例年のように、最後に、◆2023年のクラシック・ミステリ◆という年間回顧を書いています。
今年は少ないと思ったのに、最近の札幌は連日の雪。やはり冬は帳尻を合わせてくる。こういうときは、故知にならって、ミステリでも勉強しよう。と、まずは3冊
■川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)■
本書は、戦後から現代に至る翻訳ミステリ叢書を概観する大著。戦後から現在までの翻訳ミステリ叢書は、百近くあるという。その中で、著者が気になった叢書を探訪した本書は、「翻訳ミステリのブックガイド」であり、「翻訳ミステリ叢書の研究」であり、「戦後日本における翻訳ミステリの受容史」でもあるという、複数の性格をもつ。
まず、ガイドブックとしては、探訪した叢書の作品はすべて読み、読みどころを明示し、現在の視点から評価を加えている点は一貫している。B級とも思われるスパイ物や冒険物、ノヴェライゼーションまで丁寧に読み込んで、評価する姿勢は、信頼性十分。眠らせておいたほうがいい作品ももちろんあるが、今では読めない作品の「当たり」率は結構高い。
特に、著者自身が魅せられているという【クライム・クラブ】の作品の紹介が圧巻で、読みたい本が増殖していく。
読んでみないと判らないのは、今の作品も昔の作品も変わらないようだ。
叢書収録作のみならず、収録作家の別作品にも言及している箇所も多い。例えば、【フランス長編ミステリー傑作集】の項で、フレデリック・ダールの『
叢書の研究としては、関係書、雑誌等を博捜し、足らざる部分は、関係者に聞き取るなどして、調査を尽くしており、本書で全貌がつかめた叢書も多い。
インヴェスティゲーション(調査、捜査) の過程自体が面白さに満ちているところもある。【世界秘密文庫】の項がそれで、1964~65年にかけて日本文芸社から発刊された謎多い叢書。最初の3冊が聞いたこともない海外作家の名前が表記され、後続の7冊は、「陶山密」ら日本人の名前のみが表記されている。ポルノまがいのでっちあげ翻訳と思えるが、これが翻訳ミステリ叢書と知って驚かされる。翻訳権未取得のためにこのような体裁にしたのだろうが、著者の徹底調査により、大物ミステリ作家の初邦訳が次々と明らかになる過程が実にスリリング。登場人物名を手がかりに原著を探り当てたものもあり、著者の調査の徹底ぶりがうかがえる。異常犯罪と歴史秘話に取り憑かれたような陶山密の身上調査や版元の出版に至る過程の推理も面白い。
ミステリとSFの混合叢書【Q-Tブックス】調査でも、「Q-T」とは、社長が久保藤吉だからとか、ウェイド・ミラー『殺人鬼を追え』の結末は翻訳の三条美穂こと片岡義男がまるきり変えてしまったとか、ナポレオン・ソロのノベライゼーション『恐怖の逃亡作戦』は謎解きの興趣が味わえるとか、知らなくてもいいような、でも知っていたら楽しくなるトリビアが次々と出てくる。
翻訳ミステリの受容史としては、各叢書が時系列に並べられていることで、戦後の復興期から20世紀末まで、ミステリのはやりすたりや翻訳史を俯瞰するものになっている。
【六興推理小説選書 ROCCO CANDLE MYSTERY】の田中潤司、【クライム・クラブ】の植草甚一、【シリーズ百年の物語】の瀬戸川猛資といった叢書の選者にとどまらず、小鷹信光、各務三郎、長島良三といった人たちの叢書に関わる業績も丹念に拾い上げられている。
【六興推理小説選書 ROCCO CANDLE MYSTERY】のラインナップから、田中潤司の意図 (あり得たかも知れない〈ポケミス〉のもうひとつの姿) を見出し、論創海外ミステリに〈あり得たかも知れない〈ポケミス〉のもうひとつの姿〉の再誕をみるのも、叢書を深く探究した著者の特権だろう。
巻末には、「戦後翻訳ミステリ叢書・全集一覧」「索引」を付しており、愛好家なら書架に備えておきたい一冊だ。
■ルーシー・ワースリー『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(原書房)■
ルーシー・ワースリーは、歴史家で、BBC歴史教養番組のプレゼンターを務めており、『イギリス風殺人事件の愉しみ方』の邦訳もある。本書は、2022年の刊行。
アガサ・クリスティーの自伝もあり、ジャネット・モーガンによる遺族公認の伝記『アガサ・クリスティーの生涯』もある中で、新しい切り口のクリスティー伝が可能だろうか。
イエスというのが本書であり、その新しい切り口は、副題にもなっているクリスティーの「とらえどころのなさ」だろうか。彼女は職業を聞かれれば無職と答え、書類には主婦と記入した。普段の彼女は内気で目立たなかった。平凡なふりをして生きていたのに、実際には、聖書やシェイクスピアの次に本が売れる作家だった。
本書は、アガサは平凡さのパブリックイメージに隠れて、20世紀の女性についてのルールを次々と打ち破った女性とみる。また、表面的には保守的な作品であるにもかかわらず、読者の世界の認識を、前向きな方法でひそかに変えていったと考えている。
自伝のまことしやかな表面の下にはもっとつらい真実が隠れているとして、幼い頃の体験から自らの家が彼女の妄執となった(一時は八軒もの家をもっていた)ことや、母親の家系には精神疾患の傾向があったことなどが明らかにされる。初期の作品(非ミステリ)には「邪悪なものは、家の中に潜んでいる」という考えの萌芽がみられるという。著者は、彼女という矛盾のかたまりのどこかにとても暗い心があったとする。
一方、彼女は美しく育ち、22歳になるまでに、9人に結婚を申し込まれた。従軍看護婦になったときは、「クィア・ウィメン」と自分らを呼び、面白い病院のパロディ雑誌を作り出した。結婚したアーチーとは、戦争で4年間離れていたが、それは現代風な友愛結婚で、陽気な手紙を交わした。そして、『スタイルズ荘の怪事件』を書き始めた。
1926年の著名な失踪事件については、かなりの筆が割かれている。アガサはこの失踪事件に沈黙を通したとよくいわれるが、実際に彼女が話した驚くほどの多くのことばをつなぎあわせれば、謎の多くが次第に解けると著者はいう。
著者は、失踪の間、アガサは記憶喪失 (現在の言葉では、解離性遁走) の状態にあったとみている。それが故意に失踪したととられた一因は、夫のアーチーが愚かにもその可能性について新聞社のインタビューで答えたからだ。今でも、夫に恥をかかせるために意図的に失踪したという説を唱える論者がいるようだが、ワースリーの主張が今後主流になっていくだろうか。この1926年という年は、彼女の作品のあちこちに爪痕を残した。実際、ウェストマコット名義の作品の引用を読めば、当時のアガサの心境を表しているように読める。そして、この1926年という年は、その後の彼女を偉大な女性にもした。
1930年に14歳年下のマックス・マローワンと再婚し、30年代の執筆の黄金期を迎える。
ワースリーは、膨大な資料を読み込み、アガサの波乱万丈の生涯を手際よく再構成してみせる。そこには、平凡を装いながら、必死に闘う女性がいる。幸せな家庭も、マローワンの中東発掘事業も、アガサの書いた本の収入に基盤があった。一方、孫のマシューが、アガサはつねに「
闘い、悩み、生きることを楽しむ。「矛盾のかたまり」のようだが、平凡さの影に隠れて、読者を喜ばせることに忠実だった偉大な作家をワースリーは、よく描き出している。願わくは、ミステリ作家としてのアガサにもう少し触れて欲しかった。
本書を読めば、改めてクリスティーの作品を読みたくなることは請け合い。多くの作品からこれまでとは違う感慨も引き出すこともできるだろう。
■カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(化学同人)■
クリスティー関係でもう一冊。
カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(2021)は、クリスティー作品を題材にとった法科学の入門書。化学同人という専門出版社から出ている。
そもそも法科学(ForensicScience)とはなんぞや、といえば、以前は法医学といわれていた領域に近いようだ。Forensicとは、「科学的な方法や技術を犯罪捜査に用いることに関係する、またはそれを示す」ことを意味している。本書の章立て「指紋」「微細証拠」「法弾道学(銃器)」「文書と筆跡」「痕跡、凶器、傷」「血痕の分析」「検死」「法医毒物学」から、その概要はうかがいしれよう。
著者は、これまで様々な検死解剖に携わってきた解剖病理技師の女性で、熱烈なクリスティーファン。彼女の小説に夢中になって、法科学に興味をもったという。そのせいで、一般向けの法科学の概説のためクリスティーの作品を幾つかを借りてきたというのではなく、クリスティーの小説の細部に分け入り、作品を味わう視野をも広げてくれる本でもある。
薬剤師の資格ももっていたクリスティーと毒物の関係は別として(論じたものにキャサリン・ハーカップ『アガサ・クリスティーと14の毒薬』がある)、広範な法科学とクリスティーの関連というと必ずしもピンとこないが、作品内に、法科学の概説書が書けるほど豊富な諸要素が散りばめられていることに驚かされる。著書は、本書執筆のために全長編と主要な短編を読み込み、その法科学的要素や引用文をパズルのピースのように、適切な位置にはめ込んでおり、その手際には感心させられる。
著者は、「アガサの作品は、
また、本書には、多くの実際の犯罪事件が紹介されているが、クリスティーの作品内にも現実の犯罪事件への言及が多くあり、事件にインスパイアされて構想したケースが少なくないことにも改めて気づかされる。例えば、長編『ねじれた家』(1949)は、不倫の妻と愛人が夫殺しの罪で縛り首にされて世間に衝撃を与えた1923年のイディス・トンプソンとフレデリック・バイウォーターズの事件への追悼作品のように読めなくもないと指摘し、説得力のある論旨を展開している。
実際の作品に即して、例えば『書斎の死体』(1942) の記述の誤り(暖かい部屋では死後硬直が始まるのが遅れるのではなく早まる)が指摘されたり、『エッジウェア卿の死』(1933) に出てくる胃内容物の検査による死亡時刻の推定は現代ではすっかり信用を落としてしまったこと等も語られるが、読者の知識をアップデートするのにも大いに役立とう。
クリスティー作品との関連ばかり書いてしまったが、もちろん、本書は一般人が法科学の世界を知る上で懇切な入門書であり、法科学の歴史や偉人たち、著名な犯罪事件について知り、体系的に法科学の知識を得たり、古い知識をアップデートすることができる。
ただし、クリスティー以外のミステリ作家については言及が少ないのは、本書の性格上仕方がないとはいえ残念。法科学といえば、ソーンダイク博士の功績くらいは、是非触れてほしかったなあ。
■デイヴィット・グーディス『溝の中の月』(HM出版)■
電子書籍オリジナルとしてHM出版が製作。著者の翻訳としては、早川ポケミス2004年『ピアニストを撃て』(1956) 以来だから、20年ぶりの翻訳となる。同書と『狼は天使の匂い』(1954 )と同じ、真崎義博氏による翻訳だ。
デイヴィット・グーディスは、米国の作家で、1939年に純文学作品でデビュー、1946年にクライム・ノベルに転じて、初期の3作は米国で映画化されるなど人気作家となった。1950年代からはペイパーバック作家となったが、その後は、徐々に作品を発表しなくなり、1967年に死去したときは、既に忘れられた作家になっていたという。ただし、これは、本国のことで、フランスでは人気が続き、長編18作すべてが翻訳されたという。映画化も続き、フランソワ・トリュフォー監督『ピアニストを撃て』(1960)、ルネ・クレマン監督『狼は天使の匂い』(1972) は、つとに有名。本書『溝の中の月』も、ジャン=ジャック・べネックス監督により1982年に映画化されている。ノワール作家で、本国で忘れられ、フランスで「発見」された作家としては、ジム・トンプスンと並ぶ存在だろう。
作風は、「出口なし」の感覚を漂わせたクライム・ノベルという点では、ジム・トンプスンと共通するが、作品には恋愛を持ち込むことが多く、暗いリリシズムを漂わせている。
本書の主人公は、ウィリアム・ケリガン。35歳の港湾労働者だ。彼は、アメリカのどことも知れない街のスラム街ヴァーノン・ストリートに住んでいる。この貧しく汚れた界隈が、本書のもう一人の主人公だ。
ケリガンの愛した妹は、七か月前に、レイプのショックにより、自分の喉を切り裂いて自死した。その血の跡は、路地に乾いた跡として残っている。ケリガンは、毎晩その血の跡を訪れ、レイプ犯を捜し出すことを誓っている。
ケリガンは、街の酒場で、アップタウンから来た上品な女ロレッタに出逢い、疼くような昂ぶりを覚える。ロレッタもケリガンと同じような視線を返す。この場面が実に、グーディス的な場面で、他の作品にもみられるように、ケリガンは、瞬間に愛に陥る。
クライム・ノベルとしての枠組みは、冒頭のレイプ事件にとどまり、その後は、ケリガンとは住む世界が違うロレッタとの愛に悩み自問自答する展開になる。謎の襲撃事件も起こるが、それはケリガンの自問自答を高める。
グーディスは、やはり人物の造型に長けている。ケリガンは、働かない父、その妻でチェロキー族の血をひく義母、その娘、実の弟と一緒に住み、義母の娘とはいい仲になり結婚を迫られている。特に、義母とその娘の描写は、切れば血が出るようなリアルさだ。
ケリガンがレイプ犯と疑って友人の看板絵描きの部屋に乗り込んだ瞬間のように、不意に胸を衝かれるような切なさが込み上げるシーンもある。
老いた女たちの酒場の乱痴気騒ぎの描写も迫力十分で、作者は、ドヤ街の人々を透徹した眼で見つめている。
レイプ犯の追求というモチーフはあるものの、終幕ではヴァーノン・ストリートとそこの住人たちのみが立ち上がる異色のクライム・ノベル。もう一人の主人公は、ヴァーノン・ストリートといったのは、そういう意味だ。
ケリガンの最期の台詞が印象的。絶望的にも種の安らかさがあるようにも感じるのは、やはりアンビバレンスに引き裂かれた主人公の懊悩の末の着地点であるからだろうか。
■マイケル・ホーム『奇妙な捕虜』(論創海外ミステリ)■
著者は、『完全殺人事件』『100%アリバイ』等のアリバイ崩しの名手、クリストファー・ブッシュの別名義。論創海外ミステリにも、ブッシュ『失われた時間』ほかが収録されているが、同作も、探偵トラヴァーズが探偵役を務める精緻なアリバイ物だった。今回初紹介となったマイケル・ホーム名義の『奇妙な捕虜』(1947) は、そういった黄金時代の本格ミステリの作風からは、大きく異なっている。
一言でいえば、謎解き要素を備えたスパイスリラーということになるのだろうが、異例の題材、異例の語りで、話の行く末を容易に掴ませない。
異例の題材というのは、第二次大戦末期、連合軍が占領されていたフランスを奪還し、独軍が撤退した大戦終結間近の時期の英国、フランスが舞台になっており、一人のドイツ軍捕虜に焦点を当てていること。
異例の語りというのは、話者交代の形式になっており、記録の執筆者が次々と変わっていくことで、多角的視点により、事件の全貌が語られていることだ。
最初の語り手は、イギリス陸軍大尉のジョン・べナム。情報局保安部の大佐から与えられたのは、奇妙な任務だった。英国内にあるドイツ人捕虜収容所に収容されているネムリングというドイツ軍中尉に関してだ。同中尉は階級が高いわけでもないが、収容所の最重要人物になっていた。口も開かず、ただおとなしくしているだけなのに、なぜか存在感がある。一度調査に入ったマーゴー大尉は、「ドイツ人の中では最高のタイプ」と評し、彼から放射される何かに引き寄せられるかのように感じたという。連合軍がドイツに進軍するタイミングで、この奇妙な囚人を追って何かに繋がるならという理由で、ベナム大尉は、ネムリングを本部に連行してくるという任務を負うが、連行途上の小駅で彼に逃げられてしまう。その行方は杳として知れなかったが、数週間後、ネムリングは収容所に舞い戻ってくる。
次の語り手は、一度、収容所に調査に入ったマーゴー大尉。ネムリングに別の名前を与え、フランス国内の移動に同行し、彼の秘密を探ろうとする。
とにかく、大きな秘密を抱えて懊悩しているらしいネムリング大尉が異彩を放っており、同行することで、彼に愛情すら感じるマーゴー大尉ならずとも、読み手もこの「奇妙な捕虜」に惹きつけられていく。
語り手交代の技法は、語り手が替わる度に、前の語り手が一種の道具であることを明らかにし、組織の冷徹さを感じさせる効果を挙げているが、一方で、ベナム大尉もマーゴー大尉も組織の論理から離れ、個人の意思で動いている部分もあり、この辺は、個人主義を重んじる英国らしい。
終幕には、中途では予期し難かった意外な真相が待っており、ネムリングから「放射される何か」をはじめ、様々な氷解し、腑に落ちる。この辺は、本格ミステリ作家という一方の顔の発現だろうか。
戦時下、運命に翻弄される一人の人物を調査し、外側から描き出し、その真実に迫る点で、エリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』(1939 ) にも通じる面白さがある。
戦後すぐという大戦の記憶も生々しい時期に執筆され、イギリスの捕虜収容所という珍しい舞台やドイツ軍に国土が蹂躙されいまだ厳戒態勢のフランスの状況、戦死した家族に嘆き悲しむ人々をリアスティックに描き出しているのも、特筆すべきだろう。
■フランク・グルーバー『レザー・デュークの秘密』(論創海外ミステリ)■
おなじみジョニー・フレッチャー&サム・クラッグシリーズの第12作目。論創海外ミステリで紹介が進み、これでシリーズ作品14作中12作が邦訳、マジック2というところまで漕ぎつけた。
貧乏探偵としてはトップクラスの2人がまたしても一文無しに。飯のタネである『だれでもサムスンになれる』という書籍が版元の事務所の家賃滞納トラブルで入手ができなくなってしまったのだ。宿なしで空きっ腹を抱えながら、シカゴの街を歩くジョニーとサムは、初めてカタギの仕事である革工場に就職することになる。コンビを組んで12年一度も雇用されて働く必要がなかった二人だったが、背に腹は代えられない。ところが、勤務初日から工員の殺人事件に遭遇し…。
働いて金を貯めて年をとる頃には仕事をやめられるとなだめるジョニーに対し、「それはおかしな道理だぜ、ジョニー。どうして働くのをやめるために一生働かなきゃならないんだ? せっかく今、働いていないんだから、それでいいじゃないか」とサム。
製靴用の皮製品の分別にすぐ飽き飽きしたサムが一刻も早くクビになろうとするところが愉快で、この会社で39年も働いてきた工場長や副工場長と好対照だ。
改めて思ったのだが、このシリーズ、「フーテンの寅さん」にちょっと似ていないか。食い扶持はテキヤ稼業ならぬパフォーマンスが命のインチキ本のセールス、いつもからっけつで全国を転々とする風来坊だが、人に雇われるわけではなく、自由に生きている。自分の主人は自分なのである。
寅さんといえば欠かせないのはマドンナだが、本作でも、マドンナ候補が二人。一人は、会社の電話交換手で、もう一人は皮会社の社長令嬢。ジョニーは、面接の受付にいってそうそう電話交換手を口説いて、憎からず思わせるのだから、さすがは名うての口八丁ぶり。
口八丁といえば、勤務初日から社長に殺人事件の秘密をほのめかして豪華なディナーを奢らせたり、長年取引が断絶している靴会社に革製品を売り込むというミッションに成功し営業部長の職を提示されたりと不可能を可能にするジョニーのトークは相変わらず健在だ。
そうそう、殺人事件のほうだが、あちこち脱線しているようでいて、ジョニーは、社長から、探偵としての役割を取り付け、周辺から着実に情報を収集していく。情報の収集のために、探偵社を雇うというのは異例だろう。殺人事件の謎を追うという面では、いつになく、かなりすっきりとした筋がとおっており、最終盤では、関係者を一堂に集めて意外な犯人が指摘される。おまけに、マドンナ候補のトラブルも解決してしまうのである。さすが、寅さん並みの安定感。
ラストでは、二人に「吉報」がもたらされる。ジョニーが革会社の営業部長にならなくて本当に良かった。
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◆2023年のクラシック・ミステリ◆
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コロナの猛威も去り、ようやく日常が戻ってきたような2023年。
論創海外ミステリが300冊を超えたのは嬉しいトピック。2004年の刊行開始から19年での達成だが、誰もここまでの叢書になるとは思っていなかっただろう。平均月2回の刊行ペースは守られている。今後とも、読者のニーズにこたえて、是非続いていってほしい。
製作総指揮・山口雅也による「奇想天外の本棚」シリーズ、新潮文庫では海外名作発掘プロジェクト「HIDDEN MASTER PIECES」の刊行が続いている。
扶桑社ミステリーでは、ポール・ケイン『七つの裏切り』、ミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィル『禁じられた館』、ロバート・アーサー『ガラスの橋』、グウェン・ブリストウ&ブルース・マニング『姿なき
プライベートレーベルでは、ヒラヤマ探偵文庫が独自のセレクションで旺盛に古典作を紹介。
岩波文庫から、佐々木徹編訳『英国古典推理小説集』が出たのは何やら感慨深い。今後も是非攻めてほしい。
新たな版元の参入も待ってます。
今年も多くのクラシック作品に出逢えますように。
*掲載月の関係から、一部2022年刊行作を含む。タイトル後の数字は、掲載月。
■古典期■
アン・ラドクリフ『森のロマンス』11 『ユドルフォ城の怪奇』の著者の初邦訳となる18世紀のゴシック・ロマンス。サスペンスたっぷりに進行するストーリーに散りばめられた謎がほぼすべて終幕において回収されるプロットは、探偵小説との類縁を感じさせる。
アーサー・コナン・ドイル/アーサー・モリスン 南陽外史訳述/高木直二編『不思議の探偵/稀代の探偵』ホームズ物とマーチン・ヒューイット物の明治期の翻訳2
アーサー・コナン・ドイル 武田武彦訳・北原尚彦編『名探偵ホームズとワトソン少年』8 武田武彦訳ホームズ譚の集成。
今年もヒラヤマ探偵文庫は、旺盛な刊行が続いた。
ウォーターズ『ある刑事の冒険談』9は、〈クイーンの定員〉の2番にも選ばれた『ある刑事の回想録』の続編。
キャサリン・ルイーザ・パーキス『ラヴデイ・ブルックの事件簿』11は、女性作家による女性探偵の先駆け。プロットも優れている。
ヘンリー・レヴェレージ『囁く電話』6 は、古典的密室トリックを用いた米国1918年作。かつて「新青年」に加藤朝鳥訳で連載され中絶した作品に、平山雄一氏が後半部分を訳し下す。
馬場孤蝶訳『林檎の種』8は、銀行家連続殺人のスリラー。後の調査でエドウィン・ベアードの長編の翻訳と判明。
H・H・クリフォード・ギボンズ『ボンド街の歯科医師事件』6 は、セクストン・ブレイク物の長編。短編一つを収める。
ウィリアム・ル・キュー他『英国犯罪実話集2』8 は、オリジナルアンソロジー『英国犯罪実話集』に続く第2集。
ジェームズ・マルコム・ライマー トマス・ペケット・プレスト『吸血鬼ヴァーニー』4は、〈ペニー・ドレッドフル〉(安価な大衆小説シリーズ)の代表的作品であり、長大な吸血鬼小説の古典の全訳に向けた1巻目。
■黄金期■
A・E・W・メイスン『オパールの囚人』5 特異な題材、形式の先駆性を秘めたアノー物の初完訳。
アーサー・J・リース『叫びの穴』10は、「残された最大の幻本格派作家」による物語性豊かで、フェアプレイに徹した本格ミステリの収穫。
ドロシー・ボワーズ『未来が落とす影』11 黄金時代の探偵小説の醍醐味と新時代を目指すフレッシュネスが同居した巧緻な作。
H・C・ベイリー『ブラックランド、ホワイトランド』2 レジナルド・フォーチュン物長編の初邦訳。
ジョージェット・へイヤー『やかましい遺産争族』 10 は、ハナサイド警視物第3作。英国らしさが香るユーモアミステリ。
グウェン・ブリストウ&ブルース・マニング『姿なき
パトリック・レイン『もしも誰かを殺すなら』12 は、アメリア・レイノルズ・ロングの別名義で、『そして誰も~』型に新味を盛った作。
マシュー・ヘッド『贖いの血』 12 は、人間ドラマの味わいが濃厚な異色の本格ミステリ。
ミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィル『禁じられた館』3 は、奇跡のサルベージをされたフレンチ密室物の秀作。
ジョルジュ・シムノン『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』10 は、初の単行本化。シリーズ屈指の謎解き編といわれる作。
マージェリー・アリンガム『ファラデー家の殺人』9 は、大胆な着想を秘めたアリンガムの謎解き物として屈指の作の完訳。
カーター・ディクスン『五つの箱の死』7 は、脂の乗った時期に書かれた問題作の新訳。テクニックを総動員した意外な真相には驚かされる。
A・A・ミルン『赤屋敷殺人事件』[横溝正史翻訳セレクション]2 も。
関連書で、著名な失踪事件を自由な発想でフィクション化したニーナ・デ・グラモン『アガサ・クリスティー失踪事件』5。
■ポスト黄金期■
コリン・ワトソン『愛の終わりは家庭から』6 プロット、モチーフ、シニカルなユーモアが緊密に結びついた〈ブラックス・バラ〉シリーズの中でも屈指の作。
D・M・ディヴァイン『すり替えられた誘拐』6 作者最後の未訳長編は、作風のモデルチェンジを試みた節もある異色作。
ベルトン・コッブ『善意の代償』2 は、女性警察官潜入物の要素もあるライトな謎解き。
ナイオ・マーシュ『幕が下りて』7 は、アレン警部の夫人アガサ・トロイが活躍する戦後の館物。
ナイオ・マーシュ『闇が迫る』5 は、「マクベス」上演中の殺人を扱った遺作長編。
エドワード・D・ホック『フランケンシュタインの工場』6 は、唯一未訳だったコンピュータ検察局シリーズの長編第3作。『フランケンシュタイン』+『そして誰もいなくなった』に挑んでいる。
クリスチアナ・ブランド『濃霧は危険』3 は、本格ミステリのマエストロによる謎と冒険を愛する少年少女に向けたジュブナイル。
ピエール・ヴェリー『サインはヒバリ パリの少年探偵団』10 は、作者最晩年に書かれた爽快で心優しいジュブナイル。
■ノワール/ハードボイルド/警察小説■
ジム・トンプスン『ゴールデン・ギズモ』9 意図的に通俗パルプ的枠組みを取り入れた異色作。
ドロレス・ヒッチェンズ『はなればなれに』3 ゴダール映画の原作。安手の犯罪を描きながら、オフビートな展開、緩急自在の秀作ノワール。
ロス・トーマス『愚者の街(上下)』6 久しぶりの邦訳だが、腐敗した街の抗争を描き、作家の魅力を詰め込んだ一級品。
ハリー・クルーズ『ゴスペルシンガー』12は、現代のキリストのような扱いを受けるゴスペルシンガーの暗黒の物語。ノワール小説の一つの到達点。
■サスペンス■
ピエール・マッコルラン『真夜中の伝統 夜霧の河岸』8は、2長編に短編を加えた1冊。暗黒をモチーフにした奇妙なフランス作家の小説は、折々ミステリに接近する。
ハーパー・リー『ものまね鳥を殺すのは』7は、名作映画の原作でもあり、ミステリとしても評価されている『アラバマ物語』の新訳。
■スパイ・スリラー■
アルジス・バドリス『誰?』2 アイデンティティを追求する異色SFスパイ・スリラー
ウィンストン・グレアム『罪の壁』2 兄殺しの真相を追う男の旅路。第1回のCWA最優秀長編賞受賞作。論創海外ミステリのウィンストン・グレアム『小さな壁』7と企画がかぶってしまったのは残念。
■ユーモア■
猫への人格移転を描いたA・バークリー名義のコメディ、A・B・コックス『黒猫になった教授』9、P・G・ウッドハウス『ブランディングズ城の救世主』12は、ブランディングズ城サーガの第8作。ウッドハウス愛好者に人気が高いフレッド伯父さん大暴れ。
■短編集■
佐々木徹編訳『英国古典推理小説集』4 岩波文庫から出た古典傑作集。英国最初の長編推理小説といわれる『ノッティング・ヒルの謎』に注目。
イーデン・フィルボッツ『孔雀屋敷: フィルポッツ傑作短編集』12 多面体作家の魅力が詰まった短編集。
伝説の作家による殿堂入りハードボイルド短編集、ポール・ケイン『七つの裏切り』2
ロバート・アーサー『ガラスの橋』7は、本格ミステリ、クライムストーリーにも長けた名手の遊び心に満ちた短編集。
フレドリック・ブラウン『死の10パーセント』10は、まさかの創元第3短編集。様々な傾向の作品が集められクオリティも高い。
レックス・スタウト『ネロ・ウルフの災難 激怒編』3は、ウルフ物3作を収録したオリジナル中編集。
P・A・テイラー『アゼイ・メイヨと三つの事件』12は、リゾート地ケープコッドの名探偵アゼイ・メイヨ物の三編収録。
■評論その他■
サリー・クライン『アフター・アガサ・クリスティー 犯罪小説を書き継ぐ女性作家たち』8。クリスティー以降の女性ミステリを概観。現代の女性ミステリ作品の百花繚乱を伝える。
越前敏弥『名作ミステリで学ぶ英文読解』7 。「ハヤカワ新書」の001号本。エラリイ・クイーン『Yの悲劇』、アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』等を取り上げる。名作鑑賞にも役立つ一冊。
飯城勇三『密室ミステリガイド』7。トリックを明かして解説している点が特徴で、新しい評価軸に基づく評価を提示。
麻田実『舞台上の殺人現場』11。ベテランテレビ制作者が、ミステリ演劇の魅力を語る。
■2023年極私的ベスト10 +α■
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 ■note: https://note.com/s_narita35/ |