自分が翻訳ミステリーの書評からしばらく遠ざかってしまった原因というのがある。かつて、とあるロマンスよりのサイコ・サスペンス作品の解説を書いたことがあったのだが、ヒロインものでその手の内容だったこともあり、かの有名なトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』を不用意にも引き合いに出した。するとすぐさま、「佐竹裕、この程度の作品をあの名作と並べて書くなんて信用失うぞ」云々というネット書き込みがされ、自分の名前を検索するたびこれがヒットする状況に、すっかり意気阻喪したというわけである。

 久々の翻訳ミステリー書評が、偶然にもヒロインもののサイコ・サスペンスだったので、その苦い想い出が甦ったというだけのことなのだが。

 それはともかくとして、ドナート・カッリージ『六人目の少女』の存在を知ったのは、「午後のティータイムが似合う」と思われがちな某人気女性作家の方に、「ぜひとも読んでほしい!」と言われたことがきっかけだった。どうやら、彼女にとっては噴飯物の作品だったのか、読後語り合いたいような「何か」がこの作品にはたっぷりと詰まっていたのだろう。面白いからぜひ! というならともかく、わずかに「やれやれ」感も抱きつつ、読み始めてみた……のだが、これが初っ端から凄かった。

 冒頭、ある刑務所に服役中の謎めいた囚人についての報告書が提示される。その後、少女の左腕ばかりが六本、森の中で発見され、連続誘拐事件の被害者たちのものであることが判明。ところが、六人目の少女のみ身元がわからない。そこで、失踪人捜索のプロである女性捜査官ミーラに白羽の矢が立ち、捜査方針の面では犯罪学者ゴランが率いる特別捜査班に加わることになる。それからはジェットコースターばりの超加速展開。連続殺人犯はことごとく捜査班の先を読み、次々と誘拐した少女たちの無残な遺体を捜査班に発見させていく。

 さて、シリアルキラーものサイコ・サスペンスというジャンルにおいて、この『六人目の少女』は、ある意味で総合カタログ的な要素を持っている。連続殺人犯の実例およびプロファイリングを詳述し、スティーヴン・キングの『デッド・ゾーン』でおなじみ、超能力者の捜査協力に至るまで、ご丁寧にも作品に取り入れている。取材内容を余すことなく作品に注ぎ込んだかのようで、そうした意味では、まさに集大成とも言うべきシリアルキラー大全に仕上がっていると言えるだろう。

 しかも、これがデビュー作とは思えないほど、ページを次々とめくらせていくリーダビリティ。章末ごとに用意される驚愕の展開。そしておそらく、どれだけ疑り深い読み手でも、最低2回はこの作者にみごとに騙されると思われる、その騙りの巧さ。それだけに「とんでもミステリー」と受け取られかねないのも確かだろう。某人気女性作家さんは、おそらくそのあたりを論じ合いたかったのだと思われる。

 もちろん、ネタバレはできないのだが、肩透かしとも取られかねない結末と犯人像とを、自分としてはあまり否定したくないと思っている。というのも、読後にまず自分が想起してしまったのが、アガサ・クリスティー『カーテン』だったのだ。名探偵ポアロ最後の事件として、クリスティーが40年代にすでに脱稿してしまってあったという、あの作品である。もちろん、同じだと主張しているのではない。あくまでも「想起」なのだが、ウィリアム・L・デアンドリアの代表作『ホッグ連続殺人』も同様に思い起こしてしまったのも事実。それを言ったら、宮部みゆき『魔術はささやく』もかな。

『六人目の少女』をお読みになった皆さんが、どう思われるかは自由。「佐竹裕、この程度の作品をあれらの名作と並べて書くなんて信用失うぞ」と、またネットに書き込まれてもかまわない。自分には自分なりのミステリーの愉しみ方があるのだから。そんな意味では、存分に愉しめた1作だった。

 イタリアのミステリーではめずらしく、世界23カ国で刊行され、六つのミステリー文学賞を受賞したベストセラーで、人気作家マイクル・コナリー絶賛とのことである。

佐竹 裕(さたけ ゆう)

 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。

 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。

 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

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