名作といわれる作品の55年ぶりの新訳・再刊である。
『赤毛のレドメイン家』(1922)、『闇からの声』(1925)のフィルポッツが、『テンプラー家の惨劇』(1923)、『怪物』(1925)などと同様、ハリントン・ヘクスト名義で書いた作品。
ヴァン・ダインの選ぶ英国9傑作に『赤毛〜』とともに含まれている。
一方で、『赤毛〜』を激賞した乱歩の威光の翳りもあってか、『赤毛〜』『闇〜』の我が国の評価も次第に低下しつつある。海外では、ジュリアン・シモンズが評論書『ブラッディ・マーダー』で、『灰色の部屋』(1921)、『テンプラー家の惨劇』のネタを明かした上で、「荒唐無稽」の烙印を押しているくらいで、あまり省みられる作家ではないようだ。
で、実際のところ、イーデン・フィルポッツ『だれがコマドリを殺したのか?』(1924)はどうなのか。
医師のノートン・ベラムは、避暑地で美貌の女性ダイアナ、あだ名は”コマドリ”に出会い、一瞬にして心奪われる。ノートンは、資産家の叔父が求める結婚を拒否し、ダイアナは貴族のプロポーズを断るという代償を払って、灼熱の恋に身を投じた二人だったが……。
タイトルは有名なマザーグースの童謡から採られているが、いわゆる童謡殺人物ではない。タイトルの含むところは、読後に明らかになるだろう。
それにしても、ミステリらしくない発端である。
いや、発端だけではない。冒頭の「運命はぎりぎりのタイミングでふたりを引き合わせた(略)。この恋は無残としか形容できない幕引きを迎えることになる」といった文章をはじめ、至るところで、破局的な運命が強調されるのだが、事件らしい事件はほとんど起きない。物語も大半を過ぎた辺りで、犯罪の輪郭が姿を表すのである。
そこに至る道行が退屈かというと、そういうことはない。古びたことは否めない倫理観もみられるが、読みやすい訳文もあって、恋愛の激情と冷めていく心理、登場人物たちの性格が生みだすドラマに惹きつけられる。ある作中人物が吐露する心理など、犯罪心理小説の先駆、アイルズ『レディに捧げる殺人物語』を彷彿させるところがある。
犯罪−解決という構図を後ろの方に圧縮し、主要人物の心理の綾を描いていく普通小説の味わいで前半を乗り切るというスタイルには、時代離れした現代性を感じさせるほどだ。
結末で待ち構えているサプライズは相当に強烈である。作者は真相隠しにやや無防備なところがあり、現代の読者であれば、あるいは見当がつくかもしれないが、虚をつくような逆転の構図が効果を発揮しているのは、じっくり描かれる前半部があってこそ、と思わせる。惜しいのは、現代であれば、アンフェアの指摘を受けて仕方のない記述があることだが……。
フィルポッツの魅力は、悪人の造型であることを多くの人が指摘するが、本書も例外ではない。本書のアクロバティックなプロットは、怖いほどの悪意に満たされた空間を一挙にせり上げ、探偵小説の醍醐味はこういうものだった、と思い起こさせる。
フィルポッツは地の文では、運命を強調し、一見宿命論者のようだが、フィルポッツの描く悪人は、自由意志をもった運命への叛逆者である。運命論と、それに対抗しようとする悪の強靭さと魅惑。作者の中のせめぎあいは、また小説観のせめぎあいでもあり、そのことが、フィルポッツの作品が、今なおミステリ史の中で光を放っている理由である、と思う。
ティモシー・フラー『ハーバード同窓会殺人事件』(1941)は、ジェイムズ・サンドー作成の「大学図書館が備えるべき探偵書目」という名作リストにも挙げられている作品。我が国では、作者が21歳の若さで書き上げたデビュー作『ハーバード大学殺人事件』(1936)が1992年に紹介されているが、同書は、ちょっとした入手困難になっていて、申し訳ないことに、筆者は事前に読むことができなかった。
ということで、シリーズ探偵ジュピター・ジョーンズとは、初対面。ジュピターは、ハーバード大学卒業生の美術の専門家。母校で講師を務めている。趣味は犯罪研究という、典型的素人探偵だ。
物語の舞台は、ハーバード大学卒業生が集まる同窓会。
8年間つきあった婚約者ベティとの結婚を翌日に控えたジュピターのところに、親友のエドから助けを求める電話がかかってくる。同窓会に参加していたエドの相部屋のノースという男が殺され、エドは重要参考人になってしまったというのだ。エドに新郎付添人を依頼していたジュピターは、ベティとともに、エドの救出に駆けつける。
デッドエンドは探偵自身の結婚式まで、という一日半の物語。設定だけみると、後のコージーミステリのようでもある。
事件は、ゴルフ場での射殺事件。容疑者は、殺された男の同窓生たち。卒業後、親交があった人物はいないようで、決定的な容疑者に欠けている。
全体のトーンは、カジュアルにしてユーモラス。ジュピターは、警察の捜査にちゃっかり取り入る、貴重な情報は隠す、容疑者に助言をしてしまう、という無手勝流の捜査。新婦のベティも、ジュピターの趣味にはあきらめ顔で、明日の結婚式を案じながら、ともに調査を続ける。
クライマックスは、同窓生のパレード行列に紛れ込んでの謎解きとなるが、スーパーマンの格好に扮装して、犯人を当てる探偵というのは、この時代にあって、ユニークな存在だったのではないか。
一方で、エリートたちの10年後の歩んでいる人生はそれぞれで、学生時代の「平和で幸福な時代」とのギャップに、一抹のほろ苦さもにじむ作品だ。
しかも、時代は大戦中とあって、ジュピターとベティは、良心的兵役拒否について議論し、行進する同窓生たちは「我らのつとめ………スーパーマンは国防へ」「クリスマスまでに最前線へ」といったプラカードをかついでいる。
某有名作を思わせる解決は、謎解きの説得力という点では弱いところがあるが、青年期の理想に殉じようとした犯人像は、大戦という時代の現実の中で、ある種鮮烈なものがあり、軽みだけで終わらない読後感が残る。
やはり作中に戦争の影が落ちているのが、ベイナード・ケンドリック『暗闇の鬼ごっこ』(1943)。登場人物の幾人かは兵役中であり、「この戦争で世界はバラバラになってしまった」という登場人物の独白もある。
ニューヨークに住む盲目の私立探偵ダンカン・マクレーン物の一作。唯一邦訳のある長編『指はよく見る』(1945)はサスペンス色の強い作だったが、本書は、不可能状況での連続墜落死事件を扱った堂々たる本格物。カーも、『髑髏城』『雷鳴の中でも』などで何度も取り組んだ魅力的な設定だ。
ジュリアは深夜のオフィスに呼び寄せられる。呼び出したのは、信託基金のかつての経営者で、彼女の元夫。ビルに入ったジュリアは、男の絶叫を耳にし、最上階まで吹き抜けになった8階から、かつての夫が落ちてくるのを目の当たりにする。ただ一人、8階にいた息子セスには殺人の容疑がかかってしまう。続けて発生する不可解な転落死。一連の事件は、自殺なのか、殺人なのか。
ダンカン・マクレーン大尉は、アーネスト・ブラマの創造による盲目探偵マックス・カラドスに触発されて造型されたようだが、カラドスのように指先だけで新聞を読んでしまうような超人ではなく、長年の修練で残りの四感を鍛え上げた人物。パートナーのサヴェージらや、盲導犬のシュナック、攻撃用に訓練された犬ドレイストの助けを得て、常人を超えた探偵能力を発揮する。
といっても、本書は、キャラクター設定に頼っただけのミステリではない。事件には、6年前の射殺事件の真相も絡み、現場からは小銭や文鎮、水晶玉が消えるなど、複雑で奇妙な様相を呈してくる。第二の墜落死はアパートで、そして、第三、第四の墜落死は、再びオフィスビルで発生というように、事件の目先も変え、飽きさせない。
冒頭の印象的な場面のように、作者は場面づくりに秀でたものがあり、マクレーン大尉が犯人をおびき出すため、盲導犬二犬を連れて、深夜のオフィスビルに乗り込むクライマックスは、見えざるものの徘徊の雰囲気が漂う名シーンだ。
連続墜落死事件という強力なフック、きびきびとしたストーリー、複雑な事件に筋を通した解決は、本格ミステリ愛好家を喜ばせるだろう。
マクレーン大尉は、本書の最後で伴侶を得、独身に別れを告げるが、今回は、なぜか結婚づくしの回となった。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |