シカゴの高級コンドミニアムに住む40代のジョディとトッド。いっしょに暮らして20年が経つふたりのあいだに物語冒頭から何やら不穏な空気が漂っている。

 ジョディはパートタイムの精神分析医。さまざまな問題を抱えた患者のカウンセリングをして、ときには患者の自殺の知らせを受けることもあり、日々ストレスに苦しめられている。そんな彼女自身の心を癒すのは、ゴージャスなコンドミニアムの高層階に住み、アウディ・クーペを乗りまわすリッチな生活と愛犬のゴールデン・レトリーバー、フロイトの存在だ。

 ふたりに子どもはなく、自由人トッドはジョディが何も言わないのをいいことに、外で多くの女性と関係を持って楽しく過ごしている。表面上は仕事に打ちこみ、経済的に豊かな恵まれた人生のように見えるが(実際、恵まれてはいるのだけれど)、ジョディから離れた別の世界で二重生活を送っているのだ。理解あるジョディが見逃してくれているのだと勝手に思いこんで。

 見逃している? とんでもない。ジョディは密かにトッドに憎しみを募らせている。憎悪といってもいい。彼の火遊びを黙認しているのではない。決して認めてなどいない。どうにもできないから、しかたなく無視しているといったほうが適当だろう。その苦痛たるやいかほどだろう。

 読者は沈黙の憎しみがやがて殺人事件になることを冒頭で知らされる。殺すのは女、殺されるのは男だ。男女間の愛憎殺人。おお、怖。「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」と、天からヨドチョーさんの声が聞こえてきそうではないか。

 1章ごとにジョディとトッドを交互に主人公に据えて、物語は進行していく。第1章「HER」でジョディの暮らしの描写と殺人の予告を読んだあとの、第2章「HIM」で描かれるトッドの日常はなんと脳天気で軽薄なことか。

 トッドの職場での朝の楽しみは、アシスタントをしている30代のステファニーの体のラインをチェックすること。彼女が脚を組みかえる動作やぴたりと肌に張りついているようなジーンズのシルエットに遠慮なく視線をはわせる。かと思えば、ステファニーよりさらに若い愛人ナターシャに職場から電話をして、寝ぼけた声で電話に出た彼女に「いまどんな格好をしてるんだい?」などとのたまう。おまけに、あろうことかナターシャはトッドの旧友ディーンの娘だというのだから、開いた口がふさがらない。

 そのうえ、自分は経済力があるのでジョディを養い、彼女をパートタイムで「働かせてあげている」と思っているようにもとれる。ほんとうに、徹底的に、心底、激しくいやな男だ。(トッドったら、ジョディは何も言わないけど怒ってるのがわかんないの? 怖い沈黙だと思うけど? ああ、ジョディ、あなたはパートナー選びを間違ったねえ。)

 さて、この物語の語り手は3人称だ。そのため1人称小説と比べると主人公を俯瞰で眺められるいっぽう、主人公の深層心理という読者にはどうしても越えられない壁が生まれる。この瞬間、ジョディの激しい怒りはどこまで達しているのか? このとき、すでに殺害方法が頭をよぎっていたりして? トッドはほんとうに彼女は理解があると思っているのか? 読者はふたりの深層心理を行間から想像するしかない。表面上はごくふつうに会話し、ごくふつうに暮らしているので尚のこと、この崩壊した関係の冷たさや闇の暗さがなんとも不気味で、ページを繰るにつれて恐怖が倍増されるのだ。ああ、怖いですねえ、恐ろしいですねえ。

 冒頭からの張りつめた緊張感が弾ける原因をつくったのは、もちろんトッド。彼の放埒な行為が深刻な問題に発展したとき、表面張力でかろうじて均衡を保っていたジョディの怒りと憎しみが一気にコップから溢れる。

 勘のいい読者ならお気づきかもしれない。作品にはTHE SILENT WIFEとタイトルがついているが、ジョディは「妻」ではない。ふたりは法律上の夫婦ではなく、事実婚のまま20年も同居を続けてきたのだ。その不安定な関係もジョディのいらだちや怒りを増幅させたかもしれない。その結果、果たして冒頭の予告どおりの殺人が行われるのか——

 2013年6月に刊行された THE SILENT WIFE は、ニューヨークタイムズ・ベストセラー第1位になったギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』(中谷友紀子訳、小学館文庫)と比較して評されている。世界34カ国で刊行された「イヤミス最高峰」と並べられるほどイヤミス度が高い作品というわけだ。ただ、誰もが持っている心の闇や人と人とのあいだに漂う不穏な空気を描いたという点では、『ゴーン・ガール』に勝るとも劣らないと断言したい。

 著者について少し触れておこう。A. S. A. Harrisonはノンフィクションを数冊出版したのち、初の小説となる本作を書いた。このデビュー作がニューヨークタイムズのベストセラーと比べられるほど話題になると予想していたのかどうか。新作のサイコ・スリラー執筆中の今年4月、THE SILENT WIFE の刊行を待たずして65歳で不帰の人となった。次作も読みたかった。ただただ残念である。

片山奈緒美(かたやま なおみ)

翻訳者。北海道旭川市出身。ミステリーはリンダ・O・ジョンストン著『愛犬をつれた名探偵』ほかペット探偵シリーズを翻訳。ときどき短編翻訳やレビュー執筆なども。365日朝夕の愛犬(甲斐犬)の散歩をこなしながら、カリスマ・ドッグトレーナー、シーザー・ミランによる『あなたの犬は幸せですか』、介助犬を描いた『エンダル』、ペットロスを扱った『スプライト』など犬関係の本の翻訳にも精力的に取り組む。日本最大の血統書団体JKCの愛犬飼育管理士の資格取得。また、和ハーブインストラクターとして日本古来のハーブの知識を深め、食と健康の問題を考え中。最新訳書はブレア元英国首相のスピーチライターが書いた『成功する人の「語る力」』(東洋経済新報社)。

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