『コンラッド・ハーストの正体』ケヴィン・ウィグノール(新潮文庫)

 翻訳のお仕事をされている方々も読んでるに違いないこのブログで、こういう事を言うのもちょっとなんなのだが、翻訳ミステリー大賞がスタートしてからというもの、戦々恐々たる日々を送っている、という翻訳者の方はいらっしゃいませんか?大賞の投票締切まで、もうすぐ1か月。それまでに、果たしてどれだけ今年の新刊を読めるかを心配して。

 しかし、仕事に追われて時間のない方も、紺屋の白袴で普段あまり新刊ミステリを読まないという方も、どうかご心配なく。早い、安い、旨い、すなわち、早く読めて(半日もあれば十分)、値段もお手ごろ(千円札でおつりがくる)、そして面白い(これが一番大事!)という三拍子揃った吉野家の牛丼(たとえが古いが)もびっくりのすぐれものを、ご紹介いたしましょう。ケヴィン・ウィグノールの『コンラッド・ハーストの正体』である。

 ひとりの殺し屋が引退を決意するところからお話は始まる。彼の正体を知る雇い主ら4人の人間さえ抹殺すれば、血なまぐさい過去をリセットし、汚い仕事から自由の身になれる。そう思い立った主人公は、最後の殺しの旅に出る。

 おお、これは殺し屋版「舞踏会の手帖」ではないかと思う間もなく、最初の訪問先バイエルンで連絡係だった男がいまわに残した「あれは嘘だった」のひとことが、彼を惑わせる。自分を無慈悲な殺人へと向わせていたのは、本当は誰だったのか?主人公の迷走が始まる。

 作者のケヴィン・ウィグノールは、殺し屋をテーマにしたロバート・J・ランディージ編の『殺しのグレイテスト・ヒッツ』に「回顧展」という作品が収録されている知る人ぞ知る作家だが、長編の翻訳紹介はおそらく本作が初めて。しかし、殺し屋の自分探しというオフビートな物語は、次から次へと意表をつく展開で、読者を飽かせない。

 殺しの巡礼で始まった主人公の旅は、やがて謎の組織との血なまぐさい小競り合いに発展していくのだが、次々に接触してくる謎の人物らに幻惑されながら、主人公とともに読者は、ほぼ目隠し状態のまま、終章まで案内される。そしてそこに至って、本作の特異な構成、すなわち間奏曲のように章の間に挟まれたいくつものモノローグの意味するところが、明らかにされるのだ。

 古今東西、殺し屋を主人公にした物語は散々書かれてきたが、ここまで読者を煙に巻く作品も珍しい。そして、読者の心を揺さぶる作品も。主人公をめぐる謎、謀略のスリル、そして感動のカタルシスと、面白さの方も三拍子揃っている。ほぼ無名の作家の作品ではあるけれど、あえてお奨めする所以である。お時間のない方も、ぜひ。

ところで、早い、安い、旨いの牛丼ミステリは、まだこのほかにもある。一作という縛りで俎上にあげられなかった作品を、最後に思いつくままに掲げさせていただく。ここからも、さらにお気に入りの作品を見つけていただければ、嬉しい限り。

・『ダブリンで死んだ娘』ベンジャミン・ブラック(ランダムハウス講談社文庫)

・『コーパスへの道』デニス・ルヘイン(ハヤカワ・ミステリ文庫)

・『修道女フィデルマの叡智』ピーター・トレメイン(創元推理文庫)

・『砂漠の狐を狩れ』スティーヴン・プレスフィールド(新潮文庫)

・『日曜哲学クラブ』アレグザンダー・マコール。スミス(創元推理文庫)

・『氷姫』カミラ・レックバリ(集英社文庫)

・『ピザマンの事件簿 デリバリーは命がけ』L・T・フォークス(ヴィレッジブックス)

・『幽霊の2/3』ヘレン・マクロイ(創元推理文庫)

・『この世界、そして花火』ジム・トンプスン(扶桑社海外文庫)

・『泥棒が1ダース』ドナルド・E・ウェストレイク(ハヤカワ・ミステリ文庫)

・『レポメン』エリック・ガルシア(新潮文庫)

 三橋暁