■エドマンド・クリスピン『列をなす棺』 (論創海外ミステリ)■
エドマンド・クリスピン『列をなす棺』(1950) は、長らく未訳のまま残されていた2冊のうちの一冊。『消えた玩具屋』(1946)『お楽しみの埋葬』(1948) 等のジャーヴァス・フェン教授物に再会できるとは、楽しみにしていたファンも多いことだろう。
今回の事件は、フェン教授が議員に立候補するという騒動が印象深い『お楽しみの埋葬』に続くもの。
17世紀詩人アレキサンダー・ポープの伝記映画を企画中の撮影所が舞台。クリスピン特有のファルス要素の少ない異色作という評価があるようだが、ドタバタ喜劇的な展開はないものの、クリスピン節といいたいようなひねったユーモアとウィットに富む人間観察、文学マニア的な楽しいお喋りは健在。じっくり読ませて、愉しい時間を約束するそんな一冊だ。
オックスフォードの英文学教授であるフェンは、文学的アドバイザーとして映画の制作に参加している。たまたま『お楽しみの埋葬』事件でも一緒だったハンブルビー警部と再会する。警部は、グロリアという娘の自殺事件の捜査で映画撮影所を訪れたのだった。二人は、映画の企画会議に参加するが、その席で自殺した娘と関係があったと目されるカメラマンが毒死する。フェン教授は、続く犯行を予見するが。
ひねったユーモアという点でいえば、映画の企画そのものがおかしい。ハンブルビーは、伝記映画の主人公ポープという人物が誰か判らず、詩人のことだと知って、「ポープの人生には、商業映画になるような材料は無いでしょう」とフェンにいう。そんな映画がつくられることになったのは、いかれた文学マニアの男が相続によって会社の新社長になったからだ。この新社長、実在の貴族がシェークスピアの戯曲を書いたり、エミリー・ブロンテ『嵐ケ丘』の背景にはエミリーと兄のブラムウェルの近親相姦があると信じている文学的妄想家。新社長は、本書のタイトルにもなっているポープの詩の一節から実在しないロマンスを妄想して映画化に及んだのだ。妄想から多数の関係者を集める映画が企画され、発想の基になった詩を現実化するような殺人が起こる。行動ではなく、思考のドタバタ、思考のファルスといった事態が繰り広げられているのだ。
映画撮影所を舞台にしている点では、クリスピンが私淑していたカーの『かくして殺人へ』(1940) を思わせるが、クリスピンは本業として映画音楽を手掛けていたことから、撮影所や映画人士の描き方は、一日の長がある。映画音楽の作曲家がこんな音楽で自分を判断しないでほしいというと、「あなた方のうちの誰かが、自分の最高傑作は映画音楽だと認める日が来たら、音楽部は一週間休みを取って、ぐでんぐでんになってお祝いするでしょうね」と音楽部の職員がいうところなどは、いかにも現場体験を基にしていそうだ。
恐喝者でもある私立探偵を描いた皮肉でビターな箇所や、撮影所の女性職員が殺人犯を追って巨大な迷路に迷い込んだ場面のサスペンスといった見所も多い。
そして、フーダニットとしては-。意想外な犯人を特定するロジックは短編ネタかもしれないが、すっきりしているし、決定的な手がかりが公然と書かれているのも嬉しい。
復讐を題材にしているせいもあって (ポープの詩の一節である『列なす棺』とは、一族郎党への復讐を意味している) いささか陰鬱な雰囲気であることは否めないが、捜査の進展に連れ、周囲から嫌われていた自殺女性の真の姿が明瞭に浮かび上がってくるところは、心に残る。ファルスの中に、人生の苦みも命への悼みも隠し味としてもっていることが、本作の魅力でもある。
残るは、『The Glimpses of the Moon』(1977) 一冊のみ。X (旧ツイッター) 情報では、論創海外ミステリでは難しいようだが、どこかの心ある出版社、よろしくお願いします。
■ヴァレンタイン・ウィリアムズ『海老足男との対決』(ヒラヤマ探偵文庫)■
ヒラヤマ探偵文庫の新刊は、「アガサ・クリスティ愛誦探偵小説集1」の副題が付されている。アガサ・クリスティ『二人で探偵を』(別題『おしどり探偵』) (1929) は、トミーとタッペンスの新婚夫婦が探偵役を務める連作だが、当時知名度が高かった紙上の名探偵の名前が続々出て、その探偵方法を真似るというパロディの要素もある楽しい作品で、クリスティの深いミステリ愛も感じさせる一冊だった。パロディ化される人物の中には、日本の読者には耳慣れないキャラクターも登場していた。
このシリーズは、『二人で探偵を』で取り上げられていても、日本の読者にとっては馴染みのないキャラクターが登場する未訳作を紹介していこうという企画。この企画は、東京創元社の編集者だった戸川安宣氏の示唆によるものであると、訳者解説には書かれている。本書の解説も務めている戸川氏は、実は、1972年発行の創元推理文庫版『二人で探偵を』は、戸川氏の入社一年目の仕事だったと明かしている。その解説 (ノート) も戸川氏の仕事で、既知・未知のキャラクターが詳細に紹介されていく解説には、当時の筆者のような年少の読者にとっては、ミステリ熱に拍車をかける効果があったように思う(今は、新訳版に代られている)。
その創元推理文庫版『二人で探偵を』発刊から、半世紀のときを経て、未知のキャラクターが紹介されていくというのは、「最後に愛は勝つ」とでもいいたいような感慨が押し寄せてくる。
特に強く印象に残ったのは、〈海老足男〉という未知の悪役キャラだった。この海老足男シリーズで、探偵役 (というか善玉) を務めるのが、英国人のフランシスとデズモンドのオークウッド兄弟。悪役の方が有名という点では、サックス・ローマーの創造による探偵役のネイランド・スミスより、フー・マンチューの方が遥かに有名な例に類似するだろうか。
といっても、この〈海老足男〉ことアドルフ・グルント博士は、この第一作を読む限り、世界征服をたくらむフー・マンチューよりははるかに現実的なキャラクターである。彼は巨体のドイツ人だが、公式的には何者でもない。しかし、裏の世界では、陰謀を企てたりスパイを働いたりするドイツ皇帝直属の手先であり、帝国の影の実力者。足首に障害をもっていることから、この名で呼ばれている。
物語は、第一次大戦のさなか、秘密任務のためにドイツで行方不明になった兄 (フランシス) を追って、ドイツ帝国に潜入した弟 (デズモンド) を主人公とした冒険スリラー。
〈海老足男〉との対決がメインではあるが、全体としては、不屈の闘志をもつ主人公が様々な困難を克服し任務を遂行するという英国伝統の冒険小説として、かなり面白い。交戦中のため一般人が潜入困難なドイツ帝国を舞台にしている点がミソで、ドイツ語に堪能で、幸運にもドイツ秘密警察のバッジを入手した主人公としても兄探しは難事業だ。偶然にドイツ皇帝の秘密文書を手にしたデズモンドは、皇帝に直接面会もするが、帝国中を追われる身となり、逃亡と潜伏の繰り返しを余儀なくされる。悪の巣窟の酒場でウェイターとして過ごすなど、エピソードの細部も面白い。周囲のすべてが敵という状況で孤軍奮闘する活劇の面白さは、後の二次大戦前夜を舞台にした秀作ジェフリー・ハウスホールド『追われる男』(1939) を想起させるところもある。冒険の過程に、かつての兄の恋人で今はドイツ軍人と結婚している女性が重要な役回りになっているところは、大甘かもしれないが。
〈海老足男〉との対決シーンという見せ場は何度かあるが、紳士的言辞やふるまいにもかかわらず、残忍さが隠せないキャラクターの薄気味悪さはよく出ている。
ラブロマンスの香りもある娯楽冒険小説ながら、戦下にある当時のドイツの食糧の窮乏や水をも漏らさぬ国内統治の実態がよく描かれており、報道員として、ベルリンにも駐在したことのある著者のキャリアが十分に反映された小説でもある。
それにしても、〈海老足男〉の名が、執筆当時まだ一兵卒に過ぎず、後にドイツに君臨する男と同じ〈アドルフ〉というのは、気になる暗合ではある。
■コナン・ドイル『ササッサ谷の怪』(中公文庫)■
本書は、1982年~83年にコナン・ドイル未紹介作品集として中央公論社C★NOVELSから小池滋監訳で出版された『ササッサ谷の怪』『真夜中の客』『最後の手段』の三冊を底本として、選定、採録したもの。現在、読むことのできる作者のホームズ物以外の短編を集めた新潮文庫『ドイル傑作集』全三巻、創元推理文庫『ドイル傑作集』全五巻との重複を避けたとのことで、幻のデビュー作「ササッサ谷の怪」(1879) や最後の小説「最後の手段」(1930)を含むレア作品を集めたものといえるだろう。全14編収録。
まず、見逃せないのはドイルの大学時代20歳のデビュー作「ササッサ谷の怪」。
南アフリカのササッサ谷に出現する赤い一つ目の幽霊の正体は、という話。不可解な現象から謎解きへという探偵小説の構造が早くも垣間見える作品。しかも、主人公の探偵役だけが謎を解決しており、周囲の人間には秘密にしているという「じれったさ」を感じさせる技法や一度解決に失敗し再チャレンジする趣向なども取り入れられている。ドイルがデビュー作からミステリ作家の資質を持ち合わせていたことが了解できる作品。
「ササッサ谷の怪」もそうだが、「アメリカ人の話」「退役軍人の話」「辻馬車屋の話-ロンドン四輪辻馬車屋の奇妙な経験」は、いずれも特異な体験をした人間からの聞き書きの体裁。本書の副題「コナン・ドイル奇譚集」にふさわしいが、思えば、ホームズ譚も特異な体験をした(している)依頼人の語る奇譚の謎を解く話であり、ドイルの他の作品と地続きなのだ。
「幽霊選び-ゴアズソープ屋敷の幽霊」は、大邸宅を買った男が、幽霊が住んでいないことに失望し、業者に幽霊の斡旋を依頼するという、コミカルな作品。ドイルがこういう奇想コメディのような作品も書いたという見本だろう。
「ハンプシャー州の淋しい家」は、善良でもないが悪党というわけでもない老年の男が旅人を家に泊め、大金をもっていると知るや、殺しを決意する。男が次第に殺意をもっていく過程がスリリングであり、猛烈に反対する妻との対比もドラマを生んでいる。意外な結末が待っている。
「エヴァンジェリン号の運命」は、繋留していたヨットが沖へ流されて一人残っていた若い女性が行方不明になってしまう謎。しかも流されている船には、いるはずのない男の姿が目撃されていた。探偵役がいるわけではないが、最初に謎の事件という奇譚を提示し、事件へ至る真実、もう一つの奇譚を明かすという構造は、明らかに探偵小説に近い。
ホームズの有名な台詞、「ありえないものをひとつひとつ消していけば、残ったものがどんなにありそうにないことでも真実である」(日暮雅通訳) とほぼ同様の言葉が、本作では、ポーの作中のオーギュスト・デュパンの言葉として紹介されているのも大変興味深い。
「真夜中の客」は、孤島への謎の訪問者に関わる奇譚。元医学生の青年が語り手だが、父親が男の正体を知るや、殺意が沸き起こるところが、「ハンプシャー州の淋しい家」に似ている。この二作、家族の扱いにも共通点があり、結末などをみると、この元医学生は、ドイルの精神的自画像のようでもある。
「やりきれない話」は、アルコール依存症のダメ夫をもち、洋裁で生計を立てるけなげな夫人の話。こちらは、よりドイルの両親の肖像に近いようだ。
「連隊のスキャンダル」は、連帯で誰もが尊敬する少佐はなぜトランプでいかさまをしたのか。こちらも意外性のある結末が待っている。
「
「死の航海」は、第一次大戦終末時にドイツ皇帝が亡命せずに、海軍を統率し英国に徹底抗戦していたら、という一種の架空戦記。
「教区雑誌」は、印刷屋が巻き込まれたスキャンダル大騒動。悪意ある告発が雲なす、スラブスティック編。
「最後の手段」行政も警察も悪党に牛耳られ腐敗しきった米国の街で、街の浄化を図る市民が最後に取った手段とは。ドイル版『赤い収穫』ともいえる内容だが、その手段には驚かされる。作家のパンク精神というか、「教区雑誌」ともども老境の融通無碍な境地が窺える。作者の最後の小説。
日本の「傑作集」からは外れていた作品群だが、バラエティに富み、ホームズ譚との関連やドイルの実人生との関連も多々。年代順に並べられていることで、作者の小説技術の進歩も窺える。ホームズ譚もドイルの広大な物語世界の一部であることを実感させる短編集だ。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 ■note: https://note.com/s_narita35/ |