Un crime en Hollande, Fayard, 1931[原題:オランダの犯罪] 『オランダの犯罪』宗左近訳、創元推理文庫214、1960* Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T1, 2007 TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1976(第30話) TVドラマ『メグレ警視23 フィンランドの犯罪』ブリュノ・クレメール主演、Maigret en Finlande, 1996(第22話)[原題:フィンランドのメグレ] |
「すみません……町長さんをさがしに、町に出かけなくてはなりません。仔牛の血統書のことで……とても重要なことなんですの……あなたもデルフゼイルにいらっしゃいません?」
メグレはいっしょに外に出た。彼女はニッケル張りの自転車のハンドルをもち、ならんで歩いた。一人前の女のようにふくらんだ腰を少し振るようにして。
「なんと美しい土地でしょうねえ。……気の毒にコンラッドにはもうこれが見えないんだわ……海水浴場は明日から開くのに!……いままで毎年、あの人は毎日出かけていたのに……あの人、一時間も海にはいっていたわ……」
メグレは歩きながら、じっと大地を見つめていた。
上に掲げたものは本書『オランダの犯罪』の第1章末尾の文章である。なんと見事な滑り出しだろう。難しい言葉などいっさいないのに、活字の向こうにはっきりと奥行きが感じ取れる。本書を最後まで読み終えた後、この部分を読み返せば、あなたもこの短い文章のなかに、幾重にもわたって物語のテーマが含まれていることを改めて知るだろう。澄み切った湧き水を旅のはじめに両手で汲み、喉に通したかのようだ。その水は人工的な味も着色もないが、いのちに欠かせないものなのである。
本書『オランダの犯罪』は、いままで若きシムノンがメグレというキャラクターと何度か格闘した後、ついにおのれの書き方をつかみ、自信を持って書き始めた最初の一作であるように思える。物語の時期は5月、そして舞台はオランダの小都市デルフゼイル(デルフザイル)である。この地に講演旅行でやってきていたフランスの犯罪学の教授が殺人事件に巻き込まれたため、彼の要請によって司法警察のメグレは非公式に異国オランダへ派遣されることになったのだ。
デルフゼイルは北海のそばにあり、多くの運河で区分けされている。赤煉瓦の家が並び、無数の帆掛け船が停泊している。太陽は輝き、まるで絵はがきのような風景が広がる。この地はシムノン自身が《東ゴート人号》で暮らし、そしてメグレというキャラクターを生み出した場所だ。その故郷へシムノンはメグレを還らせたのである。
そのためだろうか、本書にはこれまでのメグレシリーズで描かれてきたモチーフやシチュエーションが、変奏されつついくつも再登場しているように思えた。シムノンはここからもう一度メグレを語り直そうとしていたかのようだ。
とくに上掲の文章中に「血統書」(pedigree)という言葉を見つけたとき、私は息を呑んだ。シムノンは後に自伝的な大作『Pedigree』[原題:血統書](未訳)を発表する。その前触れさえこの作品には込められているような気がしたのだ。
物語はメグレがデルフゼイルに到着したものの、カフェの店員と言葉が通じずもどかしくなるさまから描き出される。
事件の概要は次のようなものであった。デュクロ教授がこの地で社会と犯罪についての講演をおこなった後、兵学校の教官であるコンラッド・ポピンガ氏の自宅でささやかな歓迎のパーティが催された。デュクロ教授はその邸宅に宿泊することになっていたのだ。
パーティにはポピンガ夫人を始め、同居している夫人の妹アニイや、別の教官、兵学校の生徒、養牛場の若い娘ベーチェなどが同席していた。ポピンガ氏は調子に乗ってベーチェとダンスを踊る。そして夜も更け、人々は三々五々別れ、ポピンガ氏は自転車でベーチェを途中まで送った。ところが自宅へ戻ったポピンガ氏は突然何者かに銃で撃たれたのだ。
二階の部屋にいたデュクロ教授は銃声がごく近くから聞こえたことに驚き、浴室へと飛び込む。そこには銃が残されており、ちょうどその窓から庭で撃たれたポピンガ氏の姿が見える。デュクロ教授は思わず銃をつかんで階段を駆け下りる。ポピンガ夫人と、その妹のアニイも飛び出してきた。しかしポピンガ氏は死亡し、そこで初めてデュクロ教授は、自分が銃を持っていることで容疑者となってしまったことに気づいたというわけだった。
メグレは事前に関係者の調査票を受け取っていたが、そのなかでフランス語が話せるという養牛場の娘ベーチェをまず訪ねる。彼女は18歳で、バラ色の顔をした健康的な女性だった。図らずもメグレは牛小屋で、ベーチェと仔牛の出産を手伝うことになる。そんなふうにしてオランダの第一印象がメグレの心に刻まれてゆく。美しく素朴な異国の景色と、おそらくは執念深い計画的な犯罪が重なり合った場所。そうした二重の意味を持つ遠い地に、メグレはいま降り立ったのだ。前半は舞台であるデルフゼイルの情景描写に多くの筆が費やされ、読み手側にも充分に世界観が伝わってくる。『黄色い犬』で私が不満に感じた性急さはもはやない。そしてシムノンは鮮やかにこう描く。
一方の世界には、この港、木靴をはいた人々、船、帆、瀝青(タール)と海水の匂い……。
一方の世界には、蠟引した家具や暗い壁紙をもつ閉めきった家々、一、二杯飲みすぎた海軍兵学校の先生を二週間も噂の種にする土地……。
空はおなじ一つの空だ。清澄な夢のように明るい空。だが、なんとこの二つの世界の間には境界線がはっきりとあるのだ!
メグレは、ポピンガの姿を思い描いてみた。一度も会ったこともなく、いまでは死んでしまっているポピンガは、メグレの想像のなかでは、いかにも食いしんぼうらしいがんじょうなバラ色の顔をしていた。
二つの世界の境界線の上に立つ人間としてのポピンガを、メグレは思い描いていた。(後略)
もはやこの世にいないポピンガ氏の心情や性格を追うことで事件の核心に迫ろうとするメグレの手法は『死んだギャレ氏』を想起させるし、無邪気だが男を翻弄するベーチェは『メグレと深夜の十字路』に登場した「運命の女」の別の姿だ。そうした各要素は決して過去作品の焼き直しではなく、作家としての技量が確実に一段階上がったかたちで描かれてゆく。本書はいままでのメグレシリーズと同じく、ごく短い長編作品だが、先にも述べたように読書中はつねに遠景が心に浮かぶ。直截的には書かれていない事象も、私たちはそれを心のなかでつけ加えながら読めるのである。
ひとつにはここ数作のうちにシムノンが急速に会得してきた一種客観的な書きぶりが、各登場人物の内面に入り込む文章とバランスを取りつつ、互いを引き立たせるように効果を発揮してきたからかもしれない。たとえば作品の途中でメグレがベーチェに投げかけるきつい言葉である。
「私があなたを保護するものだと思ってたんですか?……保護しますとも! ただあなたを何も犠牲者だともドラマの主人公だとも思わないだけだ……それ以外の何者でもないんだ! その辺にうようよいる娘だ……」
メグレシリーズでは、ときおりメグレが初対面の女性の恋愛事情についてずけずけと質問し、相手の心を抉るような言葉を連発するシーンがあって驚かされる。作者のシムノンは本質的に人間を信じていないのではないか、とさえ思わされるのだが、そうしたメグレの無礼な言動は、必ず物語のなかで後に重要な意味を持つのである。
上記引用部分でも「ドラマの主人公」という言葉が出てくると、とたんに読み手である私たちはいま目の前にある活字の列が「フィクション」であることを思い出してしまうはずだ。物語に読者を没頭させたい書き手としては、できることなら避けたい事態である。しかしシムノンは前作『メグレと深夜の十字路』からこうした手法を使い始めた。これはかなり高度な作劇法で、いったん類型的な枠に填めた登場人物を、さらに複雑な心性へと導き寄せるための手段なのだ。この意外性がさらに読者を惹きつけることになる。そして物語が進むにつれて、純朴で明るかった牧場娘は次のような表情さえ見せ始めるのである。
ああ! 醜い女を圧倒する男好きのする女が、本能的にもらす勝ち誇ったような微笑、その小さな笑いがベーチェの顔にうかびあがる!
殺されたポピンガ氏は女好きの性格だった。妻を持ちながら、一方では十代の健康的なベーチェをものにしようとしていたのである。ところがベーチェにも彼女なりの計算がある。メグレはポピンガ氏をふたつの世界の境界線上に立つ人物と捉えた。そのふたつの世界とは、いくつもの意味を持っていたのである。ここでもシムノンは過去作『黄色い犬』を変奏しつつ、さらに深みのあるテーマへと突き進んでいる。ポピンガ夫人の妹アニイは器量の悪い乱杭歯の女で、若くて胸もはち切れそうなベーチェは、彼女に対する優越感を持っていたのだ。
メグレは地元の警察官から邪魔者扱いされながらも、ひとり捜査を続けてゆく。そして事件当日の出来事を関係者全員に再現させることで、一気に犯人の心理を追い詰めようとする。デュクロ氏の講演会に集まった地元の人々。誰がどこに座ったのか、その検証からすでにメグレの確認作業は始まっている。デュクロ氏の犯罪学講義は学問としては興味深いものかもしれないが、すでに本作を読み進めてきた者にとっては空疎なものに思えるだろう。講演会場からポピンガ氏の自宅へ皆で歩いて移動するときの所作も、ポピンガ氏の自宅での振る舞いも、すべてメグレにとっては意味がある。この再現劇のなかでいま誰かが自分の罪と向き合い、激しい不安と動揺に襲われているはずなのだ。ポピンガ氏の役をこなすメグレは自転車でベーチェを途中まで送ることも再現する。そしてメグレがポピンガ邸へ戻ったとき、二階の浴室から誰かが弾の入っていない銃の引き金を引く音が聞こえた……!
本書巻末の「ノート」で、曽根元吉(谷口正元)氏が次のように解説している。フランスの推理小説は『ルルージュ事件』(国書刊行会)のガボリオの流れを汲んでおり、『黄色い部屋の謎』(創元推理文庫)のガストン・ルルーも、〈アルセーヌ・ルパン〉シリーズ(偕成社)のモーリス・ルブランも、ジャーナリスト風の文体で書いてきた。初期のシムノンもそうした先達の作風を混ぜ入れていたが、やがて自分の文体を発見していった、と。
そしてこのように書いている。『オランダの犯罪』は、メグレものには珍しく数多い容疑者とアリバイを用意して、かなり本格的な事件設定を試みている。最後に関係者を一堂に集めて事件の解明をするのも、この作者には異例のケースである。それが、さまざまな職業、性格の人物をオランダの地方情景に点出するシムノン特有の画調と重なり合ってゆくところに本作の特色がある、と。
実際その通りであるが、『黄色い犬』『メグレと深夜の十字路』と続けて読んできた私には、ここでシムノンが初めて本格推理小説の体裁とともに、自分自身の小説を書き上げることができた堂々たる一作と思えるのである。本作の謎解きは本格推理としても納得のゆくものであり、初めてきちんと推理すれば犯人が特定できる作品となっているのではないか。実にサスペンスフルな作品だ。これまで7作を読んできた限り、個人的には『サン・フォリアン寺院の首吊人』『メグレと深夜の十字路』をしのぐ、メグレシリーズ初期の代表作といって過言ではないと思う。正直なところ、メグレシリーズでこれほど本格的なミステリーを読めるとは思っていなかった。
ジャン・リシャールのドラマ版は、とにかく冒頭のオランダの光景が美しい。カラーフィルムであることの喜びが、いまも画面から発散されているような感動を覚える。ブリュノ・クレメール版はなぜかフィンランドの小島に舞台を移しており、夜の短い北欧でメグレはアリという刑事とコンビを組んで捜査にあたる(DVDパッケージの解説に拠れば、以前に放送された『メグレと幽霊』事件で親しくなった刑事らしい)。
原作とドラマ両作の間では、ひとつ大きな設定の違いがある。物語の根幹に関わる変更だが、映像ではこの部分を描くことができなかったのかもしれない。ほとんどの作品で原作に忠実なジャン・リシャール版だが、そのため終盤だけはわずかに変わっているし、ブリュノ・クレメール版でもその部分には別のエピソードがつけ加えられている。クレメール版のドラマシリーズは原作の時代と製作年が離れてしまったため原作の持ち味を活かせず苦心していることもわかるのだが、ミステリー色を強めようとするあまり不要なミスリーディングを挿入しがちで、原作のテーマがぼやけてしまう印象がある。しかし本作に限っては、最後に犯人役が迫真の演技を見せつけ、視聴者を圧倒する。原作の描こうとしたテーマとは別のものになってしまっているが、このラストでぐっと引き締まったドラマになった。
ただし両ドラマは、どちらも原作の最後の1ページを再現していない。本作では終盤、口数の少ないはずのメグレが畳みかけるように言葉を発し続け、一気に犯人を特定する。そしてすべてを解明した後、誰にも口を挟ませずにいう。
「これだけです!……フランス行きの汽車は何時に出るのでしょうか?……」
そして空白の一行。ページは終わる。私は最初、ここで作品は終わりだと思った。ところがページをめくると最後の見開きが残っていた。
そして最後の1ページを読み終えたとき、私は作者シムノンに心から恐ろしさを覚えたのだ。たいていの作家なら、ここまで見事に謎解きの場面を書き終えたなら、すっぱりと先のメグレの台詞で終幕させたことだろう。一般の編集者ならそれを推奨したかもしれない。だがシムノンはその後を書いた。
何と身につまされる、男にとっては酷な終わり方だろうか。確かに本作の登場人物たちは、誰もドラマの主人公ではない。その辺にうようよいる人間だった。そのことがあまりにも深い余韻を残すのだ。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』で日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書に『デカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。 |
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