「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

  その作家の異色作、と呼ばれる作品を読んで「異色どころか、この人らしい一作じゃないか」と思ってしまうことがよくあります。
 確かに粗筋を読んだ限りでは、今までと雰囲気をガラリと変えてきてはいるけれど、結局のところ中心にある作家性は何も変わっていない。むしろ、一見違うからこそ、他の作品と通じるところが際立っていて、作者の特色がよく分かる。ベストにはしないが、偏愛作としては推したい。
 エラリイ・クイーンの『孤独の島』(1969)は、まさにそうしたタイプの”異色作”です。
 『ローマ帽子の謎』(1929)でデビューしてからの四十周年を記念して書かれた本書は、パズラーの大家らしからぬクライム・ノヴェルです。けれど、読んでみると徹頭徹尾クイーンの流儀で書かれている。そんな一作です。
 
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 物語は、襲撃シーンから始まります。
 三人組のギャングが、製紙会社の給料として用意された二万五千ドルを強奪する。協力者として抱き込んだ会社の帳簿係も無意味に殺す残虐な犯行の後、彼らは街から逃げようとするが、既に警戒線が敷かれてしまっており、金を持ったままでは動けない。
 どうしようか、と考えた結果、彼らは人質作戦をとることにする。
 ちょうど、おあつらえ向きの一家が街はずれに住んでいる。この家の娘を人質にとって、彼らを脅す形で金を預け、ひとまず街を脱出するのだ……というのが、本書の導入部となります。
 普段のエラリイ・クイーン作品とはまったくもって異なるプロットです。
 クイーンといえば、フーダニットですが、本書では最初から三人組のギャングが顔も名前も読者に晒していますし、作中人物もすぐにそれを知ります。そもそも、冒頭の強奪事件が解かれるべき謎として配置されているわけでもありません。
 この導入部が終わった後、現れるのは、町はずれに住む一家の大黒柱である主人公ウェズリー・マローン刑事で、エラリイ・クイーン青年もドルリイ・レーンも登場しません。
 本格ミステリのガジェットはどこにもありません。
 しかし、本書は余りにもクイーンらしいほど、クイーンらしい。
 形は違えど、彼らが繰り返し書いてきたロジカルなゲームが、ここから始まるのです。
 
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 エラリイ・クイーンが紡いできたのは、必ずしもトリックを必要としない謎解きミステリです。
 現場に残された証拠品から「何故、犯人はこんなことを?」という謎を拾い上げ、そこから論理を展開し、意外な真相を導き出すというのがクイーンの書くパズラーで、都筑道夫は『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(1975)で、この形式をモダーン・ディティクティヴ・ストーリイと呼ぶ独自の理論へ発展させました。
 この種の謎解きというのは、つまるところ、犯行当時の様子、ひいては犯人や被害者の人間性を再現する謎解きである、といえるでしょう。どうして犯人は靴に絆創膏なんて貼っつけた? それはきっと、犯行の瞬間こうだったからだ……とシチュエーションそのものを推理で導き、そこから更に犯人を見出す。
 『孤独の島』で使われるのも、このタイプの論理です。しかし見せ方は大きく異なります。
 通常、パズラーは全てが終わったところから推理が始まります。クイーン作品の代名詞の一つとして読者への挑戦がありますが、あれがまさにその構成の象徴で、ヒントが出揃いましたよ、と示されてから推理の披露が始まるのです。
 対し、本書は刻一刻と進行形で状況が移りゆく中、要所要所で推理を重ねていく物語です。
 状況が変わるごとに、マローンは「何故?」を考える。自分の次の一手として何が有効なのか、知らなければならないことは何か、ということをロジックで見つけるのです。
 この論理の動かし方が、まさにモダーン・ディティクティヴ・ストーリイ的なのです。
 ギャングたちはトリックなど弄しません。その場その場にあわせて自分たちが一番だと思うことをやるのみです。
 それをマローンは推理で追う。たとえば、前半のハイライトといえるある場面では、彼は「その人物はどうして天気の好い日にオーバーシューズを履いて、手袋なんてしていたのか?」と疑問を抱き、状況を打開し得る情報を導き出します。
 ギャングたちの行動と、それに応じたマローンの作戦が繰り返されるというのが本書の構造で、これははっきりゲーム的といえるでしょう。このゲームがロジックで形作られているところに僕はクイーンらしさというのを強く感じるのです。
 上で名前をあげた都筑はアクション作品については、アタック・アンド・カウンター・アタックがキモとなると述べており、法月綸太郎が創元推理文庫版の『退職刑事1』(1975)の解説において、このアクションの攻防を謎と論理の応酬に置き換えれば、そのまま都筑のいうモダン・ディティクティヴ・ストーリイになると指摘しています。
 ならば『孤独の島』は、アクション作品のキモであるアタック・アンド・カウンター・アタックを、置き換えることはせずに、謎と論理でそのまま描いた作品といえるのではないでしょうか。
 
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 『孤独な島』が秀逸なのはゲーム的な構造だけではありません。
 上で述べてきた通り、本書の手法は作者が今までの作品で使ってきたものです。
 その手法で、これまでクイーンが書くことができなかった領域の部分を書いている。ここが、最も素晴らしいところではないでしょうか。
 何度も言うようですが、クイーン作品の本領はフーダニットです。
 ジャンルの特性上、終盤に至るまで真犯人が誰かは明かせませんし、その人物の人間性を深く掘り下げるのは難しい。
 勿論、だからといって強烈な犯人像が描けないというわけではなく、クイーン作品でも『十日間の不思議』(1948)の”真犯人”は読み終えたあといつまでも忘れられない印象を残しますが、犯罪者の内心や人物像を書きにくい形式であることは確かだと思います。
 その点において、本書はクライム・ノヴェルの形式であることが存分に活かされているのです。
 とにかく、ギャング三人組を描く筆が冴え渡っている。
 疑い深さと衝動性を併せ持つ暴力的なリーダー、フューリア。その愛人にしてチームのプランナーでもある悪女ゴールディ、二人についていくがままの頭の足りない部下ヒンチ……下層階級の、己の欲望のまま突き進む彼らは当時のパズルの世界にはいないタイプのキャラクターで、どうしようもなさが強調されて描かれます。
 粗筋で警戒線が敷かれて街を出られなくなったと書きましたが、それだって、小市民的な見栄や欲が元凶なのです。
 彼らを追い詰めるがためにロジックを駆使するマローンも、同様にパズルの世界にはいない、いわゆる名探偵と呼ばれるタイプとはかなり異なる人物です。ヒーローではなくギャングの方に近い危うささえある。
 アタック・アンド・カウンター・アタックを積み重ねていった末、マローンとギャングたちの対決は真人間と犯罪者の境界線である、最も危険な地点に到達します。
 その地点は、エラリイ青年は一生行くことがないであろう場所なのです。
 
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 ありとあらゆる意味で、エラリイ・クイーンが書いたからこそ意味のあるクライム・ノヴェルというのが、本書に対する僕の評価です。
 故に、クイーンと犯罪小説が大好きな僕は、偏愛してやまないのです。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby