原書房ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ約3年半ぶりの刊行だ。帯には、スチュアート・パーマー、パトリック・クェンティン、クレイグ・ライスなどの新ラインナップも掲げられており、クラシックミステリ戦線もますます賑やかなものとなりそうだ。

 しかも、再始動第一弾は、バークリー『服用禁止』

 バークリーは、黄金時代のミステリ作家として最重要の位置を占める一人といってもいいだろう。

 批評精神あふれる洒脱なミステリから出発し、1929年から30年にかけては、多重解決物の頂点といってもいい『毒入りチョコレート事件』『第二の銃声』といった本格ミステリの傑作を書き上げる。さらに、1931年、32年には、アイルズ名義で『殺意』『レディに捧げる殺人物語』と、犯罪心理小説の古典の地位を占める作品を連打。

 失敗する名探偵というユニークな存在、ロジャー・シェリンガムは、あらゆるルールを破ったと作者が豪語する最終作『パニック・パーティ』(1934)では、探偵行為すら放棄してしまうという破格ぶり。

 1937年には、本格ミステリと犯罪心理小説の流れを止揚したとも評される傑作『試行錯誤』を刊行、1939年、奇妙な崩壊感覚に満ちたトラジコメディ『被告の女性に関しては』を刊行の後、長編の筆を折ってしまう。

 ミステリ作法の創造的破壊を繰り返し、作家生活十有余年でミステリ史を体現してしまったともいえる特別な存在がバークリーなのだ。

 本書に関しては、1938年という刊行時期が重要だ。『パニック・パーティ』や『試行錯誤』の先に、どんなミステリが可能なのか。おまけに本書は、クイーンばりに読者への挑戦状入りだという。作者は、一体何を狙ってくるのか。

 筆者としては、ここ数年来にない期待と緊張感をもって臨んだ一戦となった。

 物語は、翳りを帯びた調子の、男の一人称で幕を開ける。

 この一人称という形式、初手から不穏であると思ってしまうのは、ファンの性か。

「わたし」は、田舎住まいの果樹園主。隣家には、村の人々から尊敬を集める引退した電気技師が住んでいたが、ある日、突然の死を遂げる。当初は、自然死と診断されるが、故人の弟の疑惑により解剖に付された結果、死体からは砒素が検出される。果たして、事故か自殺か殺人か。検死尋問が進むにつれ、関係者たちの意外な素顔が明らかになっていく。

 ある理由から、故人が直前に飲んだ薬を語り手夫婦が隠匿するという設定がうまいところで、語り手も事件の当事者として巻き込まれざるを得なくなる。この辺は、『ジャンピング・ジェニイ』におけるシェリンガムのちょっとした行動が事件に混乱をもたらす構図を想起させる。

 本書には、過去のバークリー/アイルズ印が続々出現する。『ウィッチフォード毒殺事件』、『毒入りチョコレート事件』のような毒死にまつわる解釈の変遷、夫婦と愛人の三角関係、現実の犯罪事件への言及、殺人の正当性の議論などなど。検死尋問の幕間ではユーモラスな味付けもある。次々と登場人物たちの秘密が露見し、事件がさらに混沌としていく中盤以降のねじりあい、そして、読者への挑戦。

 「わたし」は、第6章で、記述者が最初から事件の渦中にいること、探偵役がいないことを挙げ、自らの手記が普通の探偵小説の叙述と異なることを強調している。作品の狙いの一つには、巻き込まれ型の本格ミステリの提示ということがあったのではないかとも推測されるが、「わたし」の性格については十分な書込みがみられず、挑戦小説という構えと、必ずしも整合的なものにはなっていない。

 革新的なミステリ作法への期待とは少し違うものだったが、本書の最終章は、十分に満足のいくものだった。複数の偽の解決を波状的に炸裂させた後に、もたらされる真相の意外性。真相に至る手がかり配置の大胆さ、巧妙さ。敵の投了ならぬ投了になるのも、ひねくれている。盤面のフェアプレイの向こう側に作者の不敵な笑みがみえる。

 バークリーはバークリーだった。局後の一服は、爽快だ。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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