「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 小説を読んでいて「置いてきぼりにされてしまったな」と寂しく感じてしまうことがよくあります。
 主人公側が正しいと作中の誰からも称賛されていて、敵対する登場人物は何もかも否定されてしまっているような話を読んだ時、僕はその全否定されている方のことを考えてしまうのです。別にそいつのことを肯定してほしいとは思わないのですが、作中世界であちらが正義でこちらが絶対悪と断定されて突き放されると心が痛む。
 せめて、顧みてほしいと思ってしまうのです。
 あえてそう書いているんだよ、とアピールしてほしい。
 だから、ポール・ギャリコの作品を読んだ時は、嬉しくなってしまいました。この人は、誰も置き去りにしない作家だ、と。
 たとえば『ポセイドン』(1969)は、それが特に表れています。
 この作品は転覆した巨大客船からの脱出を図る十数人の男女の物語なのですが物理的には各所で登場人物が置いていかれます。「これ以上はついていけない」と離脱したり、事故で亡くなったり、と。
 けれど、作中での扱いとしては、全てのキャラクターを捨てることはないのです。
 誰が正しい、誰が間違っているというところに落とさない。過酷な運命に立ち向かう登場人物のことを、序盤で退場する人から最後まで生き残る人まで平等に、それぞれ正義も悪も矛盾も全てを抱え込んでいる人間として描ききる。
 僕は、こういう作品を読むと「ああ、良いなあ……」と唸ってしまいます。
 作者の目が端役にまで行き届いていて、その上で、このような話を書きたいという思いが伝わってくる。
 その部分がちゃんとしているから、読者としての僕も、作者に置いてかれない。どんなに奇想天外な展開であろうとも、どんなに理不尽なことが起ころうとも、真っ直ぐに受け止められる。
 今回紹介する『ズー・ギャング』(1979)も、そんなギャリコらしい連作犯罪小説です。奇想天外で、クールで、愛とユーモアに満ちていて、誰一人として置いていかない。
 僕はやっぱり、どうしようもなく、好きなのです。
 
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 ズー・ギャングとは、戦時中、フランス国内でドイツ軍にレジスタンス活動で対抗した男たちのことだ。
 破壊活動の天才“象”、万能電気技師“豹”、殺し担当“虎”、錠前破りのプロ“狼”、そして彼らを統率する“狐”……それぞれ、動物の名前でコードネームを割り当てられているから、ズー(動物園)・ギャング。
 戦争が終わってから数十年、平和になったフランス国内で、彼らは活動を再開する。今度は、レジスタンス活動家としてではなく、この世の悪を挫く義賊として……というのが本連作の概要となります。
 各分野のプロフェッショナルが集まって作戦を遂行する、というのは犯罪小説や冒険小説では定番のストーリーなのですが、そこは名手ギャリコ、この定番の面白い部分はきっちり踏襲しつつ、そこから少しはみ出させて独自の味を出すことに成功しています。
 たとえば第一話「名画泥棒」の時点で、一味も二味も違います。
 再結集したズー・ギャングの最初の仕事は、資本家の別荘に飾られたルノアールの絵画の盗難作戦だった。あれを盗んで、売り払って、そのお金を貧しい人々へ再分配するのだ……というのが粗筋で、これだけだとシンプルな義賊の冒険譚なのですが、ギャリコはそれだけでは終わらせない。
 中盤でズー・ギャングの作戦の方向性の誤りがある登場人物から指摘され、グイッと着地点を変えるのです。「君たちの想いは分かるけれど、行動は完璧に正しいとは言えないよ」と行動を省みさせる。その後、もっと良いと思われる結末へ事件を持っていくよう、作戦が変わる。
 そうして辿り着いた結末だからこそ、ラストシーンで迷いなくハッピーエンドと言える。
 読者に先を読ませないという意味でも、読後感という意味でも、非常によくできた構成をしていて、惚れ惚れするくらいです。
 「成る程、こういう話が続く連作なのか」と思って第二話「五千万ドルのリヴィエラ祭を襲撃する方法」へ読み進めると、その思いが正しいと同時に誤ってもいるということを思い知らされます。
 作中人物のある行動に対して、別の視点があることを指摘され、意外な結末へ辿り着くという構造は同じですが、ツイストのかけ方が全然違う。登場人物たちの役割を、第一話と変えてくるのです。
 こうした作品を書けるところに、僕はギャリコの誰も置いてきぼりにしない作風というのを強く感じます。
 登場人物全員に等しく愛情を注いで書いているからこそ、彼ら自身の行動を省みさせることができるし、キャラクターの役割を自由自在に変えられる。それを読む読者も、読んでいて納得する。
 僕はここがギャリコ作品の最大の魅力だと感じます。
 そして、その魅力が存分に味わえるのが第三話「コート・ダジュールの雪」でしょう。
 
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 「コート・ダジュールの雪」は、これまでとは一転して、グッとシリアスな雰囲気の話です。
 それまでの二話では登場しつつも道化役に甘んじていたスクウビド警部がズー・ギャングを捜査で追いつめていこうとする、というメインの筋にその違いが特に表れています。
 スクウビド警部は、謎が存在することを許せない生真面目な男です。
 そんな彼が、街に蔓延していたドラッグがピタリと消えてしまったり、パレードの花車が盗まれてしまったり、確かに殺されている筈の人間の死体がどこにも見つからないという謎に直面する。
 本編は彼がこれらの謎を調べていくパートと、その謎を作り出したズー・ギャングの作戦のパートをカットバック形式で描いていくという構成になっていて、全編にピリッとした緊張感が漂っています。
 読み始めてすぐは雰囲気の転調に少し驚いてしまうのですが、読み進めていくと「いや、これまでとちゃんと地続きだな」と気づきます。
 そもそも、登場人物の誰しもを置き去りにしないということは、必ずしもハッピーな話であるということを意味しないのです。
 それぞれのキャラクターのことを描ききるなら、キャラクターの中で意見や立場の衝突も当然生まれる。「名画泥棒」が衝突しないところに落とせる話だったなら、「コード・ダジュールの雪」は衝突せざるを得ない話で、だから、表の雰囲気はガラリと変わっている。けれど、本質は一貫しているのです。
 ズー・ギャングとスクウビド警部、それぞれの想いはやがて、必然的にぶつかります。
 大量の謎に打ち負かされ、どうにか解いた先で信じたくないものを見て、更には警察官として行動するにも既にどうしようもないことを知った時、警部の感情が爆発する……そこがクライマックスになっていて、誰かが、立場の違う誰かを理解しようとする話として申し分のない書きっぷりなのです。
 本連作のベストはどれかと聞かれたら、僕は迷わずこの話を選びます。
 
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 素晴らしい小説を読み終えた時、「この〈作品〉が好きだな」と思う時と「この〈作者〉が好きだな」と思う時があります。
 要は、作品そのものか、その先に見える作者の姿勢に惚れこむかの違いなのですが『ズー・ギャング』の場合は、後者でした。
 この作者は信頼できる。ポール・ギャリコは、そう強く感じる作家の一人です。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人三年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby