「華麗なるギャツビー+ゴッドファーザーの面白さ」として話題になったベストセラー『ゴールド・コースト』の続編が刊行された。ネルソン・デミルの『ゲートハウス』(講談社文庫)である。私も満を持して読んだのだが、これがじつにすごい。底抜けにすばらしい。めまいがするほどすてきだ。とにかくもう傑作としか言いようがない。私は深く感服してしまった。ところが、である。アマゾンの読者レビューを見ると「長けりゃいいってもんじゃない」「話に山がない」という趣旨の感想がふたつ載っているだけ。しかも、どちらも採点は星ひとつの最低点。
ゲッ、いったいそれってどういうことよ?
とはいえ、じつをいうと、この二人のレビュアーの気持ちもわからないではない。『ゲートハウス』は派手な「エンタメ作品」ではないからだ。どちらかというと、ジョーゼフ・ヘラーの『輝けゴールド』とか、ソール・ベロウの『フンボルトの贈り物』とか、アップダイクの『帰ってきたウサギ』とかいった、アメリカの主流小説に近いテイストを持っている。派手な「エンタメ」を期待してこの作品を読んだ読者には、面白さの勘所がわからなくても当然かもしれない(←ちょっとエラソーですみません。ごめんなさい)。
さらにいえば、実際の話、文庫上下巻合わせて1400ページにも及ぶ『ゲートハウス』は、ある種の冗漫さを抱えている小説なのである。理由はふたつ。
〔1〕語り手である主人公が、おなじ話を何度も何度も何度もくりかえす点。これには「繰り返しによるギャグ」という効果もあるのだが、しかしそれにしても過剰でクドい。
〔2〕小説に時間的・空間的な飛躍がほとんどない点。これは、簡単に言えば「省略がない」ということだ。
たとえば、「私は自宅の玄関を開けた。そこには、妻の死体が転がっていた」(章が変わって)「一週間後、私はトレビの泉でカメラマンがくるのを待っていた」といった例を挙げるとわかりやすいと思うが、こうした小説の「時間的・空間的な飛躍」は、読者に驚きをあたえると同時に、生理的な快感をもたらす。エンタメ小説にとってこれは大きな武器だ。なのに『ゲートハウス』では、この武器がほとんど封印されている。上巻にいたっては、「空間的な飛躍」どころか、主人公が寝ている時間以外は「時間的な飛躍」さえほとんどない。
なら、『ゲートハウス』はただ冗漫なだけで退屈な小説なのか? 答えは断じてノーだ。なぜか?
前作『ゴールド・コースト』は、ものすごく大雑把に要約すると、「超高級住宅地の豪邸に住む弁護士のサッターが、隣の豪邸に越してきたマフィアのドンに妻を寝取られてしまう」という話だった。これに対して今回の『ゲートハウス』は、「サッターが10年前に離婚した妻と再会することになると同時に、マフィアのドンの息子から『おまえの元妻を殺すぞ』と遠回しに脅される」という内容だ。この「遠回しに」というのがミソで、実際には物語の終盤まで、事件らしい事件はほとんど起こらない。
では何が面白いかといえば、これはもう「巧みな話術」、その一点につきる。語り手のサッターは自分の置かれた現状と過去の記憶をひたすら語りつづけ、間断なく冗談と軽口を飛ばしつづける。軽妙に、鮮やかに、皮肉っぽく、ねちっこく、とにかくダラダラダラダラ語りつづける。ここから生まれる奇妙な酩酊感と、ロー・スピードながらも一瞬たりと途切れないドライブ感——これがすごいのである。
ここで効果を上げてくるのが、先に挙げた2点の「欠点」だ。本書には作為的な(いかにも小説的な)時間的・空間的飛躍がほとんどない。しかも、語り手は(普通の小説なら「無駄な描写」として削除されるような)反復をクドクドとくりかえす。やがてそこから、「非小説的な日常感」としかいいようのないリアリティが生まれてくる。早い話、なんだか長大なエッセイでも読んでいるような気分になってくるのだ(実際、私がこの作品を読みながら思い浮かべたのは、筒井康隆の『腹立半分日記』だった)。そして、いつしかサッターが実在の人物にしか思えなくなってくる。これは「人間に厚みがある」とか「人物造型がうまい」といったレベルではない。なんかこう、読んでいる途中で「あ、そういえばサッターって架空の人物なんだっけ」とふと気づき、思わずハッとする——そんな感じなのである。いやほんと、この筆力はすごい。
しかもこの小説、派手な事件は起こらないのにサスペンス感(もしくはドキドキ感)が途切れることがない。これは、「非小説的な日常感」が作品に横溢しているため、「サッターはこの女とセックスするのかしないのか?」とか「サッターが蛇蝎のごとく嫌っている義父と10年ぶりに対面するとき、いったい何が起こるのか?」といったほんのささいな問題が、相対的に「大きな事件」に昇格するからだ。考えてみてほしい。深作欣二の映画で登場人物がひとり殺されても、誰も驚いたりはしない。しかし、それが小津安二郎の映画なら、老人が心臓発作で死んだらもう大事件だ。冒頭にも書いたが、『ゲートハウス』は派手な「エンタメ」ではない。間違った思いこみを抱かずに読めば、そこには唯一無二の豊饒な読書体験が待っているはずなのである。
ただし、本書はたんに面白いだけのお気楽な小説ではない。底抜けの笑いが全篇を彩っているけれど、作品のテーマは重くて苦い。蛇足とは思いつつ、それについてもちょっとだけ触れておこう。
本書が本国アメリカで発表されたのは2008年である。しかし、物語の時代は2002年、すなわち9・11同時多発テロの翌年に設定されている。ここがポイントだ。本書のテーマが、「9・11がアメリカ社会と国民の生活をいかに変えたか」にあることは明らかだろう。とはいっても、ただそれだけなら、べつに特筆すべきことではない。9・11以降、そうした小説はいくつも書かれている。しかし、デミルはそこから一歩踏みこみ、現代アメリカにおける「正義」となにかを真正面から問うのである。
前作『ゴールド・コースト』で、主人公のサッターは敵に対してあるヒロイックな行動をとる。しかし、はたしてそれは正しい行動だったのか? もしいまそれとおなじ状況に立たされたら、自分はどう行動するだろうか?——それが本作でサッターが突きつけられる重く苦い問いである。
古きよき時代のアメリカでは、ジョン・ウェインが悪党を撃ち殺せばそれでハッピーエンド、正義もモラルも傷つくことはなかった。しかし、60年代以降、アメリカは黒人問題やベトナム戦争などで大きく揺さぶられ、「正義」のあり方も大きく変化していく。たとえば、1971年の『ダーティ・ハリー』で、悪党を倒した刑事ハリーは警察バッジを投げ捨てる。そこにはもう、誰もが肯定するオールマイティな「正義」は存在していなかった。では、9・11後の現在は?
その問いに対するデミルの回答はひどく苦い。ぼくは思わず「おいおい、それでいいのかよ?」と驚き、すくなからぬショックをうけた。というのも、そこで描かれていたのが、現代のアメリカにおける「ヒロイズムの終焉」とでもいうべきものだったからだ。この小説、読者を笑わせて笑わせて笑わせておきながら、最後の最後になって、笑ってなどはいられない現実を鋭く突きつけてくるのである。
矢口 誠 (やぐち まこと) |
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1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『ハリー・ハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。 |