『毒蛇の園』ジャック・カーリー(文春文庫)

『毒蛇の園』の序盤で、若手刑事が「ばかでかいナイフを見つけましたよ」と主人公であるモビール市警刑事のカーソン・ライダーに告げる。そのナイフの発見現場付近に駐められた車の中には、一人の女性が横たわっていた。その模様を、ジャック・カーリーはこう描写している。

“被害者の腸がはみ出て、車内に血と排泄物の臭いが充満していた。女は助手席に頭をおいた恰好で、シフトレバーの上に倒れ、編んでビーズをはめた髪が人形のように広がっていた。鼻は折れているようだ。下唇は避けていた。腹を横切る傷が複数存在し、ブラウスは血で光っていた。喉は切り裂かれていた。”

 なんとも凄惨な死体描写だ。しかもこの被害者がニュースキャスター志望の若い女性で、チャンスを掴みかけていたという状況を知ると、余計哀れに思えてくる。ジャック・カーリーはそんな事件でこの作品をスタートさせたのだ。

『毒蛇の園』は、ジャック・カーリーの3冊目の著作であり、邦訳としても3冊目である。デビュー作は『百番目の男』で、この作品は「若き刑事の活躍をスピーディーに描くサイコ・サスペンス」として紹介された。

 確かにその紹介のとおり、ある事情を抱え込んだ刑事カーソン・ライダーが相棒のハリー・ノーチラスとともに活躍するという内容なのだが、『百番目の男』が日本の海外ミステリファンに衝撃を与えたのは、その紹介の文脈でではなかった。ラストで明らかにされる“動機”のあまりのとんでもなさによってであったのだ。首無し死体の肉体に“娼婦をねじれ”に始まる2行の文章が小さな文字で刻み込まれていた理由が“アレ”だったなんて! その衝撃は、この作品が「若き刑事の活躍をスピーディーに描」いたことも「サイコ・サスペンス」であることも忘れさせるほど強烈であった。そして、そのあまりの強烈さは、この著者が一発屋に終わるのではないかという懸念も読者に抱かせることとなった。

 その懸念を、1年半後に刊行された第2作『デス・コレクターズ』で、ジャック・カーリーは見事に払拭してみせた。何十本もの蝋燭と花によって飾り立てられた死体(まぶたにも蝋燭が立てられていた)を端緒とする事件を追うライダーとハリーを描いたこの第2作は、著者が類い希なる構成力を備えていることや、その力によって酸鼻な描写の連続に“知的なスリル”を付与していることを明確に証明していたのだ。

 一発屋から実力派の新鋭へと評価が高まったジャック・カーリーが放った第3作『毒蛇の園』は、冒頭で紹介した死体に加え、複数の死体を並べつつ、凄まじいスピードでクライマックスへと突き進む。その物語としての完成度は、今まで以上に高い。ライダーを中心とした警察の面々はますますくっきりと描写されており、警察小説としての魅力も増しているし、また、ライダーと恋人のあいだの波乱は読者をやきもきさせる。終盤には、ある場所に閉じこめられたライダーによる脱出サスペンスといった場面まで盛り込まれているのだ。美味なネタがみっしりと詰まったミステリに仕上がっているのである。

 しかしながら、それらの個々の要素以上に特筆すべき魅力が本書にはある。それが“操り”だ。過去の2作において、それぞれ何らかのかたちで人が人を操るという手法を作品に織り込んできたジャック・カーリーだが、この『毒蛇の園』では、従来よりはるかに精妙に操りの糸をコントロールしているのだ。表面に見えていた出来事の背後に隠れていたこの糸の動きを知った読者は、おそらくとてつもない衝撃を受けることであろう。

 さて、本カテゴリーは「私設応援団」とのことなので、最後に私的な応援をしておくとしよう。私が本書で最も魅力を感じたのは、悪役の造形である。悪の一族(と言ってしまおう)のキンキャノン家——成り上がりの一族で、金で世の中をコントロールしようとする——の造形があまりに巧みで、心底彼等を憎らしく思ってしまうのだ。特に、130〜140頁あたりに記された地域の子供たちのための野球場建設を巡るエピソードが印象深い。作中人物によって作中人物を巧みに操るジャック・カーリーだけに、私のような読者を操ることなど朝飯前なのだろう。

 だが、これは文句ではなく賛辞である。悪役を悪役として明確にしたからといって犯人が誰かという興味は全く色褪せないように工夫されているし、操られたからこそ、クライマックスの衝撃を存分に堪能できたのだ。操ってくれてありがとう、である。

 表面的な陰惨さや、あるいは“サイコ・サスペンス”というレッテル、第一作が“バカミス”として持ち上げられたことなどを理由として、この作家を敬遠している方がいるとすれば、あまりにもったいない。冒頭から結末まで、とにかく満足させてくれる作家なのである。今からでも遅くない。3冊纏めて読んでみていただきたい。

村上貴史