書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」、三月の更新はたぶん下旬になると思います。それまでは二月の動画をご覧いただけると幸いです。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

酒井貞道

『夕陽の道を北へゆけ』ジャーニン・カミンズ/宇佐川晶子訳

早川書房

 ロード・ノベルである。ロード・ノベルというと、未来への希望とか、精神的な癒しや解放をイメージしてしまうが、この物語で描かれるのは「現実」だ。冒頭で家族16人を皆殺しにされて、ただ二人たまたま助かった主人公母子は、マフィアから逃げるため、アメリカを目指す。要は移民・難民となることを決めたわけであり、その道中はマフィアの影に怯える緊張感や不安感の強いものだ。
 本書が通常のロード・ノベルと決定的に異なるのは、道中で出会う主要人物もまた、難民・移民となるべくアメリカ国境を目指す人だ、という点である。彼らもまた、救い難き現実を背負っており、社会の暗部に直面させられている。母国を捨てて逃げるしかなくなった人々の過酷な現実が、瑞々しい筆致で鮮やかに描かれている。心理描写が極めて繊細なのも効果を倍加。本書のカバーそでには、「(前略)者たちの希望を描いた」との一節がある。まあ確かに間違いではない希望はあるし、それが後味の意外な良さにも繋がっている。だが、希望がなくても、私が本書に抱いた印象にはあまり影響がなかったようにも思う。素晴らしい小説。じっくり読むべき小説。おすすめです。

 

川出正樹

『刑事ヴィスティング カタリーナ・コード』ヨルン・リーエル・ホルスト/中谷友紀子訳

小学館文庫

 

 二月は小学館文庫から刊行された二冊の中、どちらにするか悩んだ。いずれも失踪事件ものの秀作だ。忽然と姿を消したまま杳として行方の知れない女性の身に一体何が起きたのか? 長い年月を経た後に新たに見つかった思わぬ手掛かりが、失意と悔恨の日々を送っていた関係者の人生をいやおうなしに動かし始める。

 片や日本初登場となるポーランドのベストセラー作家レミギエシュ・ムルスによる『あの日に消えたエヴァ』。片や『猟犬』で〈ガラスの鍵賞〉を始め三冠に輝いたノルウェー人作家ヨルン・リーエル・ホルストによる『警部ヴィスティング カタリーナ・コード』。前者は、シンプルな謎と複雑な計画が表裏一体となった、走りながら考えるノンストップ・サスペンス――ただし、あまりに意外な展開に思わずつんのめりそうになることしばし。後者は、外連を廃したシンプルな謎を?みしめるように味わいたい警察小説で、関係者を限り、大きな仕掛けを施さず、 真相に向かって地道に歩みを進めていく。

 迷った末に後者を一押しにするのは、この地道な捜査部分が圧倒的に読ませるからだ。主人公のヴィスティング警部は、二十四年間にわたって、失踪したカタリーナの夫と親交を持ち続けてきた。ある種の友情にも似た思いを抱いてきた相手を被疑者とし、真意を隠したまま真相を探らなくてはならなくなったヴィスティング。静かに、されど徐々に緊迫感を増す展開から目を離せず、じっくりと読み耽ってしまった。ミステリ的には、タイトルにもなっている失踪当時にカタリーナが残していった暗号を解明するためのさり気なくも大胆な伏線の張り方が見事。北欧の警察小説全般に言えることですが、ヒラリー・ウォーの妙味を取りわけ強く味わえる逸品だ。

 

千街晶之

『刑事ヴィスティング カタリーナ・コード』ヨルン・リーエル・ホルスト/中谷友紀子訳

小学館文庫

 現代ミステリらしいスピーディーな展開、アクション、派手などんでん返し……そういったものをこの作品に求めてはいけない。主人公ヴィスティング警部は猟犬をけしかけて犯人を狩り立てるのではなく、静まり返った水面に釣り糸を下ろし、獲物が引っかかるのを気長に待つタイプだ(二十年以上前に起きた事件だからということもあるが)。容疑者との腹の探り合いも展開されるけれども、名探偵対天才犯罪者の丁々発止と火花を散らす心理戦という印象ではなく、むしろ警部と容疑者のあいだには共感めいたものさえある。にもかかわらず、静かな緊迫感は途切れることがない。年間ベスト候補として騒がれるタイプの作品ではないと思うが、とても滋味に溢れた、いい小説を読んだという余韻が残る。

 

霜月蒼

『チェリー』ニコ・ウォーカー/黒原敏行訳

文藝春秋

 ぎりぎりまで『ザ・チェーン 連鎖誘拐』と迷った。饒舌気味なアイルランドの警察小説を書いていたエイドリアン・マッキンティがアメリカ式のアドレナリン駆動型ジェットコースター・スリラーを見事に書いてみせたのには驚いた。疾走感がすばらしく、犯罪のアイデアと手口のおもしろさは、この種のスリラーの中でも抜群だと思う。必読。

 だけど『チェリー』を推す。こちらはプロットに目をみはるような小説ではない。大学生が兵士になってイラクに行って帰ってきてドン底の生活に落ちて銀行強盗になる、というのを軽薄な一人称と会話で語るだけだ。なのだけれど、軽薄な皮膜の下にある何か切実なものが、このダメ男を切り捨てられない心持ちを僕に抱かせてしまう。ふわっとした悲しみみたいなものを抱かせてしまう。エドワード・バンカーの『ストレートタイム』を思い出したが、あちらと違うのは、「中学のとき割と仲がよかった気のいいあいつ」が強盗になってしまったことを聞かされるみたいな身近感があることだろう。今どきの小利口な小説の対局にある粗野さも魅力だった。

 

北上次郎

『ザ・チェーン 連鎖誘拐』エイドリアン・マッキンティ/鈴木恵訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 あまり好きじゃない話だ。たとえば、物語の後半に、船の上のくだりが出てくる。物語の背景が見えてきて、途端に不気味さがなくなって、なんだかなあと思っていたところなので、つい油断してしまった。そこにあの場面だ。未読の方がいるといけないので、これ以上詳しくは書かないが、淡々と描いているだけに余計に不気味さが際立つ。勘弁して欲しいのだ、こういうの。ただし、読ませる力は認めなければいけないので、今月の推薦作にしておく。

 

吉野仁

『ザ・チェーン 連鎖誘拐』エイドリアン・マッキンティ/鈴木恵訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 やはり今月はこれしかない。誘拐犯罪ものの新機軸にとどまらず、序盤から興奮を覚え、その先は一気に読むしか選択のない展開の面白さ。強烈なサスペンスを生み出すための凝った仕掛けやプロットの練り込みが入念になされているのだ。最後の方でわずかな不自然さも感じたものの、これだけ愉しませてくれれば申し分ない。そのほか、ジャニーン・カミンズ『夕陽の道を北へゆけ』も読みごたえたっぷりのロード・ノヴェル。メキシコを舞台とし、母が息子を連れてアメリカまで必死の逃亡とサバイバルを続ける大作で、神に祈りたくなるような場面の連続だった。ニコ・ウォーカー『チェリー』は、とくにイラクの戦地における場面の描き方──なにか人ごとのように出来事を見ていたり、正しく記憶できていなかったりする描写──が強く印象に残った。耐えきれない現実に直面し、心がまともに働かない主人公がそこにおり、形容の難しい感情がいくつも胸に残る青春小説なのだ。

 

杉江松恋

『刑事ヴィスティング カタリーナ・コード』ヨルン・リーエル・ホルスト/中谷友紀子訳

小学館文庫

 やっとこの小説のことが書ける。初めて言及したのは三ヶ月前だ。文庫解説を担当したので、厳密に言うと読んだのは三ヶ月前なのである。どうしてあんなに〆切が早かったんだろう。もしかして乙すぎるサバを読まれたんだろうか。初読が三ヶ月前だから「その月に読んだ中から」という七福神のルールからは外れていると思われるかもしれないが、大丈夫だ。本が出てからまた先月読んだのである。これで三度目だ。読んでよかった。やっぱりこの小説が好きだと認識を新たにしたからである。そうだよ、こういう小説が好きなの。

 話はものすごく単純で、いくつかの二択があるだけの構造になっている。やったのか、やらなかったのか。その人物なのか、違うのか。本当に単純。途中でコマンド入力が一回しか出てこないゲームノヴェルみたいというか。それまで、ふんふんと読んでいると、ある瞬間に一回だけ驚くような選択肢が呈示されるのである。え、その選択肢が出てくるとは思わなかった、とびっくりして、あまりに驚いたからその周辺の十数ページだけ何回かまた読んだ。こういう書き方をすると読者は驚くのか。というか、私はこういう書き方をされると驚くのか。勉強になった。すべてのミステリー作家がこういう風に書いてくれればいいのにな、と思った。お願いします。

 ここまでまったくあらすじについて書いてないが、きっと誰かが挙げてくれていると思うからもういいことにする。しかしあまりにも不親切だという気がするので、要素だけは書いておく。警察小説で、過去の事件を扱っていて、変な暗号が出てくる。あと、刑事の娘がジャーナリストで活躍する。そのくらい。あらすじになっていないが、気にしない。もうちょっと説明すると、私はこういう風にミステリーとしての肝の部分が一口で言えてしまう(しかしそれを言うと一発でネタばらしになってしまう)小説が好きなのだと思う。決して地味だから好きなのではないですよ。いや、地味な部分も滋味があって好きだけど。淡々と進めておいてあそこであれがくるからなあ、と感慨に耽りつつ、もう一回当該箇所に目を通してくることにする。ちなみに次点はエイドリアン・マッキンティ『ザ・チェーン 連鎖誘拐』だ。こちらも解説を担当した本なのだが、本当にいい犯罪小説なので許してもらいたい。語り口が無責任すぎて中原昌也をちょっと連想した『チェリー』は時間切れで読み終えられなかった。これもすごく好きなのではないかという気がする。

 

思いのほか言及された作品が集中した二月でした。小味な警察小説と派手な誘拐小説、そしてロード・ノヴェルという組み合わせはなかなかバラエティがあっていいですね。さて、次月はどんな結果になりますことか。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧