何だよ、“重苦しい社会派ミステリ”って看板が立てられた敷地にいたと思ったら、 いつの間にか英国風謎解きテーマパークに入場して無邪気に遊んでいたよ! 不思議! ドイツ発の警察小説、ネレ・ノイハウス『深い疵』はそのごっつい外見とは裏腹に、 カジュアルに楽しめちゃう、じつに小気味よいミステリなのだ。
ゴルトベルクという1人の老人が殺されるところから物語は始まる。ゴルトベルクは ホロコーストを生き残ったユダヤ人であり、アメリカ大統領の顧問を務めた立志伝中の 人物であった。殺害方法は第二次世界大戦中に使用された拳銃による射殺、現場には 「16145」という謎の数字が残されていた。これだけでも十分不可解な状況だが、司 法解剖の結果、さらに驚くべき事実が発覚する。何とゴルトベルクの腕から、ナチス の武装親衛隊員の証しである血液型の刺青が見つかったのだ。ナチスの人間だった男が、 一体なぜユダヤ人と偽って生きていたのか?捜査を担当するオリヴァー首席警部はゴ ルトベルクの過去を洗うため、彼の長年の友人で資産家のヴェーラ・カルテンゼーとそ の親族をマークし始める。しかし、同じような手口による第2、第3の老人殺しが発生、 事件は一層複雑なものになっていく。
歴史上の悲劇の被害者であるはずのユダヤ人の大物が、実はホロコーストの実行者で あるナチスのメンバーであった、というショッキングな展開が小説の開始から間もなく 待ちうけており、読者は早々に物語へと引き込まれることになる。
と、こんな風に書くと、「ナチスとかホロコーストとか、なんだか暗くて重たそうな 話みたいで、ちょっと勘弁だなあ」と尻込みしてしまう人もいるかもしれない。
だがご安心あれ。重厚なテーマを予感させる謎が提示された後、被害者の秘密の鍵を 握る老女ヴェーラとその家族に話の中心がシフト。どいつもこいつも腹に一物抱えた成 金カルテンゼー一家とその関係者のスキャンダラスな愛憎劇を、視点を巧みに切り替え 描きつつ、作者は真相究明のための手がかりや伏線をさりげなく仕込んでいくのだ。そ の光景は、アガサ・クリスティの諸作品のような緻密な人間関係の描写と犯人当ての妙 味を備えた殺人劇を想起させる。そう、堅苦しい社会派ミステリのようでいて、どこか 洒脱で読む者の好奇心を掻き立てるイギリスの謎解きミステリの香りが漂っているの だ、この『深い疵』という小説には。
そうした香りをさらに際立たせるのに一役買っているのが、主人公であるオリヴァー 警部の設定だ。オリヴァーは貴族出身、妻のコージマも高貴な血を引く出自の持ち主と いう、極めてノーブルなステータスの人物である。一見武骨なベテラン刑事でありなが ら、所作や言動に気品とユーモアが備わっている彼のキャラクターは、この作品に堂々 たる風格を与えることに成功している。貴族出身の警官、といえばエリザベス・ジョー ジの作品に登場する“伯爵”の称号を持つスコットランド・ヤードのリンリー警部が思 い浮かぶ。エリザベス・ジョージは米国人の作家ながら英国への強い憧れからイギリス を舞台にした推理小説を書いたが、ネレ・ノイハウスの作品は(意図的にせよ、無意識 にせよ)英国本格探偵小説をそのままドイツの歴史や風土に合わせて見事に移植してみ せたミステリ、と解釈できるはずだ。
本作をドイツが持つ暗部を暴く警察小説、と捉える人は多いだろう。でもさ、扱うテ ーマの重さ、暗さの部分ばかりに注目するのは、本当に勿体ないよ!
ドイツ史のダークサイドという題材はあくまでも玄関口。その先に控えている英国流 の粋で小味の効いた謎解きキングダムに、ぜひとも気軽に足を運んでみて欲しい。
挟名紅治(はざな・くれはる)
ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。
※本レビューは「書評を楽しむための専門サイト BOOKJAPAN」に掲載されたものを著作権者の許可を得て転載しました。同サイトも併せてご利用ください。