今回は、偶然18世紀、19世紀、20世紀の英国の女性作家3名が並んだ。いずれも、時代を超えた卓抜なプロットを有しているのは、ストレート・フラッシュに当たったというべきか。

■ドロシー・ボワーズ『未来が落とす影』(論創海外ミステリ)■


 昨年出た『アバドンの水晶』(1941)という逸品で、その手腕に改めて瞠目させられたボワーズは、セイヤーズの後継者と目されながら、46歳の若さで夭折した作家。『未来が落とす影』(1939) は、彼女の第二作だ。一作目『命取りの追伸』(1938 ) は、人物描写も的確でスマートではあってもやや小味な感もあったが、本作は、本格ミステリ濃度たっぷり、「華麗な」とでも形容したいようなミステリである。
 財産目当てで義妹を毒殺したとして起訴され、裁判で無罪となった大学教授マシュー・ウィアーは引退し、一家で英国南西部丘陵地の麓の荘園屋敷に転居する。精神衰弱となった妻は、野草を煎じてハーブティーをつくることを楽しみとしていたが、体調を崩すことが多く、美貌の付き添い婦コンバニオンアウレリアが新たに雇われる。ある日、このハーブティーを飲んだ後に、妻はヒ素中毒死する。果たして、元教授ウィアーは連続殺人犯なのか。

 物語の冒頭は、求人広告に応募したアウレリアの視点を軸に描かれ、本書も『アバドンの水晶』と同様、女性が不穏で秘密のある屋敷で暮らすことになるゴシック・ロマンス的な結構をもっている。ウィアー家は、温厚だが沈鬱なマシュー、頭の中に靄がかかっている夫人、詩人で金欠の弟、養子の兄妹(兄は安楽死を支持し活動している)、他人の批判と中傷にあけくれる家政婦など一癖二癖ある人物揃い。
 捜査に当たるのが、スコットランドヤードから派遣されたパードウ警部とソルト部長刑事。『アバドンの水晶』での登場は、終章近くと出番が少なかったが、今回は、二人の捜査は小説の割と早い段階から描かれる。パードウ警部は、元教授ウィアーの犯罪という予断を排した公正な捜査を行う誠実な人物で、部下のソルトとも率直にディスカッションを行う。二人が、ウィアー家の人々の好悪を明らかにするのも、対照的な部分があって面白い。
 また、英国に田園ミステリ多し、といえども、田舎の自然がこれだけ細やかに瑞々しく描かれているのは特筆されるべきだろう。
 物語は、終盤に畳みかけるように、第二、第三の殺人が起き、パードウ警部の罠により、意外な真犯人が明るみに出る。

 パードウ警部の犯人逮捕のシーンは、大向こうを唸らせるようなもので、思わず快哉を挙げたくなった。作者は、警部のこの台詞を目指していたのか。
 改めて見直してみると、レッドへリングで読者を惑わしつつ、真相への手がかりを埋め込んでいく手際が極めて巧み。特に、第4章は、ウィアー宅にいる人物が、外部に出した手紙6通からなっているが、読み直してみると、作者の情報の出し方、カードの切り方の的確さには惚れ惚れしてしまう。手がかりのパターンにも色々なものがあり、その提示には幾つものアイデアが凝らされている。
 終盤に至っての二つの殺人事件については、やや説明不足で、不自然さも感じさせる部分ないではない。しかし、全体としてみれば、巧緻なプロットで繰り出されるアクロバティックな大技、周到な犯罪計画に滲む悪意空間の凄まじさといった黄金時代の探偵小説の醍醐味はそのままに、優れた人物描写・自然描写を武器に、さらに探偵小説の進化形を目指す作者の意志を感じさせずにはおかない。
 ポワーズは、最近紹介された2作で黄金時代の異才としての相貌を顕した。未紹介作はあと一冊を残すのみ。そちらも、刮目して待ちたい。

■キャサリン・ルイーザ・パーキス『ラヴデイ・ブルックの事件簿』(ヒラヤマ探偵文庫)■

(https://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca15/1094/p-r15-s/)
(画像をクリックすると〈書肆盛林堂〉の該当ページに飛びます)

 ヒラヤマ探偵文庫からキャサリン・ルイーザ・パーキス『ラヴデイ・ブルックの事件簿』(1894) の短編集。この作家は、今年出た岩波文庫『英国古典推理小説集』にラヴデイ・ブルック物「引き抜かれた短剣」(本書では「短剣の絵」)が収録されていて、ブロットの切れ味の良さに驚かされたが、誠にタイムリーなことに全訳が出たわけだ。
 1894年というと、『シャーロック・ホームズの冒険』が出版された2年後であり、ラヴデイ・ブルックも、まさにホームズのライヴァルなのだが、女性作家の手になる女探偵というのが、ミステリ史的にも貴重だ(なお、女性作家による女性私立探偵第1号は、ジョージ・コーベット夫人創案のドーラ・ベル (1891)とされているらしい。『英国古典推理小説集』佐々木徹解説) 。他にも、同時期にマリー・コナー・レイトン創案のジョウン・マーといった例がないではないが、ラヴデイは女性作家の手による女探偵としては、ごく初期に属するものだろう。
 ラヴデイ・ブルックは、三十歳ちょっとすぎの容貌も平凡な女性。二十代半ばで一文無しり、社会的地位をかなぐり捨てて、探偵の道を歩んだ。リンチ・コート探偵事務所に雇われているが、現在では、上司のダイヤー所長とは対等に話し、捜査に熟達したプロフェッショナルである。「女探偵というものは皆一匹狼で、それぞれ独自のやり方があるのよ」と内心でつぶやいたりするくらい、一人で果断に行動する探偵である。彼女は、はるか後のV・I・ウォーショースキーやキンジー・ミルホーンの先駆的存在なのだ。彼女が捜査するのは、多くはロンドン以外の地方であり、現地の警察に協力する形で行われる。

「玄関階段に残された黒い鞄」 田舎屋敷での高価な宝石の盗難の際に、犯人は金庫に「貸家、家具なし」と書き残した。一方、まったく別な住宅の玄関前に残された鞄の中には、聖職者の衣類と遺書が残されていた。ラヴデイは、二つの事件は関連があると所長に語り、田舎屋敷の家政婦の姪として潜入捜査をすることになる。短時間の捜査でラヴデイは二つの事件の関連を見極め、謎を解き明かす。
「トロイテ・ヒルの殺人」 屋敷の番小屋の番人殺し。部屋は、花瓶と装飾品は一直線にドアに歩いていくように並べられるなど、いたずらやり放題のように滅茶苦茶にされていた。
ラヴデイ危機一髪の回だが、変人と狂人とは紙一重という結論は、英国イズムへの軽い揶揄のようでもある。
「レッドヒルの修道女」 最近村に住み着いた、身体障害のある孤児たちを集め世話している修道女たちは、頻発する窃盗事件の片棒をかついでいるのか。ロバを連れた修道女の集団が窃盗犯と疑われるという奇想が炸裂。真犯人指摘の論理も見事。ただ、主要な手がかりがラヴデイだけが知っているのは、他の作品にも通じる弱点だ(67pの「ウットン・ホール屋敷」は、「ノース・ケープ屋敷」でなければ辻褄が合わないのではないだろうか)。
「王女の復讐」 スイスの児童養護施設から連れてこられた美少女の失踪事件。彼女が女主人の秘書を務める家は、あらゆる分野の今流行している運動参加者のたまり場になっており、トルコの王女すら出没する。多様な人々でにぎわう屋敷でひとときを過ごしただけで真相を見破るラヴデイの慧眼。
「短剣の絵」 『英国古典推理小説集』にも収録。ネックレスの紛失と送り付けられる短剣の絵という別々の謎を結びつけるのは、作者の得意とするところのようだ。思わぬところに秘められた真相、ラヴデイのきめ細かな観察、意外な捜査手法も秀逸。
「ファウンテイン・レーンの幽霊」 これも牧師の小切手の紛失と軍人の幽霊事件というまったく異なる二つの謎がラヴデイの推理により鎖のように繋がれる。背後にある「世界」がなかなか恐ろしい
「失踪!」 資産家の一人娘の失踪事件が休暇中のラヴデイのところに警察から持ち込まれて。事件は意外な展開をみせるが、真相はさらに一ひねりしたもの。さすがに、現在では成立しない謎か。

 この作家、女性探偵がミステリ史的に貴重というだけでなく、プロット面でも二つの異なる事件を関連づける手際などに優れた面をみせており、事件の内容も「トロイテ・ヒルの殺人」の動機、「レッドヒルの修道女」の設定、「王女の復讐」の背景など奇想とでもいいたいような風変りなものになっている。ラヴデイの解決は、いずれも相当に意外なもので、作中の警察でもなくても、早く推理の過程を教えてほしくなるものだ。惜しむらくは、フェアプレイというところまでいかず、ラヴデイのみ知っている事実に依拠した推理が多いところだが、これは時代的にやむを得ないだろう。
 著者のパーキスは、本書を最後に筆を折り、動物保護活動に専念したと伝わっている。

■アン・ラドクリフ『森のロマンス』(作品社)■


 本書『森のロマンス』(1791) は、ゴシック小説『ユドルフォ城の怪奇』(1794)の著者が27歳のときに、同書に先立って書いた長編小説の本邦初邦訳。当時の書評 (書評誌も存在したのだ) でも、「この種の小説の中では第一級の作品のひとつ」「現代小説の中のトップクラスの作品」などと称賛され、作者の出世作となった作品が、三馬志伸氏の流麗な訳で甦ったのは、喜ばしい。
『ユドルフォ城の怪奇』は、夜な夜な古城に不可能な出現をする男、城の一室からの人間消失など幻想怪奇の色合いたっぷりに書かれながら、実は小説中における謎は超自然の要素がなく合理的に解かれるもので、そこに探偵小説の先駆を見出すことができる。
『森のロマンス』にも幻想怪奇の要素がないではないが、本書にも探偵小説との類縁を見出せるのは、必ずしも同じ理由からではない。
 まずは、ストーリーを眺めてみよう。
 
 舞台は、17世紀の半ば。都パリを逐電したラ・モット夫妻は、荒野の一軒家で美しい娘アドリーヌを悪漢に押しつけられ、不憫に思った夫妻は、逃避行に彼女を同行させる。やがて、鬱蒼たる森の中に荒れ果てた僧院を発見した夫妻は、そこを仮の住処とする。当初は親子のように信頼しあっていた夫妻とアドリーヌだったが、ラ・モットは間もなくふさぎ込むようになり、夫人は夫とアドリーヌの仲を疑うなど三人の間に葛藤が起こる。僧院には幽霊の噂があって村人が寄りつかないのは幸運だったが、隠された落とし戸の先には独房らしきものがあり、箱の中から白骨も発見され、過去の秘密が暗示される。やがて、森の所有者モンタルト侯爵が登場し、アドリーヌに好色の目を向けて、サスペンスたっぷりの奸計と脱走のドラマが展開する。アドリーヌを愛し、彼女を助けようとした軍人テオドールとの仲は引き裂かれる。続いて舞台は、サヴォアの地に移り、物語は寄り道するかに見えるが、終盤で舞台はパリの法廷となり、すべての秘密は解き明かされ、物語は見事な収束を迎える。

『ユドルフォ城の怪奇』は、1000頁を超える大冊だったが、本書はその半分で、展開も大変スピーディだ。(もちろんこの時代特有の登場人物が吟じた詩がそのまま載っているパートや一部の説教臭さを割り引いての話だが)。囚われの乙女を主軸にする物語は、紆余曲折に富み、現代の読者でも十分惹きつけられるものだ。ラ・モットのように優柔不断で悪の道にひきずられるが、善性もなお残しているというような複雑なキャラクターを擁するなど人間ドラマとしての側面にも魅力がある。
 探偵小説との関連で注目したいのは、サスペンスたっぷりに進行するストーリーに散りばめられた謎がほぼすべて終幕において回収されるプロットの見事さである。本編には、大小さまざまな謎がある。アドリーヌはなぜラ・モットに押しつけられたのか。なぜ、ラ・モットは急にふさぎ込んだのか。ラ・モットと侯爵が出逢ったときになぜ驚愕の表情をみせたのか。僧院の秘密とはいったい何だったのか。アドリーヌにプロボースしていた侯爵がなぜ急激な心変わりをみせるのか。単に謎が明らかになるだけではなく、物語のプロット全体と融合しているところが素晴らしい。舞台がサヴォアに移り一見、展開が緩んだようにみえて、実はこれも物語に決着をつけるために欠かせない部分であることが判明するのも心憎い。
 物語のすべてのピースが収まるところに収まり、すべてが「割り切れる」構成の見事さに、後の探偵小説が予見されるのだ。もちろん、読者が物語の謎を「推理」することは困難だが、それでもアドリーヌが書いた手紙の封印のように、きちんと「手がかり」を提示している謎もある。
 紆余曲折をもつ面白いストーリーと、散りばめられた謎が有機的関連をもって明かされるプロットとの両立を18世紀末にやり遂げているのが、なんとも驚きだ。リアリズム小説は、こうした「割り切れる」(割り切れすぎる)小説への異議申立てとして発生したのではないかと思うくらいだ(事実は異なるが)。
 なお、レジス・メサックは、『探偵小説の考古学』の中で、「説明される謎の常道にほぼぴったり合う例」は、ラドクリフ夫人の作品の中では、『ユードルフォの謎』(原文のまま)一作しかないとしている。『森のロマンス』の結末については、「説明される謎」とまではいえないとし、「これは単に、小説のなかに迷い込んだ演劇の古めかしい常套手段にほかならない」と書いている。ラドクリフ夫人が探偵小説の形成に果たした役割自体を「買いかぶり」としているくらいだから、『森のロマンス』の構成力もあまりお気に召さなかったようだ。

■麻田実『舞台上の殺人現場』(鳥影社)■


 副題は「「ミステリ×演劇」を見る」。著者、麻田実氏は、1936年生まれ。1959年からNHK等で数々のテレビ番組を製作。ミステリ関係では、雑誌『幻影城』で評論部門第2回佳作を受賞し、現在『ミステリマガジン』で劇評を連載している方。舞台をつくったり、演じたことはないというが、70年を超える観劇経験をベースに、ミステリ演劇の魅力を語った一冊。我が国では類書が見当たらないもので、貴重な著作だろう。
 全体は、3つのACTに分けられている。ACT1は、ミステリ劇との出会いだった「夜の来訪者」(プリーストリ) から始まり、犯罪・謎解きを素材として扱った古典「ハムレット」、歌舞伎「毛抜」「ねずみとり」はじめクリスティの演劇、フーダニット名作選(「毒薬と老嬢」「罠」「暗くなるまで待って」「スルース」「死の罠」)、「黒蜥蜴」等の名探偵物、リリアン・ヘルマン「ラインの監視」(ハメットが映画脚本を書いた)等リアリズム演劇を扱っており、名作ガイドブックという点では、この部分が一番楽しめる。
 ACT2では、警察、裁判、牢獄という司法手続に即して、関連する演劇を紹介している(「笑の大学」(三谷幸喜)、「熱海殺人事件」(つかこうへい)等が含まれている)。牢獄の囚人たちが「ゴドーを待ちながら」を難解とは考えず、震えながら見たという逸話をひき、不条理演劇が20世紀後半の演劇に変革を与え、条理を旨としたミステリ演劇にも逆流を起こしたと述べられている。
 ACT3では、「不条理劇の衝撃」の章で、クリスティ「そして誰もいなくなった」がフーダニット劇と不条理劇双方のミステリ劇を生んだとし、別役実・作「そして誰もいなくなった」という不条理劇に触れる。続いて「過去と未来へのタイムトラベル」の章で「アマデウス」や、「R.U.R」「華氏451度」「1984」といったSF作品が扱われる。さらに、コロナ禍の演劇事情に触れられ、劇団チョコレートケーキ、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹の演劇や英国の「ザ・ウェルキン」に、現代演劇が取り入れたミステリの構造を見い出す。
 著者は、最終章で「フーダニット劇ばかりではなく、リアリズム演劇でも、不条理劇でも、ミステリ劇の構造は現代を解き明かす有力なツールとして大いに貢献した。ミステリ演劇は時代と併走して、現代社会の人間が生み出す謎を解き明かす現代演劇の先端を目指す」とし、これからのミステリ演劇を展望している。
 生身の人間が演じる演劇は、観客とのまさに一期一会。作中取り上げた作品は、ほぼすべて観ているという著者にしか書けないガイドであり、演劇史を紐解きながらミステリ演劇の意義を将来にわたって考察した価値ある一冊だ。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
ツイッターアカウントは @stranglenarita
note: https://note.com/s_narita35/


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