今月は、小説が7冊。最初の2冊はクローズドサークル物、次の2冊は短編・中編集、次の1冊は異色の本格ミステリ、最後の2冊は、まったく異なる「救世主」を描いた小説。
 対象本が多く、ルーシー・ワースリー『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(大友香奈子訳、原書房)、川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)は来年回しになってしまった。ご容赦を乞う。

■グウェン・ブリストウ&ブルース・マニング『姿なき招待主ホスト』(扶桑社ミステリー)■

 
 今年、〈奇想天外の本棚〉から戯曲『九番目の招待客』(1932)が出た矢先、その原作小説『姿なき招待主ホスト(1930) が邦訳されるとはちょっとした奇跡だ。クリスティーの『そして誰もいなくなった』に先行すること9年、室内を舞台に非常によく似たストーリーが展開する。
あらすじは、ほぼ戯曲版と同じ。当然ながら戯曲版は舞台上で映えるための工夫もあるが、異常な状況に目まぐるしく移り変わる登場人物の心理や関係性を追うには小説版がいい。
 ニューオリンズの名士たち男女8人に何者かから送られてきたサプライズパーティの招待状。8人は高層ビルの最上階にあるベントハウスに集まる。招待主は誰かを議論しているときに、当の招待主がラジオを通じて語りかける。今夜は皆さんにゲームをしていただく。自分が勝てば君ら全員の朝までの死を宣言する、と。出入口には電流が仕掛けられており、脱出はできない。やがて、この閉ざされた密室で、一人また一人と死が訪れる。
 なるほど、これは舞台で上演したくなる作品だ。連続殺人の強烈なサスペンス、それぞれ因縁がある名士たちの隠れた素顔や秘密の露見、誰が犯人かというフーダニットの興味が会話主体で展開する。時の単一、場の単一、筋の単一という、いわゆる三一致の原則にも叶っている。小説刊行より先に、演劇が上演されたというのは、頷ける。
 極めて人工的設定ではあるものの、最初に8人の男女の人物像と人間模様の一端が紹介されることで、その後の登場人物たちの恐怖と疑念、隠れた素顔と相互の因縁などが腑に落ちるものになっている。人物が限られてからの展開にも意外性があり、フェアな犯人当ても志向している。最近の本国の復刊まで、ほとんど言及されることのなかったというのが不思議なほどの出来だ。カーティス・エヴァンズの序文において、本書と『そして誰もいなくなった』の類似について詳細な記述があるので、興味を抱かれた方はそちらを参照していただきたい。    
 やはり、本書のプロットは、発明というべきだろう。
 皆殺しが予告された連続殺人の強烈なサスペンスとロジカルなフーダニットという異なるベクトルをもつタイプのミステリを融合してみせた点。それを単一の時間、単一の閉鎖空間に凝縮してみせた点。凝縮された時空で物語を展開することで、サスペンスはさらに高まり、フーダニットの難度は上がる。犯人が直接手をくださない遠隔殺人のバリエーションをいくつも提示したのも作者の手柄だろう。
 ラジオの声がゲームであることを主張しているのも興味深い。「あなたがたの総合能力とわたしの能力を競うゲーム」「主賓である死をレフェリーとして、わたしが一方の側、君らが反対側に陣取るゲーム」。ラジオの声は、フェアプレイを強調し、「このゲームでひとりでもわたしに勝ったら、わたしは君ら全員の前で死ぬ」とまで宣言するのだ。探偵小説は、「盤面の敵」(犯人)と探偵の知的闘争を描くが、ラジオの声の宣言は、この探偵小説の構造を現実に持ち込むものだ。招待客は望んでもいないのに盤面の前の探偵に擬せられ、閉ざされた世界は探偵小説化する。このゲーム宣言はエクスキューズでもあるだろうが、犯人は、現実を探偵小説化する欲動に囚われているわけで、こうした犯人像は、「ゲームの規則」が整備され、探偵小説がジャンルとして成熟した時点でなければ現れえなかっただろう。
 作者は、執筆当時、いずれも現役の新聞記者の新婚夫婦で、夜遅くまで大音量でラジオを流す隣人に悩まされ、鬱憤晴らしに、完璧な殺害についてあれこれ考案する中で、ミステリの執筆に結びついたとのことだ。

■パトリック・レイン『もしも誰かを殺すなら』(論創海外ミステリ)■


 翻訳が進んでいる〈貸本系B級ミステリの女王〉アメリア・レイノルズ・ロングの別名義作品。パトリック・レイン『もしも誰かを殺すなら』(1945) は、明らかに『姿なき招待主ホスト』『そして誰もいなくなった』の系譜に連なるミステリ。
 無実を訴える新聞記者に下された死刑判決。彼を裁いた陪審員たちの集まりが人里離れた山荘で開かれ、一晩に次々と無残な死を遂げていく。それも、当日、もしも誰かを殺すことになったら、どんな手段を選ぶかと各人が語った当の手段で。いったい誰か犯人なのか、それも何の目的で。
 探偵役は、作家名と同じ名前のパトリック・レイン (エラリー・クイーン形式) 。彼は、盲目の犯罪心理学者で陪審員の一員の友人。当日、講演を依頼され、山荘の客となっていた。
 クローズドサークルの構成員が、同じ事件を担当した陪審員たち、というところが新工夫。ただし、死刑を下した陪審員たちのほぼすべてが、まるで同窓生のように、毎年、会合を開いているという設定は納得するのが難しい。まして、死刑とされた新聞記者は冤罪だったと判明したと、当日、担当弁護士が山荘に駆けつけるとか、死亡した真犯人が陪審員たちに遺産を残すという設定に至ってはなおさら(そもそも、遺産をもつものを殺した者は遺産相続者になれないので、彼の遺産相続は無効で他人に遺贈することなどできないのではないか)。
設定への不満をあげつらってしまったが、やはり連続殺人はミステリの花、次々と殺されていく状況はスリルと一抹の無常感を感じさせる。
 謎解きの方も、各証言から狭い時間帯のアリバイ分析や犯人偽装のトリックが用いられるなど、ロング名義より手が込んでいる印象。アリバイ分析には、犯人特定のアイデアにいいものがあるのだが、曖昧な証言に依拠するもので、別な書き方があったのではないかと思わせる。探偵が盲目というところに何かありそうだが、想像とは違う方向での活用だった。
 設定の割り切れなさ、犯人特定の詰めの甘さ、犯人の動機の納得できなさは、やはりB級というしかないが、先人のアイデアを変奏しつつ、クローズドサークル物に真っ向から挑んだ作品として、記憶にとどめたい。

■イーデン・フィルボッツ『孔雀屋敷: フィルポッツ傑作短編集』(創元推理文庫)■


 本書は、『赤毛のレドメイン家』などの作品で、ミステリ史に名を遺したフィルボッツの短編を収録した3冊の本から、精選した6編を収めた日本オリジナル短編集。初訳は3編だが、いずれも新訳を収めている。
「孔雀屋敷」 教父である元将軍の家に訪れていた女教師は、ある日、谷間の屋敷で殺人を目撃するが、一向に新聞で報道されず、近隣の話題にもならない。再び谷間を訪れた彼女は、屋敷が消えているのを知る。家が消えた趣向は、不可能犯罪を意味するものでないが、その後の進行は、読む者を驚かせ、ミステリの可能性を感じさせるものだ。全体に漂う夢幻的な雰囲気、結末もいい。秀作。
「ステバン・トロフィミッチ」 帝政期ロシアの農民の領主に対する襲撃と囚われた後の拷問を描く。途中で不可能犯罪物になるのが、驚き。密室物も書いた著者らしい。
「初めての殺人事件」 田舎の警察官の初手柄を描く。証言から殺人の真相を見抜くので、推理の要素は薄い。誰からも信頼され、敵がいない男がなぜ殺されたのかという謎は、次の短編と共通する。
「三人の死体」 カリブ海バルバドス島での謎の三重死の謎をロンドンの調査員が追う。初読時の印象は薄かったが、今回は三人の性格分析だけから真相に迫るアプローチの妙が味わえた。古典に通じ、形而上学に惹かれる農園主は、作者の自画像でもあるのもしれない。やはり、マイルストーン的短編。
「鉄のパイナップル」 些細なものに猛烈に執着する男が起こした犯罪とは。二つの執着が交わる部分が恐ろしい。多かれ少なかれ人間にある性質を究極的なオブセッションとして描いた小説で、アンソロジー・ピースとなっている。時代を先取りした名編。
「フライング・スコッツマン号での冒険」 一夜、張り番をつけていた遺産の証券が張り番の男とともに消えた。ごく初期の短編で、市井の人の冒険譚として起伏に富んだ筋立。フライング・スコッツマン号は、スコットランド行の特急で、初期の鉄道ミステリになっている。
 
 選ばれた6短編において、作者は、邦訳された長編に通じる様々な顔を見せている。「孔雀屋敷」の巧まざる先見性、「ステバン・トロフィミッチ」のリアリティある異国の描写、「三人の死体」の性格の研究、「鉄のパイナップル」の異常心理の探究など多面体作家の魅力が詰まった短編集。翻訳も読みやすい。

■P・A・テイラー『アゼイ・メイヨと三つの事件』(論創海外ミステリ)■

 
 リゾート地ケープコッドの名探偵アゼイ・メイヨ物の三編を収録(原書は、1942) 。アゼイ・メイヨは、既に長編の2冊『ケープコッドの悲劇』(1931)、『ヘル・ホローの惨劇』(1937)が翻訳されている。アゼイは、元船乗りで、「ケープコッドのシャーロック」「粋な田舎探偵」と呼ばれている。元々使用人だったが、今は、主人の経営している自動車会社の役員にまでなっている。「あっし」「そうさな」といった口癖から人物像を推し量ることができよう。ケープコッドで絶大な信頼を得ている人物で、警察もアゼイを頼りにしている。
「ヘッドエイカー事件」 妻が消えてしまったという青年の訴えにより、アゼイは、空飛ぶ木馬やインディアン人形、船首像などが林立する奇妙な屋敷を訪れるが、連続射殺事件に遭遇する。解き明かされるトリックの目新しさはないが、奇妙な舞台とマッチしている。
「ワンダーバード事件」 伯父とトレーラーで旅する娘が、伯父とトレーラーが消えてしまったとアゼイに訴える。トレーラー消失の謎はいただけないが、唐突に発生した殺人事件で、アゼイはある人物の秘められた悪意を暴く。 
「白鳥ボート事件」 ボストン出張編。アゼイは、ボストンの街角で従妹と待ち合わせをするが、またまた殺人事件に巻き込まれる。従妹とアゼイは頻発するひったくり犯と間違われて警察から追われる始末。事件の様相は複雑だが、最後は関係者が集まっての謎解きとなる。
 長編ではあまり感じなかったが、奇妙なシチュエーション、ユーモラスな語り口、登場人物が演じる大混戦といった辺り(特に「白鳥ボート事件」) は、同時代の同じく女性作家クレイグ・ライスに通じるものがあると感じた。謎解きにおける論理性の弱さという面も含めて。

■マシュー・ヘッド『贖いの血』(論創海外ミステリ)■

 
 本作『贖いの血』(1943) をミステリのジャンルに分類すれば、本格ミステリの部類に入るのだろうが、通常のフーダニットとは、大いに肌合いが異なる。知的で感受性豊かな青年の青春小説の味わいがあるというか。ただし、その青春はあまり爽やかなものとはいえない。
 途方もない大富豪である老嬢の地所〈ハッピー・クロフト〉に、夏の間、住み込み画家兼美術館の管理人として招かれた青年ビル・エクレンの一人称で物語は進行する。ビルは、ハーバード大で美術史を専攻した25歳の青年。広大な地所には、老嬢に庇護された歴史家や詩人、建築家、服飾デザイナーなどが住み着いている。前半パートは、老嬢にまとわりつき、巨富のおこぼれに預かろうとしているこれら人々を的確に描き出している。異色なのは、主人公は、開巻早々、15歳も年上の服飾デザイナーと不倫の関係になることだ。愛し合っているわけではない。主人公も、詩人の夫がいるデザイナーも特にモラルの問題を特に気にしていないようだ。ビルは老嬢にも気に入られ、ひと夏の与えられた役割を楽しむ。
 事件は、老嬢の誕生パーティの日に起きる。家屋内のエレベーターが下りてきて、皆が見守る中、両手を縛られさるぐつわをはめられた死体が降りてくるシーンはなかなか強烈だ。
 事件の後、関係者が金を巡る醜い争いを続ける中、ビルは徹底的に推理を巡らし、結論を得る。
 ビルの推理の核心は、関係者のなにげない一言にあるが、この心理的手がかりは、なかなか見事。
 でも、本題はここから。巻末近く、凄惨ともいえる死体が出現し、事件の真相/深層が明らかにされるとともに、犯人の置かれた絶望的状況が告白される。エピローグ的に置かれた関係者の後日談が、悲劇の陰影をより深くしている。
 それにしても、ビルは、自らの果たした「役割」に気づかされたわりには、あまりにノンシャランとしていないか。そういった批判的な感想を作中人物にもたせるだけで、実はフーダニットの形をしたリアルで悲劇的な人間ドラマを目指した作者の術中に嵌っているのかもしれない。
 本書は、見方によっては、クイーン『災厄の町』(1942) などと同様、パズル的謎解きからリアルな人間ドラマの探求への転換期の作例としての特徴を有するものであり、探偵像としても「敗れさる探偵」の一つのありようを示すものかもしれない。
 マシュー・ヘッドは、米国の美術評論家ジョン・キャナディの別名義。邦訳には『藪に棲む悪魔』がある。そのミステリには自伝的要素があるのが特徴で、本書も殺人事件以外はほとんど実話だと語っているという。

■P・G・ウッドハウス『ブランディングズ城の救世主』(論創海外ミステリ)■


 『ブランディングズ城の救世主』(1961) は、ウッドハウスのジーヴズ物と並ぶシリーズ、ブランディングズ城サーガの第8作に当たる。昨年、第1作に当たる『ブランディングズ城のスカラベ騒動』(1915) が翻訳されたが、この8作目刊行まで40年余り経過している。しかし、小説中の時間は数年しか過ぎていないようだ。消えたスカラベが話の中心になる第一作はぎりぎりミステリといえたかもしれないが、本作はさすがに難しい。それでも論創海外ミステリの枠で紹介されたということは、今後もウッドハウスの刊行が続くということだろうか。
 本作は、ウッドハウス80歳の作というが、読む者の笑いを呼び起こすパワーはまったく衰えていない。
「地上の楽園」のはずのブランディングズ城の主エムズワース伯爵は、数々の問題を抱えていた。妹のコンスタンスと、招かれざる客ダンスタブル侯爵、手厳しい女秘書が自らの安逸な暮らしの前に立ちはだかっている。教会少年団が領地内にキャンプを張り、悪さのし放題だ。おまけに愛豚の盗難計画が持ち上がり、城に預けられた富豪令嬢の婚約問題もある。
 そんな難題だらけの状況の「救世主」となるのが、友人のフレッド伯父さんことイッケナム伯爵。エムズワース伯爵の嘆きを聴いて、ひと肌脱ごうとブランディングズ城に再び乗り込んでくる。再びというのは、『春どきのフレッド伯父さん』(1936 )で過去にブランディングズ城で大暴れしているからだ。
 このフレッド伯父さんは、「微笑と奉仕」をモットーとし、甘美と光明を振りまく冒険好きの御仁。ブランディングズ城での定位置はハンモックだが、「奉仕」の精神で、周囲に大騒動を巻き起こしながら、物事を丸く収めていく。周囲の迷惑省みず、すべて本人流の善意で動いており、自らの行動に露疑いもない無敵のキャラだ。
 読者は、この救世主の活躍に微苦笑を浮かべ、時に腹を抱えながら、ブランディングズ城のトラブルが見事に解決していくのを見守ることになるだろう。
 蛇足ながら、本作は、ウッドハウスの多くの小説がそうであるように、課題解決小説ということができる。物語の終わりでは、フレッド伯父さんがすべての課題をすっきり解決し大団円を迎える。探偵小説も広い意味では「謎」という課題を解決する課題解決小説ともいえそうだ。そういう意味では、トラブルシューターであるフレッド伯父さんの立ち位置は、謎解きミステリにおける探偵に似ている。探偵は、謎を解く行為で、驚きや意外性を生み出し、フレッド伯父さんは問題の解決の仕方で驚きや意外性を生み出す。ウッドハウスの小説と探偵小説との親和性はこういうところにも見られる。

■ハリー・クルーズ『ゴスペルシンガー』(扶桑社ミステリー)■

 1966年、ジョン・レノンは、「ビートルズは、キリストより人気がある」と発言し、米国では多くの物議をかもした。特に、米国の中でも信仰心の厚い南部では、レコード焼払いなど激しい抗議活動があったという。
 本書『ゴスペルシンガー』(1968) は、その事件に何らかの影響を受けたのか、持前の美声と容貌で現代のキリストのような扱いを受けるゴスペルシンガーの暗黒の物語。
 米国深南部ジョージア州の行き止まりの町エニグマでは、黒人説教師による美しい娘メリーベル殺しが起き、彼は拘置所に囚われていた。そこへ、町出身の成功者で、メリーベルの恋人だったゴスペルシンガーが帰郷する。黒いキャデラックに乗って。人々は、ゴスペルシンガーを待ちわびていた…。
 本書は、ゴスペルシンガーが帰郷した二日間の出来事を描いた小説。
 白人のゴスペルシンガー (最後まで名前は示されない) は、その歌への喝采のみならず、聴衆に救いをもたらし、神と触れたような経験をさせる存在になっていた。さらに、キリストの如く足が萎えた人間を立たせ、盲目の人間の眼を開かせる奇跡をなす者であるという噂も起き、身体に障害をもつ多くの人間が彼の到来を待ちわびていた。実は、ゴスペルシンガーは、コンサートの先々で見境いなく女と寝る放蕩家だった。彼の現在のマネージャーは、狂信者で、ゴスペルシンガーの魂を導き操るために、前のマネージャーを殺し、今の地位についていた。拘置所で黒人説教師と対話したゴスペルシンガーは、自らに刃が向くようなメリーベル殺しの真相を知る。さらに、彼のコンサートを追って集客を続けていたフリーク・ショーの主催者で奇形の巨大な足をもつフットという男が絡んできて、最後に大破局が待ち構えている、とストーリーを追うだけでもこの小説の尋常でなさは伝わるだろうか。
 「豚小屋」で生まれ、多くの信者をつくり、障害のあるものを癒し、ユダの裏切りに遭い、ゴルゴダの丘を登っていく。ディープサウスの現実の中で、ゴスペルシンガーの生は、キリストの生涯になぞらえられが、ゴスペルシンガーは常に神への懺悔を必要としており、その歌声と容貌以外は平凡な若者にすぎない。彼の肖像は、新たにつくられた黒人の教会の神のように祀られるが、それはある人物による「復讐」の結果にすぎない。
 といっても、深刻ぶった小説ではない。フリーク・ショーの場で、限られた時間でフットの情婦と交わる場面には、滑稽と悲惨が同居し、黒い笑いを噴出させる。
 一読後の感想は、コンサートでの熱狂、放埓な性、マスメディアへの不信、フリーク趣味といった60年代という時代の意匠をまとってはいるが、この小説は、ノワール云々という以前に、〈偉大なるアメリカ小説〉を養分とし、その伝統に連なるグレートなアメリカ小説ということだ。解説の吉野仁氏は、フォークナーやオコナー等を挙げているが、そのほかにも黒人による白人殺しはハーパー・リー『ものまね鳥を殺すなら(アラバマ物語)』を、クライマックスの大破局はナサニエル・ウエスト『いなごの日』を思わせる。黒いキリストや狂信というテーマは、米国社会の普遍的関心事項でもあろう。
 様々な受け取り方ができるのも小説の豊かさを示している。例えば、本書には、フランケンシュタイン的テーマを見出すことも可能だろう。大衆は、己の願望から、ゴスペルシンガーという怪物を生み出すが、最後には幻滅という復讐をされる。ゴスペルシンガーは、マリーベルを性的玩具として開発するが、死せる彼女に復讐される。黒人の男は、ゴスペルシンガーを神の如く崇めるが、それが仇となり、獄中につながれる、といったように。
 1960年代という時代性に対応した、暗い情念、狂信による犯罪、人々の剥き出しの欲望を描き、登場人物みなが黒い罠に囚われているような、この小説の出口なしの感覚は、ノワール小説としても一つの到達点といえるものだ。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
ツイッターアカウントは @stranglenarita
note: https://note.com/s_narita35/


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