年々、ものを覚える能力が低下しているのが、自分でもはっきりわかる。本も映画も細かいことは読むはしから忘れるものだから、どこがどうおもしろかったのか、具体的に伝えるのがとても大変。1年もたったものは、あらすじも結末もすっかり忘れる始末で、先日、埼玉読書会でテキストとして取りあげた『チューダー王朝弁護士シャードレイク』を再読したときも、3分の1くらいまでは事件そのものも覚えておらず、「こんな話だったっけ?」と、何度も首をかしげたものだ。途中からなんとなく思い出しはしたものの、けっきょく犯人も動機もすっかり忘れていて、新鮮な気持ちで楽しめた。まあ、そう考えればこの記憶力のなさも悪いものではないのかもしれない。とはいえ、再読してもいろいろ忘れていたのは内緒だ。

 記憶というのは不思議なもので、こういう、本来ならちゃんと覚えておきたいものほど忘れてしまい、忘れたいものほど妙に覚えていたりする。脳にはかぎりがあって、効率的に忘れていかないと人間生活に支障が出るという話をどこかで聞いたことがあるが、なにを記憶してなにを忘れるかのメカニズムってどうなっているんだろう。自分でコントロールできればいろいろ都合がいいのに。

 とまあ、こんな話から始めたのは、今月ご紹介するアリソン・ゲイリンの “And She Was” (2012) の主人公がハイパーサイメスティック・シンドローム/Hyperthymestic syndrome(いまのところ定訳はなく、超記憶症候群、または超常記憶症候群と呼ばれている)という、日常のどんなささいなこともすべて記憶してしまうという、きわめてまれな能力を持つ女性だから。何年も前の朝ごはんのメニューも、学校の授業の内容も、人との会話も、たまたま読んだ書類も、頭のどこかに平等におさまっていて、それが正確に頭のなかで再生されるというから、記憶力に難のあるわたしからすると、本当にうらやましいかぎり。それも、意識して覚えるのではなく、すべての情報が勝手にインプットされるというのだから、ますますうらやましい。でも、そこまで超人的な能力を持っている主人公なんて、設定としてずるいのでは? そんな懸念を抱きながら読み始めたところ、これが当たりだった。

 ブレンナ・スペクターは失踪人捜し専門の私立探偵で、かなりの腕利き。そんな彼女のもとを刑事が訪れる。50代の主婦キャロル・ウェンツが5日前から行方不明になり、とある空き家で見つかった彼女の財布にブレンナの名前と連絡先が書かれたメモが入っていたからだ。しかし、ブレンナにはまったく心当たりがない。けっきょくキャロルの夫から妻の捜索を依頼されることになり、調査を始めるブレンナだが、その矢先にキャロルが自宅のガレージで死体となって発見される。警察は容疑者として夫のネルソンを逮捕するものの、本人は容疑を強く否定。ブレンナも、夫による妻殺しという単純なシナリオに納得がいかない。

 ウェンツ夫妻が住む界隈では11年前、6歳の少女アイリスが近所のバーベキュー・パーティの会場から忽然と姿を消すという事件があり、いまだ行方がわかっていない。いろいろ調べるうち、キャロルは夫に隠れてその事件を追っていたことがわかる。事件に関する記事を集めるだけでなく、インターネットの失踪者家族の掲示板にアイリスの母親をよそおって書き込みをしていたこともあったらしい。しかも、財布が見つかったという空き家は、事件当時、アイリスが母親と住んでいた家。ブレンナはキャロル殺害はアイリスの事件と関係があるとにらみ、真相究明にいどむことに……。

 探偵の本分を逸脱し、ネルソンから解雇されてもなお事件に関わろうとするのは、単なる好奇心や正義感ゆえではなく、ブレンナ自身の過去と大きく関係がある。11歳のときに大好きだった姉が行方不明になり、25年以上が過ぎたいまも生死すらわからず、そのことが心のなかにしこりとなって残っている。だから、姉の事件とアイリスの事件は無関係とわかっていながら、ちょっとした共通点があるだけで、どうしても他人事とは思えなくなってしまうのだ。実際、アイリス失踪の報が流れた当時も、いてもたってもいられず、個人的に首を突っこんでしまった過去がある。

 そしてその捜査の過程で大きな力を発揮するのが、彼女の超人的な記憶力。11年前に調べたときの記憶がここぞというときに役に立ち、捜査を前へと進める大きな原動力になる。ただし、この能力はいいことばかりではない。関係者から話を聞いているときも、アイリスの事件に関する資料に目をとおしているときも、あるいは頭のなかを整理しているときも、ふとしたことがきっかけとなって、姉が失踪したときの一部始終が正確に、しかも細部洩らさずよみがえり、そのたびにつらい思いを繰り返すのだ。その描写の端々から、記憶が薄れないことの苦しさがひしひしと伝わってくる。さきほど「超人的な能力を持っている主人公なんて、設定としてずるいのでは」と書いたが、読む前にそう思ったことを、いま全力で謝りたい。この設定あってこその物語なのだ。

 ややもすれば暗くなりがちな内容だが、ブレンナの助手でIT調査を得意とするトレントがいい感じにバランスを取っている。両の乳首にはシルバーのピアス、いつも突飛な恰好で現われ、落ちこむことなんかないんじゃないかと思うほどのハイテンションで、彼が登場するシーンは実になごむ。なんでもかんでも、ちゃちゃっとやってのけてしまうところは、出来すぎと思わなくもないが、なにしろまだシリーズの1作めだ。シリーズが進むごとに、このあたりの肉付けはされていくと期待したい。

 著者のアリソン・ゲイリンはデビュー作の『ミラー・アイズ』でMWA賞(エドガー賞)の新人部門にノミネート(ちなみに受賞したのはテリーザ・シュヴィーゲルの『オフィサー・ダウン』)。その後、スタンドアローン作品を3作上梓し、2012年に本書 “And She Was” を発表。翌年のシェイマス賞最優秀ペーパーバックオリジナル賞を受賞した。ブレンナ・スペクターを主人公とするシリーズは、2013年に “Into The Dark”、2014年に “Stay With Me” とつづき、どうやらこの3作めでブレンナの姉、クレアの事件になんらかのピリオドが打たれるもよう。これはぜひとも読まなくては。

東野さやか(ひがしの さやか)

兵庫県生まれの埼玉県民。洋楽ロック好き。最新訳書はブレイク・クラウチ『ウェイワード—背反者たち—』(ハヤカワNV文庫)とローラ・チャイルズ『保安官にとびきりの朝食を』(コージーブックス)。埼玉読書会世話人。ツイッターアカウントは @andrea2121

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