A・B・C喫茶店の片隅に座りながら難事件を次々と解決していく「隅の老人」。ホームズのライヴァルたちの中でも、最も著名な一人だろう。

 これまでの「隅の老人」譚の翻訳は日本独自の編集によるもので、特に第3短編集は、未訳作品が多かった。今回の単行本は、原著単行本全3巻と未収録作、全38編を網羅した「世界初」の【完全版】というから、日本の読者は幸せだ。訳者解説も詳細で資料性が高く、値は張るけれど、ファンはぜひ書架に納めておきたい重厚な一冊だ。

 第1、第2短編集収録作は、初出誌からの翻訳であり、これまでポリー・バートンとされてきた相手役の女性記者に名前がつけられていなかったことや、一部の作品では読者への挑戦が挿入されていたことなど新たな発見もある。

 それにしても、不思議で奇妙な探偵である。 

 その属性や性格は、ホームズがつくりあげた名探偵像から大きく逸脱している。

 老人である。名無しである。四六時中紐で結び目をつくったり、解いたりしている。女記者は話をやめようとする老人の機嫌をとるために紐を渡したりする。まるで猫じゃらしである。推理は披露するものの、正義の実現には一切興味がない。警察に対してはときに侮蔑的なまでな態度をみせる。自ら興奮してくると、金切り声をあげたり、わめいたりする。突然姿を消し、後年復活するのも、謎だ。

 女性記者の老人評も散々で、「生きた案山子」「薄汚い猫」「幽霊のような生き物」などと書かれる始末。

 オルツィ女史は自伝の中で、隅の老人を創造するに当たり、できるだけホームズを連想させない人物を作り上げようと考えたと回想しているそうだが(『レディ・モリーの事件簿』戸川安宣解説)、それだけに後世に強烈なインパクトを残すキャラクターになった。

 隅の老人シリーズは、安楽椅子探偵の元祖という評もあるが、相手役の女性記者が持ち込む謎を座ったまま推理するというスタイルではない。多くは、老人が関心をもった事件の顛末を一方的に喋りまくり、最後に知られざる真相を推理する。まるで、老人はあらゆる難事件を熟知しているようだ。

 ほとんどの事件で、老人は、検死審問や裁判の場に足を運び、独自の調査を行っており、いわゆる安楽椅子探偵のイメージからは遠い。むしろ、多くの事件に法廷劇の要素が取り入れられているのがシリーズの特徴で、娯楽としての犯罪に飢えた世間の注目が集まる中で、事件の構図を揺るがす爆弾証言が飛び出すなどドラマティックな展開が試みられているのは意外だった。

 20年ぶりに老人が出現する「カーキ色の軍服の謎」を冒頭にした第三短編集となると、それまでの作品と同工異曲が多くなり、老人の設定にも多少のブレが生じてしまうのは、前二つの短編集と刊行が離れすぎているからだろうか。

 事件は、おおむね殺人や盗難、失踪など直球勝負。語りのスタイルもあって、謎の不可思議さや怪奇性、冒険的要素に欠ける憾みはあるが、とにかく限られた枚数で、特有のパターンを駆使しながら、意外な犯人を演出しようとするフーダニットへの強い意志は、やはり本格短編の古典としての風格を感じさせる。

 で、ここから隅の老人の正体をめぐる“妖説”。

 老人の正体を示唆する短編があることは確かだ。(「パーシー街の怪死」「荒地(ムーアランド)の悲劇」)しかし、これが老人の並外れた知性と能力に見合うものとは、どうも納得しがたいのである。

 常に誰も気づかぬ真相を見出す頭脳、正義への無関心と犯罪者への共感、警察への侮蔑、英国のあらゆる迷宮事件への精通、失踪と復活のモチーフ。自らつくった複雑な結び目を自ら解く性癖も何やら暗示的だ。

 同時代に活躍した巨大な知性の存在が浮かび上がってこないだろうか。

 そう、隅の老人の正体は、ライヘンバッハの滝に転落したはずの教授、ホームズの「真」のライヴァルであっても不思議ではないのである。 

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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