・Il pleut, bergère…, Gallimard, 1941/6/15 [原題:雨だよ、羊飼いの娘さん…] ・執筆:ニュル゠シュル゠メール(シャラント゠マリティーム県)1939/10 ・Black Rain, translated by Geoffrey Sainsbury, Black Rain所収, Penguin Books, 1965 (Black Rain/The Survivors)[英]* ・Tout Simenon t.22, 2003 ・Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012, 2023 |
私はあのころ半月窓のそばの床に座り、小さな家具とおもちゃの動物たちに囲まれていた。私の背中は巨大なストーブパイプにほとんど触れそうだった。それは店から繋がって床を横切り、部屋を暖めた後に天井へと抜けていた。面白いことに階下で暖炉の火が轟々と唸りを立てていないとき、そのパイプは音を伝えて、下で話していることがすべてはっきりと聞こえたものだ。
黒い雨が降っていた。私の母は、そのいい回しはあなたが考えたのだという。私がまだ幼かったころからその表現を使っていたのだとさえ主張する。だが記憶に関しては母をあまり信用してはならない。私たちの思い出はほとんど一致したことがないのだ。母の記憶は驟雨のように色褪せて、ミサの本に貼られる紙レースで縁取られた宗教画のようだ。私が母に共通の記憶を呼び覚まそうとすると、彼女は怖がり、怒り出す。
「なんてこと、ジェローム! どうしてそんなことがいえるの? あなたは何でも悪い方に見るのよ! そもそもあなたはとても小さかったでしょう。思い出せるはずがないわ……」
つまり私は機嫌が悪い日になると、母に残酷な遊びをしかけているわけだ。
「ぼくが5歳だった土曜の夜のことを憶えている?」
「どの土曜の夜? また何かを探索するつもり?」
「父さんが帰ってきて、そのときぼくはお風呂だったんじゃないかな……」
母は赤くなって顔を背けた。そしてすぐに鋭い目つきで私を見た。
「それはね、あなたの想像よ」(瀬名の試訳)
これはやられた。まさかいままで読んできた『マランパン』(第100回)や『ベルジュロン』(第101回)が伏線になっていようとは。
上掲のように作品の冒頭部分ですでに私たち読者はしかけに嵌められている。だが私たちは終盤までそのことにまったく気づかない。これがシムノン作品のなかでもさほど注目されず地味な本作『Il pleut, bergère…』の正体だ。執筆作品を順番に追ってこそ本作に込められた企みが衝撃をもって伝わってくる。
まず本作のタイトルだが、これは18世紀オペレッタのなかで歌われた一曲で、原題は「L’Hyménée」(結婚祝歌)という。現在は歌の冒頭部を採って「Il pleut, il pleut, bergère…」(雨だよ、雨だよ、羊飼いの娘さん…)として知られ、フランスではとくに子どもたちに親しまれてきたそうだ。歌詞と訳詞とメロディを以下に示しておく。
http://ezokashi.opal.ne.jp/f_ilpleutbergere.html
https://chanson.hix05.com/chanson_1/121.il-pleut.html
外で羊の世話をしていたら雨が降ってきたので、歌い手の男性は羊飼いの娘を雨宿りとして小屋に誘い、そこで母らと火を熾し、食事をともにして娘をもてなし、ひと晩寝かせてあげる。明日になったらきみの父さんの家に行って求婚しよう、と男は寝つく前の娘にキスを捧げる──そのような歌だ。牧歌的で素朴な歌詞だともいえるし、いささかエロティックで背徳的な内容だと捉えることもできる。
本作でこの歌は一度も登場しない。すなわち作者シムノンは、本作の舞台であるノルマンディーの小村で、かつてずっと雨が降り続いていたこと、主人公の記憶にはずっと雨の光景があったことを、暗示的に伝えているのだ。英訳版は冒頭部にも登場する表現「黒い雨」をそのまま使って『Black Rain』というタイトルになっている。
本作もまた一人称小説であり、主人公であるジェローム・ルクールという男性が、かつて7歳だったころ、自宅のすぐそばで起こったとある事件の記憶を、大人になったいまの時制から遡って思い出してゆく体裁が採られている。おそらくその「いまの時制」とは、私が読んで感じる限り、作者シムノンが執筆時に体験していた第二次世界大戦勃発時という〝現在〟だと思われる。このときシムノンは36歳。つまりシムノンが7歳であったのは1910年ころだが、まさに本作では主人公が7歳であったとき、
私、ジェローム・ルクールは、幼いころの記憶を極めて鮮明に憶えている人物である。3歳の記憶まで辿ることができるし、そのすべてをくっきりと思い出せる。私は幼いころ両親とともに、ノルマンディー地方のプラース・ド・マルシェ(すなわち市場の立つ場所)で生活していた。借家である建物の1階は母アンリエットが経営する生地店で、しばしば隣家の裁縫師フォリアン婦人が手伝いにやってくる。父アンドレは行商人で、毎日遅くまで帰ってこない。家の2階からは市場の鉛色の屋根が広く見渡せた。幼い私はいっしょに遊ぶ仲間もおらず、家具やおもちゃに囲まれて育ったが、2階の自室の半月窓越しに、いつも向こう側の建物の窓辺で肘かけ椅子に座るアルベールという少年の生活を観察し、一度も直に会ったことがない彼を友人と思って暮らしていた。
そうした生活は私が7歳のときに変化する。父のおばにあたるヴァレリーという老女が突然やってきて、私たちの借家に居候するようになったのだ。彼女は自分の家を売ってしまったのだが、それは買い手と弁護士によって騙されたためで、家を取り戻すまでのあいだ父のところに居場所を求めてきたというわけである。両親はいつも働いているので、幼い私がおばといっしょの時間を長く過ごすことになる。だが私はこの狡猾で汚らしいおばが嫌いだった。それでもおばは家に居座って出て行こうとせず、そして時代は無政府主義者フェレールの死をきっかけに、暗く不穏な方へと転換しようとしていた。
フェレールの死はパリからもたらされる新聞によってプラース・ド・マルシェにもたちまち伝わり、そしてパリでは暴動が勃発し、無政府主義者に心酔するひとりが爆弾騒ぎまで起こして、警察はその容疑者の行方を追っていることも人々の知るところとなった。ヴァレリーおばはいつも熱心に新聞を読み込み、なぜか幼い私に何度も読んで聞かせた。そのため私は当時の事件の経緯を憶えているのだ。警察はこの爆弾事件の容疑者の名前と顔写真をフランス中に広め、情報提供者には2万フランの報奨金を与えると告知していた。この金額にヴァレリーおばは強く惹かれた様子だった──いや、誰もが2万フランをほしがっていた。容疑者を見つけ出して大金を手に入れるのだ。だが、実は誰よりも早くその男の行方を知ったのは、他ならぬこの私だったのである。私は気づいていた、向かいの部屋に住む友人アルベールは、彼の祖母とふたりで暮らしていたが、どうもこのところ様子がおかしい。誰かを匿っているように見える。それこそが爆弾事件の容疑者だと幼い私は確信していた。容疑者とはつまりアルベールの父親、ガストン・ランビュールなのだ。
この秘密を誰にも漏らしてはならない。とくに狡猾なヴァレリーおばに知られたら、2万フランの報奨金は彼女に横取りされてしまう。私は慎重に毎日を暮らし、周囲の観察を続けた。私服刑事と思しき男たちが市場をうろつくようになっていた。彼らは何度かアルベールの自宅に踏み込んで捜索をしたようだ。それでも毎日届くパリの新聞には容疑者逮捕の記事が載らない。ヴァレリーおばが新聞を読んで聞かせてくれる。包囲網は狭められ、警察は逮捕が間近であると主張しているものの、いまなお男は捕まっていないのだという。つまり警察はアルベール少年宅を捜索したにもかかわらず、たった2部屋の狭い家からは誰も見つけることができなかったのだ。ではいったい容疑者の男はどこにいるのか? 私だけは知っている。あの窓の向こう、あの閉ざされたカーテンの部屋で、アルベールや祖母ではない誰かが動き回っていることは明らかなのに!
物語はつねに暗く湿った空気を湛えて進む。市場はいつも雨に濡れているか、降っていないとしても先ほどまでの天候を示すように舗道は濡れているか、あるいはいまこの瞬間にも雲は垂れ込めて再びひと降り来そうである。そのため主人公である語り手ジェロームはあまり外出することのない少年時代を過ごし、ヴァレリーおばからは青白い子どもで、いつも家に引き籠もっていると愚痴をいわれるはめになる。だがこれが実は本作におけるもっとも重要な〝トリック〟なのだ。
最初のうち本作はどこを目指しているのかさえよくわからないまま進行する。つまり本作はたんに主人公が少年時代をあれこれ回顧するだけの純文学的随想なのか、あるいは何か事件が起こってその謎を中心に展開してゆくミステリーになるのかさえ判然としないのである。だが私たち読者は中期シムノンに顕著な優れた描写力によって、黒い雨に濡れる片田舎の市場の情景をありありと追ってゆくことができる。突然居座ることとなったヴァレリーおばの人物造形も際立っているので、主人公の少年とこの老女の奇妙な関係を読んでゆくだけでも豊穣な読書体験が約束されたようなものだ。ちなみに「おばtante」といっても主人公のジェロームにとって厳密な意味での「おば」ではなく、正確には自分の父親のおばなのだが、シムノンはしばしばこのように「大おば」にあたる人物のことも「おば」と呼ぶ習慣があり、本作もその一例となっている。
だが物語の半ばに至ってようやくパリでの爆弾事件の容疑者がこの村に潜伏しているのかもしれないという情報がもたらされ、しかもその男は向かいの家の部屋にいるのではないか、それは勝手に主人公が友人と見なしている同年代の少年アルベールの父親なのではないか、という疑念が膨らみ、その仮説は事実として揺るぎないもののように思われてくる。幼いジェロームは自分が気づいたその秘密を必死で隠そうとするが、同時にはっきりと口には出さないまでも、これまでの態度からすでにヴァレリーおばには悟られてしまっているのではないかと危惧するのである。そして実際、幼いジェロームは市場の周りに謎めいた男たちが姿を見せ、彼らが暗躍している様子を鋭く察する。一方で彼は毎日ヴァレリーおばから難しい新聞の文章を読んで聞かせられ、ときおりわからない単語はあるものの、捜査網がじりじりと狭まっていることは理解しているのだ。すなわち物語の焦点は、友人アルベールの父親は本当に向かいの部屋に潜んでいるのか、もしそうならなぜ捕まらないのか、すでに警察が男の居場所を特定できているとして、彼らが踏み込み男を逮捕するその瞬間はいつやってくるのか、という緊張を孕んだピンポイントへと集約されてゆくのである。
本作が素晴らしいのは、物語の後半、そこへ至るまでの過程で、作者シムノンが見事な伏線回収の技を畳みかけてくることだ。これは事前に『マランパン』や『ベルジュロン』といった〝記憶〟を主題とする作品を順に読んでこないとおそらくわからないものである。この時期のシムノンの実生活を改めて振り返ってみよう。シムノンは初めての子どもを授かり、父親になるという人生の一大転機を得た。その過程を通じてシムノンは父性というものの役割を否が応でも考えることとなり、その不安と期待は作品に色濃く反映された。そして息子マルクが生まれてほどなくすると、フランスを始め欧州は第二次世界大戦へと突入し、シムノン自身もこの後は空爆から逃れるため住み慣れたリゾート地の屋敷を手放すことになる。本作が書かれた1939年10月はまさに、シムノンが第二次大戦の勃発を目の当たりにして、かつて自分の故郷リエージュが先の大戦でドイツ軍から大きな被害を受けたことをまざまざと思い出した時期であるはずで、さらに遡って第一次大戦に至る前の、自分がとても幼かったころの記憶を、すなわち無政府主義者フェレールの死が民衆のデモ行進を誘発した不穏な時期を、きっと思い出したときでもあっただろう。
以前から私はシムノンという人物に、極めて独特な記憶形成の特徴が見受けられることを指摘してきた。彼は通常の人よりはるかに鮮明に、とうてい思い出せるはずもないほど幼かったころ見た光景を、思い出して描写できるという特徴がある。だがその一方でしばしば彼の記憶は事実に反することがあり、ほんの数年前の記憶でさえ正確ではなく、まったく別の記憶が混ざり込んで、克明ではあるがフィクションでしかない記憶をあたかも真実であるかのように語る、そういう悪癖も備えていたことがわかっている。
たとえば、シムノンはメグレものの最初の長篇をいつどこで書いたのか。後年、彼はオランダの港町デルフゼイルで『怪盗レトン』(第1回)を書いたのだと語り、それを公式の見解とさえしたが、後年の研究者らの調査によって彼の記憶は間違いであったことが指摘されている。実際にはシムノンがデルフゼイルで書いたのはおそらくペンネーム時代の『マルセイユ特急』(第27回)だったのだ。しかしいったんその記憶が彼のなかで固定されてしまうと、もうシムノンはそれ以外の可能性を思い出すことはできなかった。
初めて書籍のかたちで刊行されたメグレシリーズ第一作の『サン゠フォリアン教会の首吊り男』(第3回)でも、作者シムノンの記憶違いは作品に大きな影響をもたらした。最近出たハヤカワ・ミステリ文庫版の巻末解説で詳細を記したのでここでは多くを繰り返さないが、シムノンが若かったころ、地元リエージュのサン゠フォリアン教会で、画家志望の男が首を吊って亡くなったことは事実である。だが実際にその事件が起こったのは2月のことであったのに、なぜかシムノンの記憶ではそれがクリスマスの出来事として定着していった。その記憶の混乱は後の自伝的長篇『わが友らの三つの犯罪』(第78回)でさらに強固なものとなっていった。『サン゠フォリアン教会の首吊り男』にどこか現実離れしたおとぎ話のような側面があるのは、シムノンの頭のなかでこの首吊り事件が一種のクリスマスストーリーとして再構築されていたからではないかと思われる。そう考えるとメグレが小説の冒頭で行きずりの男の鞄をすり替え、それが原因で男が自殺してしまうという突拍子もない展開や、罪人たちが若い時分からいままでずっと他人の屋敷の2階を借りたままにしていたという、常識的に考えてあり得なさそうな設定も、すべて許せる気がしてくるのだ。
私はこれまで、そうしたシムノンの特異的な記憶のあり方を、いわば独特の作家的特徴として捉えてきた。いまではひょっとして一種の精神的疾患とも見なされるかもしれない、彼自身が生まれついて備えていた〝ギフト〟である。この特徴がシムノンの小説を誰にも真似できない唯一無二のものにしてきたのだと論じてきた。
だが本作でシムノンがしかけた〝トリック〟とは、このおのれの〝ギフト〟に馴染んできた愛読者にこそ最大限の効果でもって発揮されるものだ。あの有名なTVドラマ『X-ファイル』のキャッチフレーズを思い出してもいい──「真実はそこにあるTHE TRUTH IS OUT THERE」から突如として「誰も信じるなTRUST NO ONE」へと反転する衝撃──その大技をシムノンは本作で噛ましてくる。すべての信憑性が揺らぐ第5章のラストシーンには思わず唸らされた。この小説、いったいどこへ向かうのか? もはや読者には何も確かなことはわからないのだ。
最終章は実に詩的に、そして恐ろしいほどの生々しさで綴られてゆく。私はすぐさま『仕立て屋の恋(イール氏の婚約)』(第35回)のクライマックス部分を思い出した。かつて日本ではこの長篇は『群衆の敵』というタイトルで翻訳紹介されたことがある──『イール氏の婚約』はユダヤ人の男が群衆心理の暴走によって集合住宅の屋根へと追いつめられ、そして自滅してゆく物語だった。フランス社会に馴染めないユダヤ男のイール氏は、フランスに深く根づく民族差別の意識によって、まさに「群衆の敵」へと追いつめられる。きっかけはどんなに些細なことであってもよい。だがいったん民衆が暴走を始めたら、それは特定の敵を叩き潰すまで決して止まることはないのである。
本作のクライマックスは『イール氏の婚約』の再演だ。そこに至るまで作者シムノンはもうひとつ鮮やかなトリックをしかけてくるが、それに気を留めている隙さえ与えず、作者シムノンは彼のキャリアのなかでもっとも美しいといえるほど見事な情景を描き始める。
アナーキストのガストン・ランビュールが潜伏していることを知った村人たちが市場に集まってくる。彼らは暴徒となり、建物に次々と投石して、罪もない隣人宅の窓ガラスさえ破壊してゆく。警官たちが乗り込む際には人々の口から「死ね! 死ね!」「ポリ公に殺されろ!」と大合唱が湧き起こる。何人もの男たちが市場の屋根によじ登り、逮捕の瞬間を見届けようと躍起になる。このようにすべての箍が外れて人々が群衆心理の暴走に陥ってゆくさまを、7歳の少年ジェロームは自宅の2階の窓から見届けるのである。そして目の前にある友人アンベールの自宅へ警官たちが、ついに突入してゆくその瞬間も、彼は同時に目撃するのだ。
彼の横には父と母がいる。彼は恐ろしくて母の袖を握りしめるほかない。そしてあの醜いヴァレリーおばは? いつしか下階へ降り、街路へと飛び出して群衆のひとりとなり、彼らといっしょにアルベールの家の戸口へ、押し合いへし合いしながら突入してゆくのである。そして容疑者ガストン・ランビュールはどうなるか? それまで一度も主人公の前にはっきりと姿を現さなかった彼は、ついにその全貌を現し、屋根に上って逃げようとする。警官もまた屋根に上って彼を追いつめる。群衆の喧噪はクライマックスに達し、「死ね! 死ね!」の大合唱が響き、そして月が輝く市場の夜空に、まるで7月14日の革命記念日のような花火が上がる! 映画『ミッドナイトクロス』【註1】に先んじて、シムノンは何と花火を打ち上げたのだ!
第二次世界大戦が始まった時期に、シムノンが群衆心理の暴走を改めて描き出したのは、ただの気まぐれではなかっただろう。フランスの医師ギュスターヴ・ル・ボンが著書『群衆心理』を著したのは1895年のことであるが、彼が示した操縦者の断言、反復、そして感染による群衆の暴走現象は、〝人間らしさ〟の本質を繰り返し問うシムノンの世界において最重要テーマのひとつであったはずだ。シムノンは戦争勃発を目の当たりにして、群衆が人間でなくなってゆく世界がいつでも身近に起ち現れることの真実を描いたのである。シムノンは自分さえもそのように人間でなくなる可能性があることを、この時期改めて知ったのかもしれない。自分にとってこれほど鮮明で、確実に思えるすべての記憶さえも、実はまるで間違ったものであるのかもしれない。ならば自分のアイデンティティはどこにあるのか? 息子をひとり授かったシムノンは、新たな人生の主題を見出したのではないだろうか。たとえ自分が虚無であったとしても、ここに生まれてきていま目の前にいる息子は実在しており、それはすなわちおのれの血統が次の歴史に継がれることを意味する。自分は一個の虚無であるが、同時に息子という他者の実存を証明する父親でもある──こうした大いなる矛盾のなかで、シムノンはさらに作家として、おのれの行く先を探っていったのではないだろうか。
それでいて本作のラストのひねくれ具合はどうだ。あんなに居座り続けていたヴァレリーおばは、あるときほんの些細なことがきっかけで主人公の家を出てゆくことになる。そのあまりにばかばかしい顚末で本作は終わる。だがそのばかばかしさは、あまりに呆気なくそれゆえかえって実際に起こりそうなことで、まるで私たち人間が誰しも持っている宿命のようにも思える。
第二期シムノンの充実ぶりには目を瞠るものがある。本作『雨だよ、羊飼いの娘さん…』は、決してシムノンの代表作と呼ばれるものではない。それでもこんなに豊かなのだ。
やがてシムノンは、必然的といってもよいだろう、おのれの回顧録を書き始める。途中でその原稿は作家アンドレ・ジッドの手元に届き、ジッドはそれを三人称の小説形式に改めるよう進言する。そうして戦時中に書き上げられるのがシムノン最大の長篇『血統書Pedigree』(1948)だ。
私たち読者もその頂へ向けて、一歩ずつ進んでゆくことになるのである。
【註1】
『ミッドナイトクロス』はアメリカのフィラデルフィアを舞台にした、ブライアン・デ・パルマ監督による1981年のサスペンス映画。アメリカ独立記念日のパレードや打ち上げ花火が重要なモチーフとして用いられる。瀬名は1980年当時、家族とフィラデルフィアに住んでおり、偶然にも父とふたりで市街地に出向いた際、パレードシーンの撮影現場に遭遇した。撮影スタッフから「この旗を持ってパレードを歓迎してくれ」と旗を手渡されてモブシーンに加わった記憶が私にはあるが、後年に目を皿のようにして映画の当該シーンを捜しても、自分の姿を見つけることはできなかった。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
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