こんにちは、P・G・ウッドハウスの翻訳をしております、森村たまきです。

 国書刊行会の〈ウッドハウス・コレクション〉ことジーヴス・シリーズが昨年全14巻をもってめでたく完結してしまい、うれしく感無量ではあったのですが、もうこれでバーティーとジーヴスの翻訳をすることはないのだなと、さびしい気持ちでもおりました。いや、まだ翻訳すべきウッドハウスはたくさんあるのだから、全作訳出をめざしてウッドハウス布教の大義のためもっと働かねばいけないとはもちろん思っていたのですよ。でももうちょっとジーヴスとバーティーのまわりであちこちしていたいような、未練ぐずぐずでいた私の許に、ある日国書からジーヴスのドラマを翻訳しましょうというお話が来たのです。

 ジーヴスドラマというのは英グラナダTVが1990年から93年まで製作・放送したドラマ Jeeves and Wooster のことで、いつかどこかで放送してくれないことかと関係者一同長らく願いつづけていたのですが一向にその気配もなく、とうとう業を煮やした国書刊行会が立ち上がり、これまで作ったことも売ったこともないDVD制作に乗り出してくれるという、ついては字幕翻訳者にこのわたしを起用してくださるという、そういうありがたいお話であったのです。折しも国書刊行会は創業40周年。最果ての北海道で地熱発電事業に乗り出すとのニュースが新聞紙上に躍ったりしていて、したがって地熱とジーヴスDVDは未来を見つめる国書刊行会の新規事業としてわたしの中では(あくまでわたしの中ではですよ)、兄弟企画に認定されております。むろん兄弟企画ですからDVDの出来および売れゆきいかんによっては担当さんの地熱部門への異動、最果ての北海道、ナキウサギ鳴く大雪山方面へのご転勤の可能性もあるのだろうなと、少なくともわたしはそういう認識でいるわけです。

 それで問題の字幕ですが、担当さんから「できますね?」と訊かれたのだけど、それって「スペイン語は話せますか?」「わからない。一度も話したことがないから」レベルの話でしょ。「やりたいでしょう?」と言われてそりゃあやりたいに決まってるから「はい」と言って、言った後で友人知人に聞いた字幕翻訳ソフトの会社に講習を受けにゆき、やさしいお姉さんに「操作は簡単だから大丈夫ですよ」と言われるままにささやかな設備投資もして、それでまあ、担当さんの後方にはるか大雪山の雪景色がほの見えたような、ナキウサギの鳴き声がさやけく聞こえたような、大きな不安を抱えながら字幕翻訳者として活動開始したわけですよ本当に。

 字幕翻訳にはスポッティングとかハコ割りとか色々作業があって、1秒4字で1行14字で2行までと決まっていてそれでそれで…というようなつらく苦しい修業時代や、慣れないことしている人たちが互いを傷つけあう身も蓋もない話もしたいような気もするのですが、そういうことはいいからジーヴスDVDこと、『天才執事ジーヴス』の話をしましょう。

 お題は国書センスで堂々、『天才執事ジーヴス』と決まったジーヴスドラマ。ジーヴスをスティーヴン・フライ、バーティー・ウースターをヒュー・ローリーが演じる4シーズン全23話のシリーズです。ヒュー・ローリーは米FOXドラマ『ドクター・ハウス』で、薬物依存症の天才医師、人格と人生にたいへん問題を抱えたグレゴリー・ハウスを演じてゴールデングローブ主演男優賞2年連続受賞他、数々の賞を大量総ざらい、今や大英帝国勲章(OBE)もゲットした大俳優。その上スパイ小説も書いてブルースのアルバムを出すと全英チャート2位を獲得するといったような、大変な才人です。

 一方、スティーヴン・フライは最近だと『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』のマイクロフトお兄ちゃん、また、映画『オスカー・ワイルド』のオスカー・ワイルドなどを演じて、日本だと知る人ぞ知るという感じの通好みな俳優さんですが、イギリス本国では子供から大人まで知らぬ人なき大スターなのですね。超人気クイズ番組『Qi』の司会者としてお茶の間の人気者で、英国アカデミー賞のような大舞台で総合司会を務めるような人です。小説を何冊も書いて、自伝も出版して詩も書いて、更に『ハリー・ポッター』オーディオブックの全作朗読をしていますが、これは作者のJ・K・ローリングが彼の大ファンだから。彼の50歳を記念して製作されたBBCの番組には、チャールズ皇太子が出演して彼の才能を熱く讃えるというような、特別なビッグスターなのです。

 それで今はそれぞれにビッグになってしまったこの2人ですが、元々は〈フライ・アンド・ローリー〉というお笑いコンビだったのですね。2人ともケンブリッジ大学の名門お笑い劇団、かの〈モンティ・パイソン〉を輩出した〈フットライツ〉のメンバーで、同期にはオスカー女優でオスカー脚本家のエマ・トンプソンもいてヒューに至ってはエマとデートしていた時もあるという、そういうまぶしい才能ひしめくトラの穴出身のエリートコメディアンなのです。彼らは80年代にはローワン・アトキンソン主演のお笑い時代劇『ブラックアダー』に出演したり、87年開始BBCの『ア・ビット・オヴ・フライ・アンド・ローリー』で、先鋭的なギャグを大量生産して世の人々をあっと言わせていたのでしたが、1990年、この『天才執事ジーヴス』こと、Jeeves and Wooster で大役を演ずるに至ったのでした。なお、この原題も Fry and Laurie が演じるジーヴスとバーティー、ということを強く意識したネーミングなのだと思います。

 ところで、ハウス医師を知る方は、こういう陰気で複雑きわまりない役柄を演じる俳優さんに、単純で底の浅い、気がいいだけが取り柄で思考能力に限りのある金のハートのかわいいだけのバーティー・ウースターちゃんを演ずることが果たしてできるのだろうか、と思われるかもしれません。また、『シャドウゲーム』でスティーヴンの全裸をご覧になられた方は、今では膨満がすぎて巨大すぎる彼の姿に、美しき様式性が求められるジーヴス役が果たして演じられるのかと不安を抱かれるやもしれません。でもね、『天才執事ジーヴス』を、ご覧になったらおわかりいただけると思うのですよ。ああ、彼らはジーヴスとバーティーを演じるために生まれてきたのだな、と。後頭部ハゲのまだないヒューとまだあんなに膨満していないスティーヴンが天真爛漫にパラダイスに住まう人たちを演じられたことは、奇跡に近い幸運だったとさえ感じると思うのです。

 言うまでもなく、フライもローリーも大変なウッドハウスファン。彼らの演技には偉大な原作に対するリスペクトが溢れています。10歳の誕生日に名付け親から『でかした、ジーヴス』をもらって以来のファンだというスティーヴン・フライは、ジーヴスを演じると決まったとき「一生の夢がかなった」と語っています。ジーヴスと言えば執事の「型」、バーティー・ウースターと言えばご主人様の「型」。範型を演ずる責任を自覚し、解釈、造型の数多ありうる中でひとつのありようを選択し、攻めで演じてゆく凄みというのでしょうか。たんなる原作の「再現」に留まらない、その先に行こうという意欲が見てとれる気がします。おそらく原作を読まれた方は、誰でもバーティーはこんな子、ジーヴスはこう、というイメージを持っていると思うのです。おそらく誰がどう演じても100%満足ということはあり得ないのでしょうし、現にわたしも最初はヒュー・ローリーのバーティー・ウースターがことさらにバカすぎる気がして、もうちょっときれいな人にやってもらえなかったのかと思って最初はだいぶ抵抗を感じました。ですが、圧倒的な芸の力と役者の魅力にねじ伏せられたというのでしょうか。今ではヒューが好きでたまりませんし、彼はバーティーを演じるために生まれたのだと思っています。それにね、やっぱりすごくかわいいんですよ、一生懸命なバカって。

 スティーヴン・フライのジーヴスはわたしはかなり好きです。彼は自分は歌えないし踊れないと言うのですが、ジーヴスの身のこなし、決めポーズの決まり具合、セリフ回しの美しさ。歌えないはず、踊れないはずがないと思わされる完成度の高さです。私事で恐縮ですが、わたしの結婚23年になる夫は、23年間いくら言ってもどすどすばたばた歩いていろんなものをなぎ倒したり落っことしたりしますが、同じ人間とは到底思えない優美な身のこなしに感嘆するばかりです。人が家事労働をする姿とは、かくも美しくエレガントでありうるのかと息を呑みます。

 あと、映像が非常に美しいです。建物、建物内部はオールロケで、本物のイギリスのカントリーハウス建築と庭園、インテリア調度類が見られて眼福です。アガサ伯母さんの家の壁ぎっしり絵やら写真やらが飾られたヴィクトリアンな室内。対照的にすっきりモダンなバーティーのフラット。バーティーの〈ツーシーター〉も、お洒落さんなバーティーの衣装の数々も、ディナー時には全員がブラックタイとドレスに着がえるカントリーハウスのお暮らしぶりも、考証の行き届いた、美しい映像で再現されています。それと出てくる子供がかわいいんですよ。みんなクソガキで演技が達者でビンゴに頭はられたり池に落とされたりで。ベッドルームシーンも沢山あります。バーティーが寝る前にジーヴスが「ご用はお済みですか?」と去っていって朝寝てるとジーヴスが「おはようございます、ご主人様」とお茶持って入ってきて。アクションとバイオレンスはやはりクソガキが池に落ちるところが白眉ですか。裏切りとか策謀とかヒューマンインタレストも渦巻いています(とりわけ賭け事がからむとすごいですね)。ヒューの達者なピアノ演奏と歌声も聴けてしあわせです。あと、水戸黄門における由美かおる的サービスシーン、と言ってしまっていいのかな。ヒューの入浴場面が必要以上にずいぶんあってごちそうさまです。

 すみませんテンション上げてしまいました。DVDブック『天才執事ジーヴス』vol.1 は2話収録。大雪山にナキウサギ鳴く5月15日いよいよ発売です。3話収録の vol.2 は梅雨のない北海道でナキウサギたちが幸せに暮らす6月発売です。英国ドラマというのはワンシーズン数話で完結するので、制作段階では次があるかどうかわかりません。だから第1シーズンの全5話は、次はないと思って製作者がこれだけは入れておきたいということをぎゅうぎゅう詰め込んでできています。この思いは〈ウッドハウス・コレクション〉のはじめの3巻を訳していた時のわたしと、そして今回第1シーズンの字幕を担当して、売れたら次が訳せる訳したいと切に願っている今のわたしとまったく同じだと思います。双肩にエアナキウサギを載せた担当さんもおそらく同じ思いでいらっしゃることでしょう。どうぞ、どうか、DVDになったジーヴスとバーティーをよろしくお願いします。そしてわたしに続きの3シーズン18話も訳させてください。まだまだ楽しい話がいっぱいあるのです。

DVD 天才執事ジーヴス特設ページ(国書刊行会)

【追記】

 DVDを見て原作も読んでみたくなったという方にスティーヴン・フライのこの言葉を贈りましょう。

「あなたはたいへん幸福な方です。これからはじめて読むウッドハウスが90冊もあるのだから」

 残念ながら日本語で90冊はまだ読めないのですが、ジーヴス・シリーズ全14冊〈ウッドハウス・コレクション〉、ブランディングズ城長編と各種短編を収録した〈ウッドハウス・スペシャル〉全3冊を取り揃えて、幸い住むとひとのいうウッドハウス・ワールドへのお越しをお待ち申し上げております。

森村たまき(もりむら たまき)

国書刊行会よりP・G・ウッドハウスの〈ウッドハウス・コレクション〉、〈ウッドハウス・スペシャル〉を刊行。幸福なウッドハウス翻訳者。。ツイッター・アカウントは @morimuratamaki です。

■【特別寄稿】ウッドハウス聖地巡礼記 バックナンバー

第1回ウッドハウスさん、130回めの誕生日おめでとう!(前篇)

第2回ウッドハウスさん、130回めの誕生日おめでとう!(後篇)

第3回ウッドハウスさんの墓前に報告篇

最終回ハリウッド・ウッドハウス紀行篇

当サイト掲載、森村たまきさんによる「初心者のためのP・G・ウッドハウス入門」はこちら 

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