アイリーン・アドラーは、シャーロック・ホームズものの最初の短篇「ボヘミアの醜聞」の登場人物である。その時点で三十になるやならずやの元オペラ歌手で、ホームズが唯一「あの女性(ジ・ウーマン)」と呼ぶ、ホームズを打ち負かした数少ない人物の一人であるという。ホームズは女性の知性をあまり信用していなかったし、女性に対する愛情を(少なくともドイルが書いた原典においては)示すことがなかった。よってアイリーン・アドラーは、シャーロッキアンにとって、女性としても、ホームズの対決相手としても、特別な存在であり続けている。必然的に、各種パスティーシュでは、彼女はホームズの恋人として、あるいは犯罪組織の首魁として遇される機会が多いようである。

 だがちょっと待ってほしい。アイリーンは、「ボヘミアの醜聞」では、正直言ってあまり大したことをやっていない。ボヘミア王からの手紙と写真の在処がばれたと悟り、彼女は変装してホームズをつけてその事実を確認した後、結婚相手ゴドフリー・ノートンとすたこらさっさと逃げる。ホームズを負かしたとされる理由は、彼女が「手紙を持ったまま逃げおおせた」からなのだが、「勝利」としてカウントするにはちょっと華に欠ける。加えて、倫理的にもそこまで悪辣な犯罪者とは思えない。ゆすりのネタの手紙と写真は、盗んだものではなく、ボヘミア王その人からアイリーン本人に贈られたもので、正当な所有権者はアイリーン自身に他ならない。恐喝したのは確かにまずかったが、結果論としてはボヘミア王がアイリーンを弄んだ形になっているうえ、当人同士に何があったかは具体的なことはほとんど語られていません。この状況でアイリーンのことを虞犯性が高い女とみなすのは、一方的だし可哀そうだと思うんです。ましてやモリアーティと同列に扱うなんて、パスティーシュ作家ども、お前らの血は何色だ?!

 ではそのアイリーンを《正当に》扱うパスティーシュはないのか。あります。それがこの『おやすみなさい、ホームズさん』なんである。

 本書の語り手は、ペネロピー・ハクスリーという、アイリーンの二歳上の女性である。彼女は田舎の牧師の娘で、ロンドンに出て来て職を失い、路頭に迷っていたところを、アイリーン・アドラーに助けられるのだ。それが1881年のこと。その際にロンドンで同居を始めて親友となった二人は、途中でアイリーンが歌手として単身ヨーロッパに向かう別居期間を挟み、舞台はロンドンにとどまらずボヘミアまで広がって、下巻では、ボヘミア王国で何があったか、そして「ボヘミアの醜聞」のアイリーン側から見た実相が描かれるに至る。物語は、宝石探しを一応の主軸とするものの、基本的には別個のエピソードが積み重なる、連作短篇集に近い形態で進む。各エピソードはミステリ仕立てだが、ネタは軽めだ。本書の中心はあくまで才気煥発なアイリーンの活躍であり、謎解きはそれを表す一手段に過ぎないと割り切った方がベターだ。そしてその限りにおいて、本書は素晴らしい作品であることを保証しよう。

『おやすみなさい、ホームズさん』でのアイリーンは、とても元気だ。本業のオペラ歌手としてもむろん頑張っているのだが、副業で探偵をしており、社交界に潜り込んだり、男性に変装したり、不正を挫いたりと、八面六臂の活躍を見せる。

 面白いのは、アイリーンとぺネロピーの対比である。アイリーンは非常に開明的な女性として描かれている。ヴィクトリア朝期は男女同権の時代ではなく、男尊女卑の傾向が強かった。女性はとにかく奥床しくあればよく、「活発な女性」は、単にそれだけでふしだらとイコールで結ばれていた。だがアイリーンはそんな批判などどこ吹く風、自分の人生をめいっぱい楽しんでいる。ただしこれは享楽的であることを意味しない。アイリーンの行動は筋が通ったもので、曲がったことは大嫌い、つまり正義側の人間ですらある。彼女は破天荒かも知れない、女だてらかも知れない、だがその「破天荒」「女だてら」は、ヴィクトリア朝期のそれに過ぎないのである。少なくとも現代社会の価値観から行けば、アイリーンは完全に正常であり、もし仮に彼女のような女性を「女だてらに」などと指弾しようものなら、問題発言として集中砲火を浴び、ブログやSNS、twitterでそれを言ったら大炎上するに違いない。一方のペネロピーは、ヴィクトリア朝の堅苦しい倫理観にがんじがらめに縛られており、アイリーンの言動の一々に驚愕し、不安を口にする。このペネロピーの頑迷な価値観が、アイリーンの当時における先進性を鮮やかに浮き彫りにするのである。

 なおペネロピーもアイリーンに乗せられて、以前だったら考えられない果敢な行動に出るのだが、それは散発的で、基本的には引っ込み思案のか弱い女性のままである。もし彼女が、アイリーンに感化されてその性格を変えていたら……ゴドフリー・ノートンに絡んで、アイリーンと恋の鞘当てぐらいはしただろうなあ。ゴドフリー・ノートンの魅力(彼も実にナイスガイなのだ)に気付いたのは、ペネロピーの方が遥かに先だったのだから。アイリーンとゴドフリーと恋愛成就を喜びつつも、一人になったときメランコリーに耽るペネロピーの姿は、本書の中でも特に印象的なシークエンスである。

 と、以上で小説としての魅力の大半は語り尽くしたのだが、私が一番「技あり」と思った事項は実は他にある。それは、オペラ歌手としてのアイリーンの扱いである。原典における彼女は、スカラ座への出演経験を有するほどの、コントラルトの本格的なオペラ歌手であった。作者は、ここを足掛かりに、史実と虚構をつなぐ絶妙なブリッジを架けてみせたのである。

 そのためにキャロル・ネルソン・ダグラスが用意したキーパーソンは、大作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904)である。この文章を読んでいる人も、彼の名前は知らなくても、曲には絶対に聞き覚えがあるはずだ。何せ超有名交響曲《新世界より》の作曲者ですからな。あとスラブ舞曲集とかチェロ協奏曲とか……。で、このドヴォルザーク、実は十九世紀末にロンドンでも人気を博し、よく渡英していたのである。作中でアイリーン・アドラーはドヴォルザークの前で歌う機会に恵まれる。そこにおいてアドラーの歌声を気に入ったドヴォルザークは、以後、彼女を大陸の歌劇場に紹介する労を一度ならずとることになる。彼女がボヘミアに行ったのも、ドヴォルザークのおかげということになっている。

 絶妙なのは、ドヴォルザークがチェコの作曲家であるという事実をフル活用している点だ。チェコの西部は、実際にボヘミアと呼ばれる地域である。チェコの首都プラハも、ボヘミア内にあるのである。本書においてボヘミア王国は、チェコに立地する、ハプスブルク帝国内の一領邦として設定されており、アイリーンは、当該地域内に住んでいたドヴォルザークという実在の作曲家に見出されて、オペラ歌手としての国際的キャリアを積んでいくことになる。本書において、アイリーン・アドラーは、チェコ=ボヘミアとドヴォルザークを軸に、我々が生きる現実世界とのリンクを持つに至ったのである。

 なお、本書の設定年代である1881年から88年にかけての時期、ドヴォルザークは国際的名声を獲得済みであったが、オペラ作曲家としての名声は確立できていなかった。このためだろう、舞台がボヘミアに移って以降も、作中では、ドヴォルザークのオペラにアイリーンが出演するシーンは見られない。大変残念だが、ドヴォルザークとアイリーンが音楽的に繋がっていることは再三示唆されている。ドヴォルザークは本書の中で、アイリーンの容姿ではなく、またその知力でもなく、本業の音楽に惹かれたほとんど唯一の人間として描かれている(つくづく、ドヴォルザークはいい役もらってます)。こういう人間ばかりであれば、アイリーンも歌手を引退する必要はなかったであろうに。そもそも、歌手の声が成熟するのは、三十代から四十代にかけてである。ボヘミア王家のいざこざに巻き込まれたからしょうがないのだけれど、アイリーンの早過ぎる引退を、私は心から残念に思う次第であります。

 とまれ、これほど明るく活発で、しかもちゃんと《オペラ歌手》をやってるアイリーン・アドラーを読めるのは、『おやすみなさい、ホームズさん』だけである。その凛々しい姿に、一人でも多くの方が接していただければ、これに勝る喜びはない。

酒井 貞道(さかい さだみち)

1979年生まれの書評家。現時点では《本の雑誌》《ミステリーズ!》で新刊書評を連載中。このサイトでは書評七福神の一員として毎月イチオシの翻訳ミステリを紹介しております。

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