書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
おはようございます。めっきり涼しくなりまして……と時候の挨拶を書いていたら、昨日は地方によっては真夏日だったとか。暑くて読書どころじゃないよ! とお嘆きのみなさまに今月も七福神をお届けします。は、はやく普通の秋来いよう。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
北上次郎
『氷の娘』レーナ・レヘトライネン/古市真由美訳訳
創元推理文庫
いやあ驚いた。主人公の女性刑事マリアは妊娠7カ月で、産休まであと1カ月だというのに、走ったり飛んだり格闘したりするのだ。大丈夫かマリア。前作『雪の女』でもこのヒロインはすこぶる感情的な側面を見せていたが、宿敵ペルツアの頭にビールをかけたりして、今回はやや暴走気味。話はシンプルで奥行きに欠けるところがあるので絶賛できないのは残念だが、断然このヒロインのファンになった。早く次作を読みたい。
霜月蒼
『11/22/63』スティーヴン・キング/白石朗訳
文藝春秋
毎年恒例、豊作の9月——タナ・フレンチが「地元」の暗部を鋭く抉った『葬列の庭』と、ハーラン・コーベンによるキレよく見事なサスペンス『ステイ・クロース』だって本来なら月間ベスト級だが、巨艦『11/22/63』の前には敵ではなかった。「タイムトリップをしてJFK暗殺阻止を試みる平凡な男の苦闘」みたいな要約じゃ、この小説の美点の半分もすくえない。プロットやストーリーも見事だけれど、それを抱擁するカラフルな感情が美味すぎるのだ。とくに恋の昂揚と宿命の苦味がいい。みずみずしく若いのに、渋く熟成した深遠なる味がする。長大な物語とともに歩む幸福がここにはあるし、長大な物語とともに歩んだからこその感動が最後に待つ。個人的にはキング作品で五指に入る傑作。
川出正樹
『ハンティング』ベリンダ・バウアー/松原葉子訳
小学館文庫
ベリンダ・バウアーが描く、英国南西部の寒村を舞台にしたミステリが愛おしくてならない。派手な演出や凝った仕掛けがなされている訳ではないし、被害に遭うのはいつも子供や老人といった弱者なので、読んでいて心が痛むのだけれど、折に触れて思い出し、じっくりと反芻してしまう。随所でユーモアを効かせる筆致に思わずくすりとしてしまう。うまいなぁ。
十二歳の少年スティーヴンが、祖母と母の傷心を癒し家族の形を取り戻したい一心で、十九年前に伯父を殺した連続児童殺人犯と危険な文通を始めるデビュー作『ブラックランズ』。その五年後、難病と闘う妻を支えつつ故郷のお巡りさんとして奉職してきた若者ジョーナスが、連続老人殺しの謎に翻弄される『ダークサイド』。そして今回、相次ぐ児童誘拐の謎を中心に据えた三部作の掉尾を飾る『ハンティング』で作者は、苛酷な体験をした前二作の主人公に再度スポットを当て、彼らがいかに過去と向き合い決着をつけるかをテーマに、デビュー作以来の変わらぬ姿勢で、家族であるが故に生じる愛憎、懊悩、屈託を丁寧に描く。前二作を未読の方は、遡って味わって欲しい。それだけの価値があるよ、このシリーズには。
吉野仁
『11/22/63』スティーヴン・キング/白石朗訳
文藝春秋
タイムトラベル&歴史改変サスペンスのみならず全編にわたり小説を読む喜びがぎっしりとつまった極上の物語。現時点で今年のベストだ。で、キングがなければ挙げていたと思うのが、ジョナサン・ホルト『カルニヴィア 1 禁忌』(ハヤカワ・ミステリ)。「ミレニアム」三部作の影響下にあるが、リスベットの魅力にはとどかないながらも二人のヒロインの活躍をはじめ、イタリアのヴェネツィアが舞台だったり、ヨーロッパ現代史の闇に迫っていたりするあたりがとても良く、続編が楽しみ。
酒井貞道
『レッド・スパロー』ジェイソン・マシューズ/山本朝晶訳
ハヤカワ文庫NV
ハニートラップ要員の物語であるが、色仕掛け頼みの諜報合戦が繰り広げられるわけではない。新冷戦下での米露のスパイ活動とはどのようなものであるかが、極めてリアルに(=まことしやかに)描かれており、文体や登場人物描写を含めて非常に硬質な小説となっている。だがそれが、冷然としたエスピオナージには相応しい。というか、ソ連があった当時の冷戦下と、現在の新冷戦下でも、状況は本質的には何も変わっていないのかも知れない。誰だ「冷戦は終わったからスパイ小説はリアリティをなくす」とか言ってた人は。なお、チャプターの最後に、ほぼ必ず、その章で出て来た料理のレシピが記載されている。このレシピの意味を考えながら読むのも一興だろう。
千街晶之
『レッド・スパロー』ジェイソン・マシューズ/山本朝晶訳
ハヤカワ文庫NV
アメリカとロシア、それぞれの国家中枢に潜むスパイの正体をめぐって両国が繰り広げる駆け引き。最初は互いを騙すつもりで、やがて惹かれあう関係になったCIA局員とロシアの女性スパイの運命は、冷戦期を彷彿とさせる苛烈な諜報合戦に翻弄されてゆく。諜報のリアルなディテールと生彩あるキャラクター描写が渾然一体となり、最後の一ページまで緊迫感が途切れることはない。スパイ小説の歴史に残るであろう新たな傑作の登場だ。
杉江松恋
『葬送の庭』タナ・フレンチ/安藤由紀子訳
集英社文庫
考えてみれば10代のころから、私はこういう家庭内の悲劇を描いた作品のことをずっと意識してきた。国家的陰謀とか火花散るアクションとかそういうものよりも扉の中の出来事のほうが気になる。自分にとって解明すべき謎がそこにあるのだろう。この作品は至ってシンプルだ。22年前に故郷を捨てた男が過去からの呼び声にとらえられる。彼が家を出たときには、一緒に駆け落ちするはずだった女性がいたが、約束を違えて待ち合わせの場所に現れなかった。その彼女の所持品らしきものが発見されたのだ。過去に何が起きたのか判るのが上巻のおしまい近く、下巻ではそんなことをした犯人捜しということになる。ね、骨組みは非常に単純なのだが、そこに肉が詰まっている。主人公の実家はアイルランドのカソリック家庭であり、濃密な血のつながりがある。彼がそこに足を踏み入れると、あっという間にしがらみが復活して身を絡め取られることになるのだ。家族という単語に暖かさしか感じない人には憤慨されかねない内容。逆に家族といえども人間の集団だから、その中ではどんなことが起きても不思議じゃないよね、と思っている人にはたまらない読み物になるはずである。終盤の展開のたまらないもどかしさ、そして幕切れの詩情にも注目していただきたい。
刊行リストを見ていると上下巻が多くなってきて、秋に向けて各社準備中なんだな、と思います。今月の結果にもそれが現れていたような。10月は「このミス」年度の〆にもあたります。さて、次月はどんな本を読めますことやら。またお会いしましょう。(杉)