『狼のゲーム』ブレント・ゲルフィ/鈴木恵訳


 作者は本書がデビュー作。過去の経歴は裁判所の書記官に弁護士に実業家。

 亡くなったベテラン作家でもなく、アメコミ界の鬼才でもない。

 世界各国でベストセラー、なんて煽り文句もついてない。

 ハリウッドで映画化! なんて予定があるのかどうかよく知らない。

 ミステリ史に残る超絶傑作というわけではない。

 実を言うと、ずいぶん荒っぽい作りの小説である。

 今年のベストを3冊選べと言われたら、あっさり除外するかもしれない。

 でも、6冊選べと言われたら……こいつを外すのは難しい。

 作者はアメリカ人だが、物語の舞台はロシアである。

 ソ連という統制が崩壊し、かつて統治のために存在していた暴力装置が野に解き放たれた社会。ソ連崩壊以降、英米作家にとってのロシアは、魅惑的な腐臭を放つ素敵な舞台の一つだ。

 警察が自身の腐敗を抱えながらマフィアと戦う、フィリップ・カーの『屍肉』。シベリアを舞台に、腐敗との戦いを描いたロビン・ホワイトの『凍土の牙』、あるいはクレイグ・トーマスの『無法の正義』。かつてはKGBを相手にしていたチャーリー・マフィンも、ロシア・マフィアに立ち向かうご時世だ。

 本書もその系譜に連なる一作……と言いたいところだが、実は大きな違いがひとつある。

 上記の作品では、マフィアはあくまでも敵役だった。だが、本書の主人公はマフィアの一員なのだ。ちょうど、ジャック・ヒギンズが『鷲は舞い降りた』でナチス・ドイツの軍人をヒーローに仕立てたような……とはさすがに言い過ぎか。

 作中では、ロシアがいかに腐敗と暴力の魔境であるかが繰り返し語られる。

 政治家とマフィアが渾然一体となって国家を食い物にする。警察は買収漬けで腐敗の抑止には何の役にも立たない。マフィアたちが抗争を繰り広げ、時にはテロリストが爆弾を投げつける。

 かくして人の命はきわめて安く、暴力の敷居はきわめて低い。

 陰惨な行為があっさりと実行され、斜め読みしているといつの間にか登場人物(あるいはその身体の一部)が減っている。敵役が野蛮なのは言うまでもないが、主人公もけっこうひどい。彼がためらいもなく人を殺す場面は、決して珍しくないのだ。

 主人公の名はアレクセイ・ヴォルヴォコイ──通称ヴォルク(狼)。元特殊部隊員。チェチェン紛争に狙撃手として従軍、ゲリラによって片足を奪われた。今では暗黒街の住人だ。前述の作品では、主人公たちは正義を抱いてマフィアと戦っていたけれど、ヴォルクは違う。生き延びるためだ。一目置かれている人物だが、決して有力者というわけではない。大物たちが繰り広げる争いの中で、彼は駒として扱われる。大物に命じられれば、暗殺のような汚れ仕事も淡々とこなす。

 物語は、ダ・ヴィンチの失われた名画の発見をきっかけに起きる、裏社会の有力者たちの争いを描いている。もっとも、その全貌が分かりやすく提示されることはない。すべてはヴォルクの一人称で語られる。読者のが目にするのは、二転三転する状況の中で悪戦苦闘する、抗争の駒にすぎない彼の行動だけだ。

 ヴォルクの語りは、感情の露出を抑えたもの。冷徹な文体で綴られる激烈な物語は、本書の魅力の中枢を担っている。たとえその筋書きが、いくぶん未整理の荒削りなものであっても。

 もちろん、本書の魅力はヴォルクが遭遇する数々の危険だけにとどまらない。

 彼には恋人がいる。ヒロインの名はヴァーリャ。チェチェンで生まれ育ち、戦乱の中で過酷な日々を過ごすが、ヴォルクに救い出された。今では、片足を失ったヴォルクのボディガードでもある。

 物騒な男と恋仲になるだけに、ヴァーリャもきわめて物騒な娘だ。物語の序盤からこんな活躍を見せている。

彼女はあおむけのグロモフにのしかかり、ずんぐりしたウージーの銃身をやつの口に突っこんでいる。あいたほうの手には刃渡りの長いナイフ。わたしは入口で足を止め、彼女の声を聞く。殺す前にどんなおぞましいことをしてやるつもりか、話して聞かせている。

 ちなみにこれは本書の第3章の2ページ目。3章の冒頭からこのくだりに至るまでに、すでに死体が三つ転がっている(一つはヴォルク、二つはヴァーリャによる)。念のために断っておくが、これは序盤なのでまだまだ抑え気味なのだ。

 そんなヴァーリャとヴォルクの恋路は、決して穏やかではない。一筋縄ではいかない二人の関係も、本書では重要な位置を占めている。特に、終盤にはきわめてショッキングな展開が待っている……とだけ書いておこう。

 前述のとおり、これはアメリカ人が書いた小説である。本書に描かれるロシアの暗黒魔境ぶりがあまりに凄惨なので、これが現地の皆さんにとっては噴飯ものの描写であることを願ってやまない。

 だが、そう願いたくなるくらいに、本書のロシアは不穏な輝きを放っている。欲望と策略の渦巻く危険な物語には、最適の舞台だ。腐敗と暴力の暗黒魔境・ロシア──これこそが本書の隠れた主役である。

 ちなみに、アメリカではシリーズ第3作まで刊行されている。本書でもかなり激烈な目に遭っているヴォルクが、今後どんな事態に遭遇するのか。二作目以降も楽しみだ。

古山裕樹