突然ですが、わたしは英国ヴィクトリア朝が大好き。若いころは夭折の天才挿絵画家オーブリー・ビアズリーに血道をあげ、彼が好んだ世紀末の美術や文学にどっぷりと浸り、果てはヴィクトリア&アルバート美術館に押しかけて、原画を見せていただいたりしたものでした。ですからミステリも、時代ものや歴史ものをよく読みます。セックスやドラッグやサイコのかわりに毒薬と貴族と使用人が出てきて、登場人物が「〜たまえ」とか「〜ですわ」などという話し方をする、そんな世界の物語に強く惹かれてしまうのです。

 ここ数年でとくに惹きつけられた作品に、英国の歴史ミステリ作家であるアン・ペリーの『見知らぬ顔』と『災いの黒衣』(ウィリアム・モンク・シリーズ)があります。どちらも読者からはそれなりに評価された作品なのですが、いささか暗いトーンの物語であるためか、三作目以降は未訳のままです。

 舞台は十九世紀半ばのヴィクトリア朝英国。主人公のウィリアム・モンクは一作目の『見知らぬ顔』の冒頭で、病院のベッドの上で目覚めます。過去の記憶を失ってしまった彼は、見舞客が警察の人間であったことから、自分が警官であることを知りますが、ほかにはなにも思い出せません。「見知らぬ顔」とは、病院で目覚めたモンクがはじめて見た、鏡に映った自分の顔のことなのです。働かなければ飢えて死ぬだけのこの時代、一命を取り留めたモンクは、生きるために警察官として事件の捜査にかかわりながら、自分の過去を取り戻していきます(捜査そのものもまた、少しずつ記憶を掘り起こしながらの作業となります)。しかし、事故に遭う前の彼は、決して受け入れやすい人間ではありませんでした。過去の自分の虚栄心や野心、他人への思いやりのなさが人間関係に遺した傷あとを、思いがけないときに思いがけない形で知らされるモンク。そして二作目の『災いの黒衣』では、使用人に罪をかぶせて捜査を終わりにしようとする上司と衝突し、警察を辞めてしまいます。

 むろん、最後にはみごと真犯人をつきとめるモンクですが、警察を辞めた彼がこの先どうなるのか、捜査の過程で、モンクが友情とも敵愾心ともつかない感情を覚えた有能な弁護士オリヴァー・ラスボーン、没落貴族の娘で、看護師としてナイチンゲールとともにクリミア戦争に従軍した経験を持つ気の強い女性ヘスター・ラターリィ、記憶を失ったあとのモンクを支えつづけてくれた若き警察官ジョン・エヴァンといった、魅力的な登場人物たちとの関係がどう進展していくのか……既訳書をお読みになって、気になったままの方もおられるのではありませんか?

 きょうご紹介する『Defend and Betray』(92)は、モンク・シリーズの三作目にあたり、アメリカン・ミステリー賞を受賞した作品です。英雄の誉れ高いサディアス・カーライアン将軍が、友人宅で開かれた晩餐会の夜に、訪れた先の屋敷の階段から落ちて亡くなります。しかも将軍は、玄関広間に飾られていた甲冑の置きものが手にしていた槍に胸を貫かれるという、偶発事故にしてはあまりにも不自然な死に方をするのです。そして事件の次の日、将軍の未亡人アレクサンドラが、夫の浮気を疑って自分が殺したと自供します。しかし、サディアスの実妹でありヘスターの友人でもあるイーディスは、義姉アレクサンドラはそんな人ではないと強く主張し、その様子に心を動かされたヘスターが、アレクサンドラの弁護人としてラスボーンを紹介します。ラスボーンは私立探偵として身を立てはじめていたモンクを雇い、捜査を依頼します。

 クリミア戦争直後のこの国では、上流階級がまだまだ強大な力を持っていました。殺人事件の舞台となるのはこうした階級に属する貴族の館ですから、労働者階級の人間である警察官は、たいへんな苦労を忍びながら捜査を進めます。ところがモンクは、とある理由から、アッパー・ミドルの人々にもひけを取らない服を着て、なまりのない美しい英語を話す、ちょっと変わった存在です。さすがに貴族たちは彼をただの警官として扱いますが、使用人たちはそんな彼に気後れしたり、同じ階級のくせに羽振りの良さを見せびらかすとは生意気なと反発したり、さまざまな反応を見せます。貴族たちの暮らしぶりと、それを支える使用人たちの日々の生活、さらには新聞売りや俗謡売り、道路掃除の子どもたちなど、下層階級の人々がロンドンで懸命に生きる姿の生き生きとした描写も、このシリーズを読む楽しみのひとつです。たとえば森薫嬢のヴィクトリア朝メイド漫画『エマ』がお好きな方なら、モンクが使用人たちに聞き込みを行なう場面などは、たまらない魅力にあふれていると思われるのでは? 奥さまを一途に信頼する侍女や、若い使用人の成長を温かく見守る執事の姿などが、実に味わい深く描かれています。

 そしてなにより圧巻なのは、九章から十二章まで、四章分ものページを割いて描かれるアレクサンドラの裁判シーンです。裁判がはじまる時点では、将軍殺害の理由は読者にも明らかにされていません。絶対的に不利な状況下で、ラスボーンは弁護に、モンクは捜査にと執念を燃やします。裁判と並行して時間に追われながら捜査を進めるモンクとヘスターの活躍で、カーライアン家の秘密が次々と解き明かされ、ようやく事件の全貌が明らかになるのですが、その戦慄すべき事実を裁判で証明するには、あまりに困難が多すぎて……。文字どおりの手に汗握る展開ののちに、意外な形でどかんとカタルシスが訪れます。

 この三作目から、アン・ペリーは「ヴィクトリア朝の女性が忍ばなければならなかった苦しみと、それが遠因となって起こる悲劇」をはっきりと中心に据えて、物語を展開していきます。『Defend and Betray』では、作品のタイトルどおり、なにを守り、なにを裏切るのか——女性の権利が厳しく制限されていたこの時代、上流階級で生きる女性の、妻として、母としての苦しみがテーマとなっている、とだけお知らせしておきましょう。

 この作品で、モンクはまた少しずつ、過去の記憶を取り戻します。むかし愛した女性のこと、ノーサンバーランドに置いてきた家族のこと、師と仰いだ人のこと……。そしてヘスターとラスボーンは、ますます相手のことが気になりはじめます。モンクを含め、「よき友人」同士であった三人の関係が、今後どう変わっていくのかにも興味津々です。

 また、愛すべき脇役として、ヘスターが住みこみで看護しているティップレディ少佐や、ラスボーンの父親であるヘンリーが登場します。ヘンリーはアン・ペリーにとってもお気に入りのキャラクターらしく、短編『ゆすり屋』(96)では主役を張っています。

 遠藤 裕子

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※短篇「ゆすり屋」所収