今回ご紹介する Triage を初めて読んだのは、たぶん刊行まもない98年か99年、タイトルのトリアージ(*)という言葉がまださほど世の中に浸透していないころだ。このタイトルが意味する重みをぜひ日本の読者に伝えたいと思い、ある出版社に翻訳企画の持ちこみをしたものの、残念ながら気に入ってもらえなかった。

(*選別の意。生存者数を最大にするために、症状の程度によって治療優先順位を決める方法。軽症者や生存の見込みのない重傷者の治療を切り捨てることもある)

 けれども、その後も10年以上にわたっていつも自分のなかのどこかでこの作品が気になっていた。重い、ほんとうに重いテーマの本である。微塵も楽しさはない。この場をお借りして、そのテーマの一端でもお伝えできれば幸いである。

 はじめにお断りすると、本書は2009年に映画化されている。『戦場のカメラマン——真実の証明』(コリン・ファレル主演)だ。DVDも発売されているので、ご覧になったかたもいるだろう。ただ、よく言われるように原作と映画は別物。映画は大筋では原作に沿っているが、細かな設定や人間関係などが示す原作の意図を省略・変更していることをお知らせしておく。

 主人公はフォトジャーナリストのマーク。取材場所はおもに戦場だ。それもより過酷な戦いが繰り広げられている土地に自ら乗りこんでいき、撮った写真をエージェントを通じてメディアに売ることで生計を立てている。

 マークには同棲中の恋人エレナがいる。エレナはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ニューヨーク事務所に勤務し、さまざまな争いの犠牲になった人々が集まる難民キャンプにかかわる仕事をしている。

 組織に所属せず、自らの意志でもっとも危険で惨烈な現場に赴き、世界に向けてその現実を伝えようとするマーク。そんな恋人を心配しながらも、自分は安全な場所に住み、ほとんど現地の難民キャンプに赴くこともなく、厳しい状況に置かれている人々を支援するエレナ。ある意味、好対照なふたりである。

 物語はクルジスタンで取材するマークが目の前の死体を見つめるところから始める。そのころクルジスタンでは、クルド人のゲリラ組織ペシュメルガとイラク軍が激しく戦っていた。マークは死体を目にしてここにいては自分も同じ運命になると思い、立ちあがる。

 次にマークが目覚めたのは、クルド人たちのための野戦病院だった。大けがをして搬送されたのだ。しかし、洞窟を掘っただけの名ばかりの病院には薬も設備も足りず、ひとり治療に奔走する医師タザーニは、絶え間なく洞窟に運び込まれる血みどろの負傷者——多くは四肢のどれかを失っていたり、胴体に大きな穴があいていたりする重傷者——をざっと診ると、それぞれに三色のプラスチックのタグから一枚を渡す。治療の優先順位を決めるトリアージだ。黄色のタグは比較的軽症なので最低限の手当てしかしない患者、赤のタグは要治療患者、そして青は死亡を意味する。重症は負ったが、自分で体を動かせるマークは黄色のタグを受けとった。

 死のタグ、青。だが、タザーニは死者だけではなく、まだ意識がある者にも青を渡した。けがの度合いからこの病院では治療できないと判断した患者たちだ。彼らはすぐさま洞窟の外に運び出され、宗教者が祈りを捧げるなか、まだ命ある者たちは医師であるタザーニの手によって銃殺される。作者の巧みな筆づかいで実にリアルに描かれているため、原文を読むだけでそのシーンがくっきりと思い浮かぶ。まさに目を覆いたくなるような場面だ。

 やがてマークは足を引きずりながら、傷だらけの体で帰国する。いつものこととはいえ取材に出たきり何の連絡も寄こさないマークを心配して待つエレナ。ところが、やっと帰国したマークは体の傷は川に流されて岩にぶつかったせいだと説明したきり、クルジスタンでのようすをいっさい語ろうとせずに自分の殻に閉じこもってしまう。同行していたはずのカメラマン仲間コリンとは戦地で別れたと言うばかりで、コリンの身重の妻ダイアンにもあいまいな説明しかしない。そればかりかあんなに好きだった戦場取材の仕事を控えて、エレナに子どもをつくろうなどと言う。

 ある日、マークは自宅で倒れて救急病院に搬送される。すると、体内から爆弾のかけららしきものが見つかり、担当した医師は総合的に考えると川に流されたのではなく、爆弾が近くに落ちて怪我を負ったのではないかとエレナに告げる。帰国してからのいつもと違うようすや、何かを隠しているような雰囲気にいやな予感がしていたエレナは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむマークを救うために、何年も絶縁状態にあった祖父で精神科医のホアキンの助けを受け入れることにする。

 トリアージはこの作品の最大にしてもっとも重要なテーマであり、モチーフでもある。野戦病院のシーンばかりではなく、作中のそこここに大なり小なりの選別、優先順位づけが描かれている。

 たとえば第二次大戦中にホアキンが所長を務めていた研究所は、精神に問題を抱えたスペイン軍将校たちを治療する施設だった。そして、治療によって「浄化」が済んだ将校は施設を退所したのち、ある者は軍隊に戻るが、ある者はいっさいの軍歴を抹消され、文字どおり通りに放り出される。こうして存在を消し去された元軍人は、年金や何の補償も得られず、ただ寒風にさらされてごく短い余生を過ごすことになる。国の都合による命の選別。だからエレナは、どれほど優れた精神科医であっても、「政府や軍上層部の手先」だった祖父を許せず、長いあいだ連絡を絶っていたのだ。しかし、この老練な精神科医が、薄皮を一枚ずつ剥がすようにマークが抱えこんでいる秘密に近づいていく。

 クルジスタンのようすについて、コリンの消息について、マークはなぜ口をつぐむのか。その謎が最後までこの作品を緊張感のヴェールに包む。百戦錬磨の戦場カメラマンをそうまで追いつめたものは何なのか。その答えは想像以上に胸に重くのしかかる。

 さて、著者スコット・アンダーソンは日本未紹介の作家である。ジャーナリストであり、経験豊富な従軍記者でもあると聞けば、さもありなん。本書に描かれる戦地シーンがリアルなのも当然だろう。本書のほかにフィクションでは Moonlight Hotel、ノンフィクションでは The Man Who Tried to Save the World: The Dangerous Life and Mysterious Disappearance of an American Hero などが刊行され、ニューヨーク・タイムズやGQ、エスクァイアといった媒体に多く寄稿している。

◇片山奈緒美(かたやまなおみ)

翻訳者。北海道旭川市出身。ミステリーの訳書はリンダ・O・ジョンストン著『愛犬をつれた名探偵』ほかペット探偵シリーズ。自他共にみとめる犬好きで、犬がらみの書籍の翻訳にも精力的に取り組んでいる。最新訳書は『ワークアラウンド仕事術』(マグロウヒル・エデュケーション)。

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