Les Inconnus dans la maison, Gallimard, 1940/10(1938/9-1939/1執筆)[原題:家のなかの見知らぬ者たち]
・« Match » 1939/10/5-1940/1/4号(第66-79号、全14回)
・同, Gallimard, (発行日記載なし、1954)(レイミュ版映画タイアップジャケット)
『家の中の見知らぬ人』遠藤周作訳、ハヤカワ・ポケット・ブック シメノン選集803、1955*
『家の中の見知らぬ者たち』長島良三訳、読売新聞社、1993*
Stranger in the House, translated by Robert Baldick, Penguin Books, 1967(メイスン版映画タイアップ表紙)
・映画『家の中の見知らぬもの』アンリ・ドコアンHenri Decoin監督、アンリ゠ジョルジュ・クルーゾーHenri-Georges Clouzot脚本、レイミュRaimu、ジュリエット・ファーベJuliette Faber出演、1942[仏]
・映画『Stranger in the House(Cop Out)』ピエール・ルーヴPierre Rouve監督, ジェームズ・メイソンJames Mason, ジェラルディン・チャップリンGéraldine Chaplin, 1967[英][家のなかの他人(責任逃れ)]
・映画『L’Inconnu dans la maison』ジョルジュ・ロートネルGeorges Lautner監督, ジャン゠ポール・ベルモンドJean-Paul Belmondo, クリスティアナ・ヘアリChristiana Reali 1992[仏][家のなかの見知らぬ男]
Tout Simenon t.22, 2003
Les romans durs 1938-1941 t.4, 2012, 2023
Simenon Romans I, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2003

 前回『フールネの市長』第97回)に続き、今回の『家の中の見知らぬ者たち』(1940)も後のプレイヤッド版長篇集に収録された、シムノンの中期代表作のひとつに数えられる作品だ。アンドレ・ジッドは本作を読んで「ブラボー!」と興奮した筆致で大絶賛の手紙をシムノンに書き送った(1941年7月8日付)。
 本作はシムノン初の本格的裁判小説でもある。主人公エクトール・ルールサは弁護士で、物語の後半5分の2はすべて裁判シーンに割かれている。そして非常に物語のテーマがわかりやすいことも大きな特徴だ。そのわかりやすさのためか、ジッドも絶賛したようにシムノン作品のなかでもとりわけ評価が高く、これまで3度も映画化されている。
 だがそのわかりやすさの天秤は、普遍的であることと陳腐であることの間で揺れており、読者によってはむしろ否定的意見に傾くかもしれない。いずれにせよ本作が中期シムノンを知るのに格好の作品であることは間違いない。シムノンはもうすぐ子供が生まれることを知っていた。彼は自分が父親になることをはっきりと自覚しつつあった。そして戦争はすぐそこまで迫ってきていた。

 舞台はフランス中央部に位置する地方都市ムーラン、最初のシーンは雨の降る10月。深夜、ロジッサール判事の自宅に、いとこである弁護士エクトール・ルールサから突然電話がかかってきた。ルールサは18年前に妻が不倫で家を出て行って以来、自宅に閉じ籠もって酒に溺れ、ふたりの女中にすべての世話を任せながら、妻が放り出していった(自分の子かどうかもわからない)娘ニコルと広い屋敷で生き長らえている、いわば世捨て人の男である。そのルールサがいきなり「家の中に知らない男がいる。三階のベッドで死んでいる」と連絡してきたことから物語は始まる。
 その夜、自宅にいたルールサは上階から銃声が聞こえたので不審に思い、途中で娘のニコルと合流した。人影が出て行ったような気がしたが定かではない。そして彼はふだん使っていない左翼棟三階の小部屋で、ベッドに横たわる若い男の死体を発見したのだ。彼にはまったく見知らぬ男だった。
 翌朝、弁護士や検事、(司法警察局)機動隊の警視、地元警察署長などがやってくる。予審判事はデュキュと決まった。やがてルールサにとっては驚きの事実が判明する。娘のニコルは自分の知らないうちにしばしば遊び仲間をこの家に招き入れており、事件当夜もエミール・マニュという書店勤めの若者と自室にいたのだという。そして三階で撃たれて死んでいたのは「でかいルイGros Louis」と呼ばれる不良で、数日前にニコルとその遊び仲間らが黙って借用した車を飛ばしていたところ接触事故を起こしてしまい、仕方なくニコルの家の三階に運び込んだというのだ。つまりニコルは三階に「でかいルイ」がいることを知っており、また銃声が聞こえる直前まで自室でエミール・マニュと会っていたのだ。
 すぐにエミール・マニュは殺人容疑で拘束される。だが彼は身の潔白を主張していた。次第にルールサは、自分の娘がどのような遊び仲間とつきあっていたのか理解していった。ルールサ自身、もともと弁護士であったので、このムーランでは上流階級の一員ではある。上流階級の家庭は湖畔のエクス゠レ゠バンへ療養休暇に行くことが多い。暇を持て余した上流階級の息子や娘たちが人目のつかない療養地で互いに交流を深め、不良集団を気取って、ムーランに戻ってからも特定のバーに集まっては騒ぎ、ときには軽犯罪にも手を染めるのである。ニコルはエドモン・ドッサンという若者がリーダー格を務める集団に誘われて入っていた。エドモン・ドッサンは耕運機会社の社長の息子で、母親はルールサの妹マルトである。他にも仲間には肉屋の息子や、ブルガリアから一家揃って移住してきた商店の息子、いまは志願兵となっている銀行員の若者などがおり、ボクサー崩れのジョーという男が営んでいる《ボクシング・バー》を溜まり場としていた。とくに男たちは仲間内で女も紹介し合っていたらしい。
 容疑者となったエミール・マニュは例外的に貧しい家庭の若者で、つい最近になってドッサンに仲間へ引き入れられたのである。家庭の格差が若者集団の内部格差にも影響を及ぼし、マニュは蔑まれていた。しかし彼はニコルに好意を寄せ、やがて愛を自覚するようになっていたのである。だが「でかいルイ」を負傷させたことで彼らはルイから脅され、金を要求されて、新入りのマニュは書店の金を横領しなくてはならなかった。この経緯はマニュにとって不利なもので、ルイを殺害するに足る充分な動機となり得る。
 だがマニュは無実を訴え続ける。そしてルールサと対面したとき、重大な話を切り出したのだ。彼は自分の弁護をルールサに頼んできたのである。
 こうしてルールサは18年ぶりに法廷の場へ立つことになる。だが彼自身が殺人現場の家主であり、証人席には自分の娘ニコルや甥のエドモン・ドッサンも召喚される。人間関係が複雑に絡み合った裁判なのだ。ルールサにとってこの公判は、自分の娘とその恋人を護るための、そしてまた大きな屋敷のなかで18年間もまるで見知らぬ他人の如くに過ごしてきた自分自身を再生させるための、すなわち新たな人生を踏み出すための闘いとなっていった。
 
 シムノンはこれまで『バナナの旅行者』第82回)、『重罪裁判所』第83回)で法廷シーンを描いてきたが、本作はまさに後半多くのページを使って展開される公判シーンが物語の肝となっている。つまり先に述べたようにシムノン初の本格的裁判小説なのだが、「裁判が主体ならミステリー小説の範疇なのだろう」と思い込んで読むといささか肩透かしを食らうかもしれない。というのも本作では裁判の過程が詳細に描かれるものの、何か大どんでん返しが起こって意外な犯人が浮き彫りにされるといったような趣向は凝らされていないからである。劣勢に立たされ危機に陥った主人公ルールサが間一髪のところで新しい証拠をつかみ、それを証人の前に突きつけることで思いも寄らなかった真実が浮かび上がる……といった常套の心理戦や読者をあっといわせる衝撃の展開は〝ない〟。本作はミステリーではないのである。
 ただし、評論家ブノワ・ドゥニがプレイヤッド版『長篇集Ⅰ』の巻末解説でいろいろと興味深い指摘をおこなっている。まず本作がアール・スタンレー・ガードナーの《ペリー・メイスン》シリーズから影響を受けているという示唆は驚くべきもので、ガードナーの《ペリー・メイスン》ものの長篇が初めてフランスに紹介されたのは1935年、すなわち本作執筆の3年前のことだったという。シムノンも寄稿したことのある読みもの誌《探偵Détective》の別冊書籍版選集のようなかたちで翻訳されたらしい。ここから法廷ミステリーの王道パターンがフランスにも広まったそうで、本作『家の中の見知らぬ者たち』も公判に至るまでのストーリー展開や法廷シーンでのやりとりが《ペリー・メイスン》に似ているというのだ。へえー、そうなのか? と思わず机上のボタンを押したくなるトリビアである。
 フランスに最初に紹介された作品はシリーズ第一作の『ビロードの爪』(1933)、「Perry Mason et les griffes de velours」のタイトルで、《探偵》選集第48巻としての出版だったようだ。私はいつか《ペリー・メイスン》も順番に読みたいと思っていて、全冊集めているのだが、まだ3冊目までしか達していない。なので本作『家の中の見知らぬ者たち』が《ペリー・メイスン》に似ているのかどうか判断できない。ぜひとも識者のご意見をうかがいたいところだ(翻訳家の白石朗氏がうってつけだろう!)。
 私自身は、本作の裁判シーンは前作『フールネの市長』におけるクライマックスシーン、市議会での主人公の葛藤と決断、そのふるまいを発展させたものだと感じる。よって本作は『フールネの市長』とセットで読むのがよいと思う。
 本作は死体の発見から裁判に至る過程を経て、実際に公判での証人たちとのやり取りを詳細に辿り、そして真犯人が暴かれる物語であるものの、主眼は読者を驚かせるミステリー的趣向を盛り込むことにあるのではない。その点において《ペリー・メイスン》ものとはくっきりとした違いがある。では本作の主眼は何かというと、評論家ドゥニ氏が指摘している通り、また当時シムノン自身もそう語っていたそうだが、第一に「家族」についてであり、さらに絞りこむなら「父性」についてだといってよい。おそらくほとんどの読者は惑うことなくこの主題を明確に感じ取ることと思う。むしろそれがわかりやすすぎる、ということこそが、本作の特徴そのものなのだ。
 これまでシムノン作品のなかで描かれる「父性」像とは、まさにメグレ警視も含めて、作者シムノンの父親であるデジレ・シムノンの置き換えであったと思う。そしてシムノン自身の目線は若者の側にあった。最近新訳が出た初期メグレものの『サン゠フォリアン教会の首吊り男』第3回)が格好の例だが、作者シムノンのまなざしは不良を気取る若者集団と同じ位置にあり、しかしそういうおのれを否定するかのようにあえて中年のメグレを登場させ、若者たちを子供扱いしてみせる。そうした物語展開の処理それ自体が、青臭さを残す作者シムノンの青春の影と捉えることができたわけだ。初期のロマン・デュール作品『赤いロバ』第38回)もまた酒場に屯する若者たちの物語だが、シムノンは地元リエージュで芸大の学生たちとつるんでいたころ、《ニシン樽》の仲間たちとしばしば実在のバー《赤いロバ》に夜中まで居座ってくだを巻いていた。『赤いロバ』も作者の目線は主人公の若者と同じ位置にある。これまでのシムノンならドッサンやマニュら不良グループの方向から物語を紡いだはずだ。
 しかしシムノンはついに自分が近く父親になるのだという事実を知った。その事実を前にして、シムノンの目線は父親の高さに変わったのである。明らかに本作でシムノンは主人公ルールサの目線に合わせて物語を書いており、容疑者となる若者マニュについては父親としての目線から彼に共感を抱き、そうだ、若者というのは本来こういうものであったではないか、と過去を振り返るかたちでその正当性を認めようと努力している。《ニシン樽》の内部からではなく、外部に立つ大人、しかも娘のことがわからない孤立した父親としての立場から、《ニシン樽》の若者たちを理解しようとする。大きな転換だといってよい。
 これは作者シムノンがおのれの未来を想像して、その未来の立場からおのれ自身を描こうとした、ということだと思う。私も以前に「きみに読む物語」という短篇でそれをやったことがある。これを書いているときまだ私は自分と日本SF作家クラブ事務局の間で生じていた諸問題を公表してはいなかったが、すでに会長を辞して日本SF作家クラブを離れることは決心していた。私はこの作品で自分の未来の姿を描いたのである。クラブを離れることで仕事がなくなり世間から忘れ去られることも予想していた。
 シムノンも生まれてくる子ども(たち)と自分の関係がいつか危機的状況を迎えるであろうことを作家の直観としてずばり予見し、それを書いたのであろう。一種の自傷行為であるが、そうした作品は生々しい痛みを内部に刻み込んで、かえって誰もが身に憶えのある、普遍的な世界描写へと転換されることもある。そして作家がおのれの未来を予見すると、ときに恐ろしいほど当たるものだ。実際、後にシムノンは自分の娘が非行に走り、そして自分を嫌って自殺を遂げるという痛ましい事態に遭遇し、精神的危機を迎えることとなる。
 つまり本作で書かれた未来の「父性」の有様は、より普遍的な読み解きが読者のなかで可能となった。戦争に突入してゆくフランスそれ自体の象徴として読めるようになったからである。地方都市に暮らすブルジョワたちは、自分の子どもたちが陰でどんな悪さをしているのかも知らずにのほほんと暮らし、いったんそれが明るみに出かかったら、体面を気にして事件そのものをもみ消そうとする。ブルジョワの息子たちは突っ張って不良を気取っているが、若い彼らのなかにさえ親から無意識のうちに受け継がれたカースト精神が染み込んでおり、貧しい家庭に育ったマニュは真っ先に司法への生け贄として差し出される。そればかりか本作を最後まで読むと、移民や他民族に対する根強い差別意識がフランス人ブルジョワ階級の若者たちを蝕んでいたこともわかる(はっきりいえばユダヤ差別の問題が背後に隠れているとわかる)。そのようなフランス自体が抱えていた矛盾、他者への差別意識といったものが、この物語の裁判シーンを読み進めることで、嫌が応にも読者の心に浮かび上がってくるのである。
 本作のタイトルLes Inconnus dans la maisonで「見知らぬ者」は複数形になっており、このことが物語の進行とともにいくつもの意味を纏ってくるのも特徴のひとつだ。まず三階の部屋でひとりの見知らぬ男の死体が発見された。やがて自分の娘がその「でかいルイ」や、仲間のマニュを家へこっそり招き入れていたことがわかる。「見知らぬ者」はここで複数となった。しかし物語の後半で、本当にあの家で孤独だったのは自分だったのではないかとルールサは気づく。娘や使用人たちと暮らして表面上は家族の体裁を保ってはいたが、飲んだくれてばかりの自分はあの家のなかで誰よりも孤独で「見知らぬ者」だったのではないかと思い至る。「見知らぬ者」は単数と複数の間で揺れ動くのである。
 だからこそ主人公の弁護士ルールサは、おのれの「父性」を取り戻さなければならない。それはフランスがフランスを取り戻すことでもある。そして実際にルールサはおのれを取り戻して、この物語は終わるのだ。この展開は陳腐だが普遍性を備えている、といったのはそういう意味である。リアルタイムで読んだフランス人読者にとっては、きっと心に刺さるものがあっただろう。ドゥニ氏が詳しく解説している。あえて堅い言葉遣いのDeepL翻訳で紹介しよう。

 シムノンが社会を観る際の暴力性と厭世観は珍しいものではないが、ここではその背景によって説明できる特別な激しさがある。人民戦線の失敗後、ミュンヘン危機の最中に書かれたこの小説は、当時最高潮に達していた社会不安を追体験して取り上げる。社会的な言説が物語を貫き、文章に付加されているように思える。予審判事デュキュの長い供述は、保守的なブルジョワジーの抱く道徳的言説のパロディのようであり、もとボクサーのジョーが若娘ピガスとの会話を報告する台詞などは最高のポピュリスト映画から引き出されたように見える。最後に、ルールサに焦点を絞った三人称のナレーションは、他の小説以上に、ムーランの上流中産階級にまつわる苛立ちや、ときには粗野な暴力を伴う人物の声を聞く機会を与えてくれる。ルールサの言葉によって支配されるこの言説の並置は、社会的緊張を反映する対立を組織する。(DeepL翻訳を一部改変)

 本作はこれまで3回映画化されており、なかでも最初のアンリ・ドコアン監督、レイミュ主演のモノクロ版(1942)は、フランス映画史のなかでも重要な位置づけがなされている。というのもフランスは戦争に突入してパリが占領され、それから数年間は庶民の娯楽である映画もドイツ資本に頼って制作されることになったからだ。レイミュ主演版『家の中の見知らぬもの』は、新設されたドイツの映画会社「コンチネンタル社」によって初めてつくられたシムノン原作映画であった。
 やはりドゥニ氏の解説に拠ると、コンチネンタル社は1940年末には早くもこの原作小説の映画化権を取得しようとシムノンに接触を試みていた。1941年2月末に契約は締結し、ここから8本以上のシムノン‐コンチネンタル映画がつくられることになる。シムノンは《メグレ》シリーズ全作品の権利もコンチネンタルに譲った。こうしてドイツの映画会社とビジネスを続けたので、シムノンはパリ解放後に疑惑をかけられる羽目になったのである。
 脚本を担当したのがアンリ゠ジョルジュ・クルーゾーであったというのは興味深い。監督業にも進出し、戦時中には『犯人は21番に住む』(1942)、『密告』(1943)を発表。戦後も『犯罪河岸』(1947)、『情婦マノン』(1949)、『恐怖の報酬』(1953)、『悪魔のような女』(1955)と傑作を撮っている。本作における彼の脚本は原作にかなり忠実なものだが、クルーゾーのファンの方々なら本作にも私以上にクルーゾーらしさを見出すことができるのではないか。私は映画の冒頭で、雨に滲む夕暮れの街並みが映し出されるなか、「Il pleut sur la ville ……(街に雨が降りしきる……)」とナレーションがかぶさり、そこから主人公ルールサのぼんやりとした夕食シーンへとカメラが入り込んでゆく導入が好きだ。
 原作にかなり忠実と書いたが、実はクライマックスの描き方だけは大きく異なり、ここがレイミュ版映画の最大の見所となっている。シムノンの原作では公判が始まっても弁護人席に座る主人公ルールサは心のなかであれこれ自問自答を繰り返し、自分の父性について反省と考察を巡らせ、そのあまり集中力を欠いて、証人や裁判長の話を聞き逃すことさえある。久しぶりに法廷に出て落ち着きがないのだ。しかしレイミュの映画版ではこの内省描写がすべてカットされており、そのため私たち観客には、当初ルールサが裁判にまるで無関心であるかのような印象を与える。若者たちが次々と証言台に立って供述し、その度に「弁護側は何か質問があるか?」と裁判長はルールサに声をかけるのだが、「いや、ありません」とつっけんどんに返すばかりなのだ。これには被告席に座るマニュも心配になってくる。傍聴席に座るルールサの娘ニコルも気が気ではない。本当に父はちゃんと弁護してくれるのか。
 だが映画ではある場面からいきなりルールサが雄弁に語り出し、それまでの無関心ぶりなどなかったかのように、情熱的に陪審席や裁判長に訴えかける。このシーンは唐突に始まるが非常に視聴者の心を高揚させる演説で、この数分間で完全に形勢は逆転し、真犯人は特定され、地方都市のブルジョワ階級に蔓延する腐敗も糾弾され、貧しき若者マニュは自由の身となるのである。主人公ルールサを演じたレイミュはフランスでは有名なコメディ俳優だが、シムノンの『ねずみ氏』第79回)の映画版で見せたコミカルな小悪党ぶりとはまるで異なる、前半は酔い潰れた自堕落な中年男を、終盤はきりりとした表情で法廷に集うすべての人を納得させるスピーチを力強く発する有能な弁護士をそれぞれ演じ、説得力のある見事なルールサ像をつくり上げた。ただし時節への配慮のためか、ユダヤ人への差別問題は背後に隠され、代わりにマニュとニコルの恋愛感情が美しく前面に押し出されている。
 2番目の映画は英国でつくられた(1967)。主役の弁護士はジェームズ・メイソンが演じ、舞台も当時のサザンプトンに変更されている。不良グループの若者たちは冒頭で安っぽいサイケな装飾のディスコで踊り、クスリを吸い合う。主人公が過去を回想するシーンですべての背景が真っ白に塗られたスタジオセットになるのが視覚的に面白い。全体としてはやはりシムノンの原作に沿っているが、犯罪が生じるまでに至る若者たちの行動が逐次フラッシュバックとして挿入されるので、ずっと裁判シーンが続くよりはストーリーが理解しやすい。原作に書かれた殺人の動機がこのメイソン版では大きく扱われ、生々しく描かれているのは、やはり時代の要請によるものだったろう。
 タイトルは『Stranger in the House』と単数形になっている。これは物語の終盤で、主人公が「自分こそあの家のなかでは見知らぬ者だったのだ」と気づくくだりが強調されているためだと思われる。もうひとつ、作中で主人公が何度かドストエフスキーの長篇小説『罪と罰』に言及し、君たち若者も自分もこの小説の登場人物のようだと感慨を述べるのが、監督らの目論んだ主題を直截的に表現していて「おっ」と思わせる。シムノンがドストエフスキーに似ているとはよくいわれることだが、このようにはっきりとドストエフスキーに言及してみせたシムノン映画はこれまでなかったと思うのだ。
 3番目はフランスの国民的俳優、ジャン゠ポール・ベルモンドが主演を務めた映画(1992)で、こちらも『L’Inconnu dans la maison』とタイトルは単数形に変更されている。舞台はやはり現代で、ルールサと娘は3階建てのアパルトマンに住み、彼は地下の酒蔵に放置された大量の古ワインを毎日飲んで暮らしている。妹夫婦は豪勢な一軒家に暮らしており、その格差がルールサの敗北人生を表現しているといった具合だ。
 父娘の人生再生という側面が強調され、両者が身を寄せ合って裁判所から明るい外へと出て行く後ろ姿のシーンで映画は終わる。全体的にはあまり盛り上がりがなく、後半の法廷シーンもほぼ経時的な会話劇として進行し、途中で回想シーンなども挟まれないため、やや退屈に思えるかもしれない。老境の域に達したベルモンドはやはり俳優として存在感があるし、娘役の俳優も可憐で美しいのだが、妹のひとり息子ドッサン以外の不良グループそれぞれの描写が非常に少ないので、無軌道な若者たちが起こした犯罪という物語の重要な側面が見えにくくなってしまっている。
 なおメイソン主演版と同じタイトルの映画『Stranger in the House』(ロドニー・ギボンズRodney Gibbons監督、ミシェル・グリーンMichele Greene主演、1997)は、シムノンとは無関係。

 本作の最初の邦訳は、作家の遠藤周作が手がけたことでも知られている(1955)。芥川賞を受賞する直前のアルバイト仕事だったのだろうが、戦後初の交換留学生としてフランス第3の都市リヨンに3年間留学し、カトリックと文学について学んだ遠藤が、どのように当時シムノンを読んで、どんな感想を持っていたかは興味が募る。
 残念ながら遠藤の翻訳版に彼自身のあとがきはついておらず、試しに留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』や生誕百年記念で出た初期エッセイ集『フランスの街の夜』を読んでみたが、シムノンに言及した記事はなかった。当時の日記を探せば記述があるかもしれないが調査できていない。
 戦後のリヨンで日本人の遠藤は孤独を覚えつつ、しかし学友とコミュニスムやレジスタンスやサルトルやソビエトのことについて熱心に語り合った──もちろんカトリックについても。リヨンは大都会と思われているかもしれないが実際はブルジョワ階級が社会や大学で幅を利かせ、街は「悪魔的(ディアボリック)」で、降霊会の習慣さえ残っていた、と若き日の遠藤は記している。そうか、A・E・W・メイスン『薔薇荘にて』で降霊会が出てきたのは、意外とフランスをちゃんと取材した成果だったんだなと、読みながら妙な繋がりに気がついた。そして彼は映画をよく観た。彼が本作を翻訳したのは、どこかで事前にレイミュ版の映画を観ていたためかもしれない。
 遠藤はシムノンほど世間に対して拗ねていない。斜めに見る代わりにおのれの孤独を噛みしめている。だが活字からいまも迸り出てくる若き日の情熱は、シムノンが地元リエージュでつるんでいた《ニシン樽》の仲間たちが抱えていたそれと通じ合う。若者だけが持つことのできるいっときの輝きは、多くの人は大人になって忘れてしまうが、作家という職業の者たちだけはその若き日から筆を執り、その瞬間の輝きを、自分でさえも忘れてしまう大切なものを、文章として書き残しておくことができる。
 遠藤周作も後におのれの分身を小説のなかに描いた。彼は恐怖小説も書き、日本ホラー小説大賞の設立に協力し、第1回の選考委員も務めたが、その翌年に亡くなって、私は一度もお目にかかることができなかった。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。

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