・Oncle Charles s’est enfermé, Gallimard, 発行年記載なし(1942) [原題:シャルルおじは閉じ籠もった] ・初期タイトル:Alerte chez les Dupeux, Oncle Charles a disparuさらにLes Filles Dupeux [デュプー宅を警戒せよ、シャルルおじは姿を消した、デュプー家の娘たち] ・執筆:ニュル゠シュル゠メール(シャラント゠マリティーム県)1939/10 ・Tout Simenon t.23, 2003 Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012, 2023 ・Uncle Charles Has Locked Himself In, translated by Howard Curtis, Harcourt Brace Jovanovich, 1987[米]* |
早ければ午後四時には暗くなる時期だった。
ローランスは車輌を反対方向へ入れ替えようとしていた運転士とともにトラムを降りた。そしていつもと同じく、月が地平線上の空に浮かぶのと等しい高さの頭上に、踏切の赤信号の灯りを見た。
彼女は冷たく濡れた門を押し開けた(セリーヌの家にいる間に雨が降ったのは間違いない)。彼女は両側を見渡した。先の物陰にはただ色づいた複数の灯りと、威嚇的な雑音と、噴出する蒸気だけがあった。
「速く来い!」と小さな旗を持った男が叫んだ。
横断するには線路が多すぎ、四本も五本もあって、それに石油精製所から来たタンク以外の何ものでもない車輌が、いつも隊列を組んで動いていた。
「いつか、きっと……」
ローランスは線路を渡るたびにそう繰り返し、ほっとして反対側の門を開けるのだった。ここからは静かで、ほとんど誰もいない、同じような家が並ぶ一本道だ。ガス灯とふたつのショーウィンドウの距離感がすべてだが、ショーウィンドウはちゃんとしたものでさえなく、郊外で商いをする民家の窮屈な陳列台に過ぎなかった。(瀬名の試訳)
今回読む長篇『シャルルおじは閉じ籠もったOncle Charles s’est enfermé』は米翻訳版ハードカバーのジャケットデザインがしゃれていて、以前から興味を惹かれていた1作である。そしてタイトルからしていかにも〝シムノンらしさ〟が漂っている。失踪、消失、閉じ籠もりといった、登場人物が不意に起こす人生の一大事は、シムノン作品のなかで繰り返される特徴的モチーフだ。そのモチーフが初期のころから少しずつ変奏を遂げてきたこともこれまで見てきた。
本作は大戦が始まって1か月の1939年10月、『雨だよ、羊飼いの娘さん…』(第102回)と同じ月に書かれた。この前後にシムノンは短篇作品も量産しており、家にいる時間が長くなって、かえって筆が進んだ時期だったのかもしれない──ただしシムノン自身が子育てや家事を率先しておこなったのかどうかは、調査不足で不明である。
上掲のように、本作は何気ないふだんの生活シーンから始まる。シムノンの筆致は第二期特有のしなやかで伸び伸びとしたもので、生命力に溢れている。その筆が連れてゆく物語の先は、しかしこちらが予想していないものだった。タイトルからはソリッドシチュエーションと呼べるような、すなわち何らかの抜き差しならない理由で部屋に閉じ籠もった男とその家族との間に繰り広げられる、閉鎖的で張り詰めた心理戦が想像されるのだが、本作は驚いたことに、そのような物語とはならないのである。
シャルル・デュプー48歳は、ルーアンで妻のローランスや娘たちと暮らす男である。彼は義弟のアンリ・ディオネと20年前から小さな商社を経営している。アンリはローランスの妹エリーズと結婚しており、やはり家族はルーアンに暮らしている。
ローランスはいつものようにジョセの店で食料品を買って帰宅する。やがて次々と娘たちも帰ってくる。シャルルとローランスの間には4人の娘がいるのだが、そのうち長女のマリーは2年前から実家を出ており、いまいっしょに暮らしているのは着飾るのが好きな保険会社勤めのモーリセット、20歳で年頃のカミーユ、そしてそろそろ男性に興味を持ち始めた最年少の16歳ルルの3人である。
その晩、父シャルルはオフィスから自宅へ戻ると、そのまま黙って階段を上がり、天井裏の空き部屋に入り込んだ。食事の仕度ができて家族が声をかけても降りてこない。妻のローランスが異変に気づいたのはしばらく経ってからだった。寝る時間になっても夫からの返事はなく、部屋から出てくる気配もない。「シャルル? 子供じみたことをしないで降りてきて」と声をかけるが、部屋の扉は施錠されていた。
ローランスは長年の無変化な暮らしのため、いささかだらしのない主婦となってはいたが、さすがに不安になって、同じくルーアンに住む自分のきょうだいのところへ翌日相談に行った。ローランスは旧姓ボバン、5人きょうだいの長女である。妹がローランスの下にエリーズとセリーヌのふたり、男きょうだいが兄のポールと弟のアルチュール。エリーズは先述の通りアンリ・ディオネという男と結婚し、セリーヌは画家のボビネックという男と家庭を持って、すでに5人の子どもがいる。ローランスはセリーヌの助言を受けて兄のポールを訪ねた。ポールは新聞社で校閲の仕事をしており、ふらふらと職の定まらない弟アルチュールと違って、彼は一家のなかでいちばんのインテリなのである。しかし解決策は見つからない。シャルルは食料品も空き部屋に持ち込んで、籠城の準備をしていたようなのである。煙突柱を通して下階の家族の会話はいくらか聞こえるはずだが、妻や娘たちの方からはシャルルの動向がまるでわからない。
結局、アンリらがデュプー家にやってきて、部屋に閉じ籠もるシャルルをみなで説得することになった。シャルルはもとから父親がわからず、母親も5歳のときに亡くなり孤児として育った男だが(デュプーとは母方の姓である)、狂人の血が流れているかどうか確かめようもない。シャルルは若いころにアンリと出会い、もうひとりの仲間ボンデュエルとともに野菜売りの商売を始めたのである。ボンデュエルはほどなくして亡くなったが、商売はそれなりに軌道に乗り、アンリとシャルルはそれからずっとルーアンに食品商社のオフィスを構えて、テレーズ婦人という手伝いをひとり雇うだけで、アンリを社長、シャルルを会計として、仕事を続けてきたのだった。ここへ来てなぜシャルルはいきなり籠城など始めたのだろう。アンリがドア越しに声をかけようとしてもやはり返事はない。だがアンリが諦めて下階へ降りていったその直後、娘のルルだけがはっと気づいた。ドアが開いて父がわずかに姿を見せたのである。再び部屋は閉まってしまったが、父の書いた短い手紙がドアの下に置かれていた。「私をそっとしておいてくれないのなら撃つ」──シャルルは拳銃も空き部屋に運び込んでいたのである。
今回はあえてあらすじ紹介を冒頭2章分までで止めておこう。平凡と思われる子持ちの男が、あるとき突然ひとり部屋に閉じ籠もってしまう。周りの者たちはなすすべもない──ある意味では類型的とさえいえるシチュエーションが最初の2章で整った。彼は何かに対して抵抗を試みているのか、あるいは世間に絶望して極度の人嫌いに陥ったのか、それとも誰かをおびき寄せるための策略なのか。夫のシャルルが籠城したことによって残りの家族の間で猜疑心が膨張し、穏やかで平和な一家という仮初めの姿が消え失せて、互いが互いを攻撃し合い、そして人間の愚かさをさんざん見せ合って自滅していくといった展開を迎えるのか。いずれも類型的で、陳腐な物語だとは思わないだろうか。今回シムノンが提示したシチュエーションは、私たち読者がすぐにいくつもの展開を想像できてしまうという意味で、かなり危険なカードを見せにきた賭けの一番だといえるかもしれない。
伸びやかなシムノンの文章によって読者は続きを読まされてしまうが、この先の実際の展開はかなり奇妙なものだ。まず妻のローランスや娘たちは何とかシャルルに出てきてもらおうと願い、また一方で各人それぞれがそれまで抱えていた、父親シャルルとはあまり関連のない諸問題のために、町をあちこち奔走する。それらの描写でしばらくページは埋め尽くされる。作者シムノンは本作のタイトルをうまく定めることができず苦労した節が見られる。書誌部分に示したように、「デュプー宅を警戒せよ」「シャルルおじは姿を消した」「デュプー家の娘たち」といろいろな仮題が検討されたらしい。私が読んでとても意外に思えたのは、閉じ籠もった本人のシャルルが物語の途中ではすっかり影が薄くなり、むしろ妻や娘たちの人間関係が主軸として話が進んでゆくことだった。本作ではとても多くの人物が登場し、読者にとってはかなり込み入った相関図が浮かび上がる。ルーアンとパリを結んで、一部の者しか知らなかった過去の出来事もあれこれと絡んでくるらしい。そして物語の半ばに再びアンリがデュプー宅にやってきて、ドア越しにシャルルに語りかける。
「そこにいるか、シャルル? 聞いているか? まじめな話をしに来た。シルヴィという名の女を知っているか?」
なおも返事はない。アンリは続ける。
「心配するな、いまこの家にいるのは私だけだ。他の者には出て行ってもらった。きみと取引がしたい。応じてくれるなら48時間以内に私のところへ来てくれ。待っている」
そして私がさらに驚いたのは、物語の半ば、第5章で、父親シャルルは扉を開け、部屋の外に姿を現すことである。廊下に立つ父親に最初に気づいたのは娘のルルだった。父親はいくらか髭が伸びていた。びっくりして父親を見つめる娘に対して彼がまず語りかけたのは、娘が悪い男に引っ掛けられているのではないかという心配の言葉だった。父は煙突越しに家族の会話をずっと聞いていたのである。それがわかってルルはかえって動揺し、父親に激しい罵りをぶつけてしまう。
この第5章で、すでにタイトルの「シャルルおじは閉じ籠もった」というシチュエーションは崩れてしまうのである。物語の後半はふしぎな展開を見せる。社長のアンリはシャルルに説得を試みた翌日から心臓病で倒れ、ベッドで生死の境を彷徨うことになる。一方で年頃の娘カミーユは穏やかな好青年を見つけて結婚を決意し、自宅に連れて来て家族に披露する。結婚話はすぐにまとまり、季節はもはや冷たい冬となって、挙式の準備にみなは追われる。シャルルが閉じ籠もろうがどうしようが、結局のところデュプー家の生活はそれなりに続いていったように見える。結婚話をまとめるときも父親のシャルルの存在感は希薄で、いようがいまいが関係ないかのようである。前半の籠城はいったい何だったのか、と肩透かしの感さえ読者の私たちは覚えるほどだ。
これが他の作家には真似のできない、シムノン独特の感覚でもあるといえるだろう。それぞれの登場人物は絶妙な距離感でつながって〝いない〟。タイトルがまさにその距離感を表していると私は思った。『シャルルおじは閉じ籠もった』というが、そもそもなぜここでシャルルは〝おじ〟と呼ばれているのか? もしデュプー家の娘たちが主役であるなら「シャルル父さんは閉じ籠もった」と書かれるべきではないか。あるいは妻のローランスから見るなら「ムッシュー・シャルルは閉じ籠もった」であってもよい。シャルルを〝おじoncle〟と呼ぶ資格があるのは、厳密にいえば妻ローランスのきょうだいの家の子どもたちであるはずだが、実はシムノンの小説作品では、とくに〝おじoncle〟〝おばtante〟の場合、そういう血筋の厳密性はほとんど考慮されることがない。なんとなく年上の親族の男性を、周りの者たちは〝おじoncle〟〝おばtante〟と呼ぶことが非常に多いのである。父母より年上か年下か、すなわち伯父か叔父かといった日本語上の区別もほとんど関係がない。よってシムノンの小説でoncleやtanteが出てきたときは平仮名で〝おじ〟〝おば〟とすれば充分なのであって、それはいくらか親しみを込めた親族の人、というほどの意味合いに過ぎない。タイトルの「シャルルおじ」とは、誰か特定の人物から見た〝おじ〟ではなく、妻のローランスも、4人の娘たちも、ローランスのきょうだいとその家族にとっても、漠然と呼びかける呼称に過ぎない。だからこそシャルルは家族が大勢いるのに虚無感を覚える男なのであり、空き部屋に何日も閉じ籠もっても結局そのことは家族の生活にほとんど影響を及ぼさないのであり、娘の結婚話に対してもほとんど意見を述べることさえないのである。
ではシャルルは彼自身がそう考えるように虚空の人間なのか、というと、実は違う。物語の後半で、彼は彼なりの決意を持って、いくつかの事案を実行に移し、おのれの力で物事の収束を図ろうとする。それらの結果は、表面的には目に見えないものだが、いくつかの幸福を人々にもたらす。しかし一方で彼は、籠城から出てきたことによって、特定の他者に不安や恐怖を継続させることにもなるのである。
シャルルの籠城行為は、これまでもシムノンが描いてきた人間の逃避行動とよく似ている。これまでの主人公たちはふとしたことがきっかけで故郷を離れ、おのれを見失ったままどこまでも彷徨い、そして自滅してゆくという運命に呑まれることが多かった。しかしシムノン自身が新しい家族を迎える前後から結末は変化し、主人公たちは世界を彷徨い歩くが故郷へ戻り、自分の運命と対峙する傾向が生まれた。対峙してその後、彼らがどうしたのか、どうなったのかは、物語によって変奏していた。本作のシャルルの行動は、かつての主人公たちが故郷を離れたのと同じ意味で、しかし部屋に閉じ籠もるという選択をしたのである。だが自宅の部屋に閉じ籠もるならば過去を振り切ったこととは違う。事実、閉じ籠もる間もシャルルは家族の会話に耳を傾け、家族との関係を完全に断ち切れずにいたのである。だから彼は帰還するものの、すなわちドアを開けてみなの前に再び姿を現すことになったものの、彼はむしろそうしたことによって、おのれの虚無性をいっそう自覚することになるのだ。彼はおのれの空っぽさを埋めようとするかのように、影で奔走する。ついには娘のひとりも結婚話がまとまって、カミーユは新郎とともにカイロへ旅立つことさえ決まるのである。その披露宴の場では長年喧嘩をしてきたアンリとポールも同席して、いっしょに姪の幸せを祝福することになる。デュプー家とその親族にとっては一大事であろう。実際、物語終盤で描き出される結婚式と披露宴での多幸感溢れる描写は素晴らしく、読んでいるこちらも思わず幸せの涙で目が滲んでしまいそうになるほどだ。こんなにも幸せそうな披露宴の描写はいままで出会ったことがない。
これはつまり、家族の物語なのだ、以前に読んだ家族恋愛コメディの『七人の若娘たちの家』(第84回)と同じく、途中はいろいろ難しい問題が出てきたりするけれども、これは作者シムノンがこの時期特有の伸びやかな筆致で描きだした、大きな家族の物語なのだ──。
と、そう思った直後、実はほんの少しだけ心の隅で予感していたことなのだが、恐ろしい結果があまりに無表情な仮面を纏って、読者の前に提示される。
途中で確かに予感は示されていた。なぜシャルルが閉じ籠もったのか、その理由については、ほとんど彼自身の心の呟きのようなかたちで、ぶっきらぼうな叙述によって一方的に説明されるだけだ。シャルルはあるシークエンスで唐突に、社長のアンリと自分の関係が、いまなお殺すか殺されるかの恐怖を孕んでいることを読者に含ませ、宙ぶらりんの不安を私たちに与えてまた口を噤んでしまう。それに挙式のわずか数日前には、あの弟アルチュールがトラックの運転中に子どもを轢いてしまうという事故を起こし、獄に入れられてしまうのである。保釈金を積めば解放できるだろうが家族の誰もそんな大金は持っていない。だが──その彼を唯一救える可能性を持っているのは、実はかつて閉じ籠もったシャルルなのである。しかし彼は義理の弟を助けることがない。彼はまるで影が薄く、誰からも頼られることがないのである。
シムノンの小説を読んでいるとしばしば、「オートマティックに」とか「メカニカルに」といった表現と出くわす。彼は自動的に顔を上げた、彼は機械的に○○の動きをした、といった具合に用いられる。こうした表現は、ロボティクスやAIに関心のある者にとって、非常に気になるものであろう。シムノンは一度もロボットなどという科学の言葉は用いていないが、人間はしばしば機械のようにふるまうという事実をどんな作家よりも鋭く、しかも的確に描写した作家だった。人間はしばしば人間らしさを失う生きものであり、機械よりもひどい虚無に囚われるという真実を衝いた作家であった。
本作では「なぜこの人物はここでこのような行動を採ったのか?」という〝なぜ〟の描写が極めて少ない。シーンとシーンの間をつなぐ動機が書かれない。そのため全体としてはかなり奇妙な印象を受ける。
だがこの時期のシムノンの文章は紛れもなくいきいきとしたもので、その生命力がかえって本作のいびつさを際立たせている。そこにこそ作家シムノンの読みどころがある──と逆説的に唱えることは可能だが、これをもって他の人たちに本書を薦めるのはいささか難しい。
本作のラストで淡々と列挙される各登場人物のその後については、読んでいてまるで自分がロボットであるかのように思えてくる。自分だけではない、この世界すべてが機械仕掛けの箱庭のようである。
おのれは虚無だと感じる心を持つのならば、その主体は決して機械ではなく人間であろう。だがそれもいま現在の時点においては、という条件づきであることは、いまこの世に暮らす私たちには明らかである。
その一方で、本作のなかに何度も挿入される天気や街路の描写の美しさはどうだ。黒く重々しい雨も、冷たく凍った霜も、その合間に見える晴れた空も、その下に立つ花嫁の白いサテンのウェディングドレスの明るさも、そして年末の、しかも週末のルーアンでは、狭い路地に入れば身動きが取れないほどの人出になるというわずかな一文さえも、世界の生命力をこの上なく素晴らしいかたちで示している。それを読む私たちの脳裏には一瞬にして、第二次世界大戦初年のルーアンの年末景色が、霜と氷に囲まれながらも土曜日に3組も結婚披露パーティがレストランで開催されるその幸せな空気が、どんな映画よりも鮮やかに起ち現れる。
この小説は、いったい何なのだろう。そう思わせながらも、読み終えた後、私たちは自分が人間であることに改めて感じ入る。人間賛歌などといったありふれた言葉ではとても表現しきれない、むしろそうしたものとはまったく異なる、まだ私たち人類が適切な言葉を見つけていない読後感がここにある。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
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