伝説の作家——と言ってよいだろう。ふつうの文学史ではまず言及されることのない、しかし閃光のような小説を残し、遠くへ去っていったアンナ・カヴァン。
カヴァンは別名義による創作もあるが(それは伝統的な作風の小説だという)、アンナ・カヴァンとして特異なスタイルの作品を発表したのは1940年代から60年代にかけてだ。ただし、日本でおおかたの読者が彼女を知ったのは1980年代半ば。最後の長篇『氷』(1967)が、サンリオSF文庫の一冊として邦訳されて以降だろう。これは氷がすべてを封じようとしている世界でひとりの少女を追いつづける男の物語で、全世界的な破滅と主人公の彷徨という題材をみればコーマック・マッカーシイ『ザ・ロード』(2006)やマーセル・セロー『極北』(2009)に先駆けた作品と言える。さらに、女性への執着がいちおうの——物語表層の——行動原理となっている点で、J・G・バラード『結晶世界』(1966)と共通した構成を持つ。しかし、いまあげた作品は常識的な辻褄においても、あるいは象徴的な次元においても、作中で過不足のない説明が施されていた。それに対して『氷』はきわめて謎めいている。いちばんの謎は、主人公の手をすりぬけていく(あるいは主人公を導く)少女の動きだ。迫りくる氷の脅威から彼女を庇護しようとする男は主人公だけでなく、まず彼女の夫がおり、のちには大きな権力を持つ長官がいる。だが、少女は多くの犠牲を払いながらも男たちから逃れつづける。関わりを拒絶しているのだが、その一方で、誰かになんらかの救済を希求しているようでもある。
こんな要約だけだと「なんかスゲーめんどくさい女」と思われるかもしれない。まあ日常的な感覚で計るとそうなのだけど、もちろん、凍てつく氷の世界、極端に純化されたカヴァンの空間にそんな規範は通用しない。なんでもかんでも身近な水準に置きかえて物語を読みたい御仁には、とてもカヴァンは薦められない。
さて、『氷』では無限の彼方にある消失点のような存在だった少女だが、『アサイラム・ピース』では彼女が起点となる。本書はカヴァンがカヴァンとして発表した最初の本(1940)で、14篇を収めた作品集だ(そのうち表題作「アサイラム・ピース」は8つの独立した挿話からなるので、これを個別に数えると全21篇になる)。それぞれの作品で主人公は別個だが、それは近代的な小説が要請する個性(立体的なキャラクター)はなく、すべてが分身のようなものだ。カヴァン自身と考えてもいいが、むしろ誰でもあって誰でもない人間一般である。ほとんどの作品では名前が与えられておらず(一人称の「私」が多い)、経歴や境遇などにふれられることもない。
「上の世界へ」という作品では、私は霧に覆われた低層の土地で孤独で惨めな日々をすごしている。「敵」という作品では、私は世界のどこかにいる正体不明の敵を警戒しながら生きている。「鳥」の私は告発されているのだが、どのような罪状で誰に訴えられたかもさだかではない。「不満の表明」の私は法的な厄介事を抱えてアドバイザーに頼ろうとするのだが、アドバイザーがまったく信頼できない。「頭の中の機械」の私は、血液の内側に巣くった癌のような機械に取り憑かれてしまっている。「アサイラム・ピース」の各エピソードでは精神を失調した者を収容する施設を舞台に、外の日常に焦がれながらこの場所に深く依存してしまっているアンビヴァレンスが描かれる。
いずれの主人公も抜き差しならぬ苦境にあるのだが、どうしてそうなったのかという経緯は明らかにされないし、その苦境を取りまく状況もはっきりせず、法的ないし病理学な意味も見いだせない。そうした説明は外から見ておこなうものであり、どの作品もほぼひとりの視点のみで進行する。ただひとつまちがえようのない事実は、すべての主人公が「不当に抑圧されている」との気持ちに駆りたてられていることだ。抑圧しているのは権力や社会や法、あるいは庇護者の場合もあるが、いずれにしても実体がはっきりとしない力だ。作品によってはその人物なりシステムなりが指ししめされているのだが、まるで仮面をつけているようで、とらえどころがない。しかし、抗いようのない力。
その重圧にさらされた主人公は、居ても立ってもいられぬ焦燥を抱えながら、どこにも走っていけない。
たとえば、これらの作品をフェミニズムの文脈で読むのはたやすい。登場人物を抑圧しているのは家父長的な因習であり、それをカヴァン自身の生涯と重ねてみせるのは、手軽な文芸批評の練習問題のようなものだ。あるいはカヴァンの作品に、当時のヨーロッパをおおった戦争の暗雲や政治的軋轢を透かしみることもできる。また、カヴァンの神経的な問題やヘロインへの依存を持ちだせば、ワイドショー的な興味を引くだろう。あらゆるものがシステム化され人間性が疎外された現代社会に対する、不信と違和の表明なんて言えば、もうちょっと気の利いたかんじになる。しかし、カヴァンの作品をなにかの“結果”としてとらえているかぎり、いずれの解釈もむなしい。
先ほど「カヴァン作品の主人公は誰でもあって誰でもない人間一般だ」と言った。それは小説の作法(フラットキャラクター)にとどまるのではなく、いっそう根元的なレベルにおよんでいる。つまり、家父長的な抑圧とは無縁で、とりあえず平和な社会に生きていて、神経的な障害もドラッグ依存もなく、現代の疎外ともそれなりに折りあっていても、なお、ひとはすべてカヴァンの作中人物なのだ。
本書に収められた一篇「夜に」で、語り手の私は罪状も知らされぬままに監獄に閉じこめられる。鉄の輪を頭にはめられ、黒いビロードの箱さながらの暗闇のなかですごす夜。疲労が酷いが、じゅうぶんに眠ることもできない。
頭の鉄環が締まり、ずり落ちて、眼球を圧迫する。その強烈な力が激しい痛みをもたらす。それでも、この痛みは、私の頭蓋の内側のどこかから——大脳皮質が発する痛みに比べれば、さほどのものでもないように思える。痛んでいるのは脳そのものなのだ。
不意に私は激しい怒りに包まれる。世界中の人々が安らかに眠っている時、どうして私だけが、見えない看守のもとに苦痛に満ちた夜を過ごさなければならないのか。
じつは、脳そのものには痛覚はない。その解剖学的事情をカヴァンが知っていたかどうかはわからない。しかし、たしかに脳がおそろしく痛むのだ。
また、この語り手は「世界中の人々が安らかに眠っている」と断じるが、もちろんそんなはずはない。常識に照らせば、苦しんでいる人はほかにいくらもいるだろう。しかし、たしかに激しい苦痛に苛まれているのは「私だけ」なのだ。
つまるところ、ここには自分(それはむきだしの脳であり、唯一の私だ)しかいない。ほかは、よそよそしい世界があるだけだ。頭の鉄環も、自分以外の人々も、すべてその世界に属する。この仮借ない構図こそがカヴァンだ。
だが、ふつうに生きていればそんなふうに考えない。おおよその人間の世界は「私ひとり」ではなく、自分と同じ感情・欲望・権利・理性をそなえた「他人」がいるからだ。互いが「他人」と関わることよって共同体が形成され、ほとんどの物語(それはフィクションにかぎらない)が生産される。しかし、それはほんとうの世界のありようだろうか?
カヴァンの作品を読み、ひとは思いいたる。「他人」が存在すると思っている日常は、なんの根拠もない馴致にすぎぬことを。そして眠っていた記憶がよみがえる。自分はこのよそよそしい世界に、たったひとりで、よるべなく生まれてきたのだ。自分のほかに存在するのは「他人」ではなく、得体の知れない「他者」ばかりである。
いったんその地点に立ち返れば、個人の名前も経歴も境遇もすべて夾雑物にすぎない。カヴァンの切りつめた文章は技巧というよりも、書きとめるべきことだけを追った、いわば肉声のようなものだ。
そんなカヴァンの世界にもかすかな光がさす。「鳥」の私は、わびしく霧深い冬の薄日のなかで、華やかな羽根をもった二羽の小鳥を見つけ、すばらしい感動につつまれる。「アサイラム・ピース?」の私は、いつの日か、世界がその色を変え、幸福だった過去が取り戻されると信じている。こうした希望は無垢であり、しかしけっきょくは残酷な結果を導く。
本書の収録作は一瞬の希望も深い絶望もすべてが急峻だが、『氷』はそれがいくつもの屈折や反射を経ていく。『アサイラム・ピース』でカヴァンの世界に切実なものを感じたひとは『氷』も読まれるとよい(しかし残念なことに、つい最近、品切れになってしまった!)。また、かつて『氷』を読んで不可解な印象をもった読者は、『アサイラム・ピース』で新しい手がかりがつかめるだろう。
牧 眞司(まき しんじ) |
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SF研究家。著書に『世界文学ワンダーランド』(本の雑誌社)ほか、訳書にマイク・アシュリー『SF雑誌の歴史』(東京創元社)。1959年東京都生まれ、相模原市在住。ツイッターアカウントは @ShindyMonkey 。 |