■ジェイムズ・ホッグ『義とされた罪人の手記と告白』(白水Uブックス)■

 
 かつて国書刊行会から刊行されていた『悪の誘惑』の新版改題版である。元本(1980)の訳者 (高橋和久) 解説では、「従来不当に無視されてきたゴシック・ロマンスの中でもこの『義とされた罪人つみびとの手記と告白』(一八二四) は語られることの最も少なかったもののひとつである」と記されているが、新装版 (2012)の訳者あとがきでは、英国の大手書店が1998年に実施した読者の選ぶスコットランド文学という企画で、この作品が第3位にランクインした旨が報告されていることでも、20世紀末の本書の急速な評価の高まりが判ろうというものである。

 17世紀末のスコットランド、領主コルヴァンの結婚は、信仰心の薄い領主と厳格な宗教観の持ち主の妻との間で最初から破綻していた。二人の息子は、両親の不和により別々に育てられた。明朗快活な兄ジョージと、厳格な母親のもとで宗教的狂熱の虜となった弟ロバート。エディンバラで出逢った兄弟の確執は、恐ろしい悲劇を生む。

 本書を評して、バタイユの「怪物じみた小説」という言があるそうだが、内容・形式ともにまさに「怪物性」を感じさせる。
 内容については、宗教的狂熱、分身ダブル、そして悪魔(あるいは悪)といったテーマが存分に描かれる。

 養父の牧師によって植えつけられたロバートの信仰は、端的に言ってしまえば、神によって義とされた人間はどんな行為でも許される、神を敬わぬ者は殺してもいい、というもの。これは、当時、揶揄を含めて、スコットランドにおける信仰の厳格派の立場を推し進めたものともみえるが、こうした宗教的狂熱により、弟ロバートは兄ジョージを奸計を用いて殺害する。宗教を独自の思想や国家に置き換えてみれば、『罪と罰』『内なる殺人者』の主人公や、現実のナチスの大量殺人等を想起させもする。ロバートは現代の悪を先取りした存在なのだ。
 分身ダブルは、兄ジョージと弟ロバートとの関係にも表れているともいえるが、より明らかに、ロバートに影のようにまとわりつく若者の存在がある。時々の考えや気持ちに応じて顔を変えることができ、顔つきを変えると本人の思想や考え方までできるようになるという不思議な男だ。ロバートは若者をどこかの外国の帝王と思い込み、友人になるが、彼は次第にロバートを教導する存在になり、ついには殺人をも唆す。明らかに、若者はロバートの悪の部分を象徴する「分身」ととれる(「我々の存在は言ってみれば溶け合ってひとつに合体している」)が、このテーマはよりクリアな形で同じくスコットランド作家のスティーヴンスン『ジキル博士とハイド氏』(1886) 等に受け継がれているようにみえる。この友人が次第に厭わしくなったロバートは、最後には、その存在から逃れることのみを念じる。
 この友人は、「悪魔」としか考えられないが、逃避行を続けるロバートの行方を追って、各地の寝泊まり先に現れ、その際に起こす、超自然的怪異の描写は迫力満点。本書のホラーとしての読みどころでもある。
 一方で、この悪魔、登場時点で、「聖書」を読んでいるというのが可笑しい。ロバートが「聖書ですか」と尋ねると、「わたしの聖書」ですという答えには怖くなるが。
 ロバートが逃避行のさなか、印刷所に職を見出し、本記録をパンフレットにして印刷するが、悪魔が印刷を手伝うといったくだりや、悪魔の支配から町を救った百姓の逸話などにも作者独特のユーモアの感覚を感じさせる。
 本書では、このように宗教的狂熱、分身ダブル、そして悪魔(あるいは悪)といったテーマが、裏と表がつながるメビウスの輪の如く結びついている。
 若きロバートの悪の資質を見抜くバーネット老人をはじめ、使用人階級や庶民の方が真実を見抜く力をもっている点は、著者の認識でもあろう。 
 他方、形式の面での怪物性とは。
 本書は三部構成となっている。最初が「編者が語る」、次が「罪人の手記と告白」、最後が「再び編者」。冒頭の「編者が語る」は、口承を基に150年ほど前の殺人事件の顛末を描いている。後半では、領主コルヴァンの愛人だったミセス・ローガンがジョージ殺人事件の真相を求め、奔走するストーリーが進行し、探索小説的な面白さがある。「罪人の手記と告白」は、表面から描かれたストーリーを裏からなぞるように、罪人ロバートの手記による経緯の告白がされている。ロバートを唆す「悪魔」の存在が明らかにされるのは、このパートだ。ミステリになぞらえれば、「編者が語る」が通常のミステリ、「告白」は倒叙編といえるだろうか。「再び編者」よりはエピローグ的部分で「告白」発見の経緯が書かれている。
 「編者が語る」と「「罪人の手記と告白」はテキスト面での分身ダブルともいうべき存在だが、書かれている事実が食い違うのである。前者で、兄ジョージが弟ロバートをやっつけたくだりを後者では逆に書いているような部分はロバートの虚栄心の表れととれるが、前者では出てこないロバートの母親殺し、若い娘殺しの罪(二つの死骸も川底から出てくる) で、ロバートは追われるのだ。これは一体どういうことだろうか。告白自体が一種の妄想なのだろうか。それとも語り手の数だけ真実があるという真実の不確定性を表しているのか。あるいは、「美は乱調にあり」を実践しているのだろうか。「再び編者」で読者はテキスト間の食い違いの説明を期待するが、編者の不思議なミイラ採掘と「告白」発見の経緯を語るばかり。そして、驚くべきことに、このパートには、編者とは別人の作者ジェイムズ・ホッグまで登場するのだ。ここにも分身ダブル!
本書は、分身ダブルというテーマが、叙述の形式、そして著者自身に浸食するように、小説全体を覆っていく恐るべきテキストだ。そして、真実は永遠に宙吊りにされる。「内容」のメビウスの輪は、「形式」によって切断され、空無に解放されるのだ。本書が早過ぎたポストモダン小説といわれるのも、了解できる。
 フォークロアの風味と独特のユーモア感覚も交えながら、先鋭的なテーマ性と語りの形式が魔術的にまで結びついた19世紀の異形のテキストは、今なお新しい戦慄と快楽を呼ぶ現代に生きる古典だ。

■ヒュー・コンウェイ『コールド・バック』(論創社)■


 ヒュー・コンウェイは、2021年に『ダーク・デイズ』(1884) が紹介されたホームズ前夜の英国の作家。ウィルキー・コリンズの後継者と目されながら、37歳で夭折、遺した長編は5作と少ない。『ダーク・デイズ』は、数々のミステリ翻案を行った黒岩涙香が最初に手掛けたミステリ翻案『法廷の美人』(原著は『法庭の美人』表記 ) (1888) の原作であり、コンウェイは我が国のミステリ受容にも影響を及ぼしている作家だ。
 本書『コールド・バック』(1883) は、著者のデビュー作で、次作の『ダーク・デイズ』とともに、本国でベストセラーになったという。
 
 本書は、主人公の青年ギルパート・ヴォーンの手記の体裁で書かれている。
 ギルパートは、白内障を患い、盲目になった経験があり、そのときに恐ろしい体験をしている。誤って自宅と思って入った部屋で、一人の男が殺害される現場に遭遇してしまうのだ。盲目であることで解放されるが、事件の記憶に彼はさいなまれる。
 彼の眼は後に手術により治癒し、イタリア旅行に出かけたとき、トリノの街で、美しい女性をみかけて一目で恋に落ちる。英国での偶然の再会を機に、同じ下宿に住むなど策を弄して、結婚に漕ぎつけるが、彼女は、実は、昔の記憶がなく、感情を失ったような女性だった。さらに、彼女はさきの殺人事件の現場にいた人間であることを知る。それでも、彼女を一途に愛するギルパートは、今は政治犯としてシベリアに送られている彼女の伯父から真実を聞きだすために、遥かなる旅に出る。
 青年の回想録である点、異国の美女に一目ぼれする点、美女の記憶喪失が謎の核である点、純愛が青年の行動の動機となる点など、『ダーク・デイズ』と共通点が散見する。物語の進行がストレートで、登場人物も少数のシンプルな点で、コリンズ流の小説を脱した現代性でも両作は共通する。
 全体としては、ロマンティックなサスペンスというところで、謎解きの興味は薄く (シベリア送りとなっている伯父の語りでほとんどの謎が氷解する)、作品の出来では、後続の『ダーク・デイズ』に一日の長があるが、原著は累計25万部のベストセラーになったというだけあって、当時の読者に訴えかける要素をいくつももっている小説でもある。
 盲目の主人公が人殺しの現場に遭遇するというショッキングな場面、記憶喪失で感情を失った美女、殺人の起きた部屋での超自然的な幻視体験、イタリア統一のみならず国を超えて共和制のために手段を選ばない闘士たち(策謀家と呼ばれている)、遥かシベリアへの旅。特に、足に鎖をかけ、徒歩でシベリアに向かう囚人たちの置かれた劣悪酸鼻極まる状況は、当時の読者にとっては、未知の地のルポルタージュのように映ったのではないだろうか。
 法的には妻にはなったが、彼女の愛を勝ち得るまでは手出しはしないという主人公の態度はいかにも英国紳士で、現代からみるとその後の懊悩も仰々しいと映る面もあるが (シベリア行きの主たる目的が妻の純潔の確認とあってはなおさら)、純愛に生きる男の姿は、クラシカルな情緒を感じさせる。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
ツイッターアカウントは @stranglenarita
note: https://note.com/s_narita35/


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