気づけばもうすぐ年末ですよ。時間が過ぎてばかりだなとため息をついているあなた(そしてわたし)、ここにも浮かない顔をした男がひとり。彼の場合はかなりシビア。たくさんのことを引きずってきた男で、自分を愛してくれたただひとりの女である妻は親友に寝取られ、懐事情からロンドンを離れざるを得えなくなり、友達はいないし、親身になってくれる唯一の人間は超がつくほど口が悪くて、辛い辛いと思って生きてきたこの十数年の仕上げなのか?の一撃で、裏切られながらいまでも愛していた元妻の遺体が発見されたという連絡が入ってきたんですから。どんよりとなる話をしておいてなんだけど、これがね、楽しいユーモア・ミステリなのです。ミステリのめくらましを「レッドヘリング(燻製ニシン)」といいますが、タイトルからして主人公のトホホな感じを象徴しています。ニシン売りの、あくまでも〈見習い〉——The Herring Sellers Apprentice という1冊。

 男の名はエセルレッド・トレシダー、「燻製ニシン」を売るのが仕事のミステリ作家。刑事ものシリーズを12年間続けてはいるけれど、特にベストセラーがあるわけでもなく鳴かず飛ばず。書かずには食えん、ってことで、筆名を使い分けて歴史小説とロマンスも手がけています。本当はジャンル小説ではない小説に着手したいけれど、敏腕エージェントのエルシーから、あんたはその器じゃないと一蹴され、その的確な指摘に自分でも納得してまた落ち込むという日々。そんなときに、元妻が他殺死体となって発見されたのです。エセルレッドの気も知らず、これはチョコバー3本ぶんの謎ね、とエルシーはお気楽なことを言って、犯人探しをやれとけしかける。調査がうまくいけば本が売れるから。けれど、こればかりは敏腕エージェントの思惑どおりにことは進まず、エセルレッドは不可解な行動を見せるように。

 本書は2008年度ラスト・ラフ賞(UK)[クライム・フェストでユーモア・ミステリに贈られる賞]候補、2010年度アメリカ探偵作家クラブ(MWA)ペーパーバック・オリジナル賞候補、2010年度バリー賞ペーパーバック・オリジナル賞候補となりました。踏んだり蹴ったり型の主人公を愛するみなさまにお薦めしたい作品です。そもそも「エセルレッド」というのが「無策王」と呼ばれ民に嫌われたむかしの王の名で、生まれたときから人生の負け犬感が漂っていると両親に一言いいたい主人公。そんな彼の境遇はヘヴィなものですが、エルシーがらみの笑いが炸裂して、ペーソスとユーモアのバランスがいい。あ、エルシーはたんなるうるさ型と思われるかも? いえ、勝ち気で毒舌、ぽっちゃり体型を気にしながらチョコレートがやめられないキュートな女性で、主人公に負けず劣らず人気がでるキャラだと思われます。

 本書が著者のデビュー作で、未整理な部分もないわけではありません。でも、一見軽い読み物で、実際にさくさく読めるんですが、このフォーマットからは予想外の奥行きのある良作なのです。エセルレッドが執筆する作品が断片的に劇中劇として登場、「刑事フェアファックス」、これも質が高くてスピンオフをお願いしたいと思ったくらい。そしてこのラスト。なにか読了して驚いたわ、とかよく口にしますが、たいていのことではもうそこまでびっくりしなくて小さな驚きだったりするんですけど、これには大笑いしました。このテイスト好きです。

 著者L・C・タイラーは、そう、エルシーというぽっちゃりした容赦ない女性で……ということはなくて、レンという男性。エルシーっぽい奥さんの尻に敷かれているのかなあとか想像すると楽しかったりしますが、彼はエセックス生まれ、オックスフォード大ジーザス・カレッジで学び、ブリティッシュ・カウンシル勤務時代に、香港、マレーシア、タイ、スーダン、デンマーク、ノルウェイ、スウェーデン、フィンランドで過ごすなどして、子供たちが成人してから専業作家になった模様。ロンドン在住、英国推理作家協会の現副会長です。

 年末の慌ただしい時期、さくっと読んでみるのも気分転換になるかも、と言いたかったんですが、残念、新品は品切れ中でした。シリーズ最新作から版元が変わっているんですね。古書ならなんとか、という状況です。最新作はkindle化もされていますので、いずれ前のも入手しやすくなればいいのですが。

エセルレッド&エルシー・シリーズ

The Herring Seller’s Apprentice (2007) 本書

Ten Little Herrings (2009) 2011年度MWAペーパーバック・オリジナル賞候補

The Herring in the Library (2010) 2011年度ラスト・ラフ賞(UK)受賞

The Herring on the Nile (2011)

Crooked Herring(2014)

三角和代(みすみ かずよ)

チョコバーならTwixが好き。訳書にカー『テニスコートの殺人』、ジョンスン『霧に橋を架ける』、プール『毒殺師フランチェスカ』、カーリイ『イン・ザ・ブラッド』、サントーラ『フィフティーン・ディジッツ』、テオリン『赤く微笑む春』他。ツイッターアカウントは @kzyfizzy

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