追記(2016-01-25)

 以下の記事は 2012年7月6日に掲載したものです。記事で触れられている『キャロル』は、その後2015年12月に本記事の筆者、柿沼瑛子さんの翻訳で河出文庫より邦訳が刊行されました。

 同翻訳書の刊行と前後して、2015年12月8日には柿沼瑛子さんによる『キャロル』の紹介記事も掲載いたしましたので、そちらもあわせてお読みください。

(編集部)

 パトリシア・ハイスミスがレズビアンであったことは生前から公然の秘密でしたが、彼女自身はほとんど自分のプライベートについて語らず、死後に残された膨大な日記やノートをもとに書かれたアンドリュー・ウィルソンの伝記 Beautiful Shadow:A Life of Patricia Highsmith で、はじめてその全貌が明らかになりました。これまでハイスミスといえば、その作品の印象からなんとなく人間不信で、唯我独尊、狷介、一匹狼的なイメージが強かったのですが、実はいつも誰かを愛していなければ生きていけない不幸恋愛体質で、多情多恨の人だったということがこの伝記によって明らかになったのです(ちなみにこの伝記には「流出」されて話題になった若き日のヌード写真も掲載されています)。

 筆者はハイスミスの『水の墓碑銘』を翻訳しているのですが、献辞にそっけなくイニシアルだけで記されていたのが、実はすったもんだのあげく自殺未遂騒ぎまで引き起こし、別れてからもハイスミスが死ぬ数年前まで友人関係にあったという元恋人(もちろん女性)エレン・ヒルだったことを初めてこの伝記で知りました。おまけにあのいやったらしい主人公ヴィクの外見上のモデルだったことも。だからといって作品の評価が変わってしまうわけではないのですが(むしろあそこまでつき放して書けたことのほうがすごいと思う)いろいろと腑に落ちることが多かったこともたしかです。

 とはいえハイスミスがゲイについて直接的に扱っている作品は少なく(リプリー・シリーズなどのホモエロティシズム色の強い作品はありますが)、遺作となった『スモールgの夜』、そして日本ではなぜかまだ翻訳されていない『キャロル』Carol くらいしかありません。そして今回はその『キャロル』が映画化されることが今年のカンヌ映画祭で発表され、主演のふたりにケイト・ブランシェットとミア・ワシコウスカという、まさに旬の女優が共演することで話題を呼んでいます。

 1948年、『見知らぬ乗客』を書き終え、翌年に刊行を控えていたハイスミスは、経済的な理由から、クリスマス・シーズン真っ盛りのブルーミングデールというデパートでアルバイト店員を始めます。彼女が配属されたのは、まさにかきいれどきの玩具売り場。それこそ目のまわるほど忙しい戦場のような売り場に、ある日、毛皮をまとったブロンドの女性が忽然とあらわれます。喧噪のなかにそこだけぽつんと光をはなっているような、ミステリアスな存在に、ハイスミスはたちまち惹きつけられてしまいました。仕事を終えて、ひとり暮らしのアパートに戻った彼女は、昼間出会った毛皮のコートの女性のイメージをもとに、憑かれたように物語の導入からラストまでのあらすじを一気にノートに書きつけたあげく、高熱を出して倒れてしまいます。『プライス・オブ・ソルト』The Price of Salt として後に刊行されるこの作品こそ、『キャロル』と改題され、ペーパーバックで百万部を超えるセールスを記録するハイスミス唯一のレズビアン小説なのです。

 舞台美術家の卵である十八歳のテレーズ・ベリベットは、再婚した母親を憎み、ひとり都会に出て自分のキャリアを築こうと悪戦苦闘の日々を送っています。彼女にはリチャードという婚約者もいるのですが、結婚という道にもいまいち踏み切ることができません。前の職場をクビになった(今でいうなら派遣切りみたいなもの)テレーズは、しかたなくクリスマスシーズンのデパートの臨時アルバイト店員として働くことになります。女子店員たちに代表される「社会」の醜さをまのあたりにして、ますます鬱々とした日々を送るテレーズの前に、ある日娘にプレゼントする人形を探しているという女性があらわれ、その美しく、ミステリアスなたたずまいに彼女はたちまち心を奪われてしまいます。

 送り先伝票からその女性の住所を知ったテレーズは、ダメ元で彼女あてにクリスマスカードを送りますが、驚いたことにその女性からすぐに連絡が届きます。テレーズはそのキャロルという謎めいた女性と何度か会っているうちに、彼女が人妻で、現在離婚訴訟の真っ只中にあり、娘の親権をめぐって争っていることを知ります。生まれて初めて本当の「恋」を知ったテレーズですが、結婚を迫るリチャードからの圧力、さらにはキャロルの離婚の原因ともなったらしい元カノのアビーの存在、さらにはふたりを疑うキャロルの夫の雇った探偵の存在などが彼女を苦しめるのでした……。

 テレーズの若さゆえの悩み——自分がほかの人とは違うと思いたい。でも、もし才能がないただの「凡人」だったら、どんな醜い未来が待っているのだろうという不安、この不安定な「若さ」から見た「老い」の無残さを象徴する人物として、ミセス・ロビチェクという中年の女店員が登場するのですが、その描写っぷりがまるでフランシス・ベーコンの絵画のようにグロテスクで、それがまたキャロルが象徴する「美」と絶妙な対比をなしています。

 後半は、キャロルの夫の目から逃れるためのふたりの逃避行を中心としたロード・ノベルになるのですが、その結果がどうであれ、最後にはテレーズだけでなく、キャロルもまたある意味では生まれ変わり、未来に向かってともに歩み出していくという結末は、ある意味ではハッピーエンディングともいえるでしょう。この小説はまた、それまで自分のことしか考えてこなかったテレーズが、キャロルとかかわることで、必死に自分の頭で考え、決断し、大人へと成長していく物語でもあるのです。

 この作品が発表された1951年はマッカーシズムの赤狩り旋風が吹き荒れる只中であり、ホモセクシュアル(男女双方)への弾圧は苛烈をきわめ、小説や映画などでもアンハッピーエンディングでなければ許されなかった(さもなければポルノ扱いになって一般の書店には置けない)という時代背景を考えると、これはかなり大胆な結末でした。さすがにハイスミスも売り出し中の作家としてリスクを冒すことはできず(というより出版社と代理人の判断で)、この作品はクレア・モーガン Claire Morgan 名義で刊行されましたが、百万部を超える大ベストセラーとなり、毎週何十通ものファンレターがハイスミスのもとに舞い込んだそうです。

 実はこの作品、ずっと昔に翻訳を依頼されたまま棚ざらしの状態になっており、筆者が講師を務めるレズビアン小説翻訳ワークショップでテキストとして取り上げ、すでに小説全体の翻訳も終わっています。この映画化を機に、ぜひともハイスミスの唯一翻訳されていない作品に陽の目を見させたいのですが、われこそはという出版社はおられませんでしょうか?

■本書刊行にご興味のある出版社の方は、当サイト事務局あてにお問い合わせメールをお送りください。アドレスは honyakumystery@gmail.com です。(編集部)■【編集部注】「追記」でも書きましたが、本作品は当記事掲載後に河出文庫より邦訳が刊行されましたので、この部分を削除いたしました(2016-01-25)。

柿沼 瑛子 (かきぬま えいこ)

1953年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。主な訳書/アン・ライス『ヴァンパイア・クロニクル』シリーズ、エドマント・ホワイト『ある少年の物語』など。共編著に『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』『女性探偵たちの履歴書』など。最近はもっぱらロマンスもの多し。

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