュー短編集『オーブランの少女』(東京創元社)が10月に発売されました! 海外を舞台にした話が多いので、翻訳好きの皆様もぜひお手にとってみてくださいませ。

 ツイッターアカウントは @fukamidori6

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