・Le Bougmestre de Furnes, Gallimard, 発行年記載なし(1939)(1938/秋-冬 執筆)[原題:フールネの市長] ・« La Revue de Paris » 1939/5/1-1939/7/1号(第9号‐第13号、全5回) ・The Burgomaster of Furrnes, translated by Geoffrey Sainsbury, Routledge & Kegan Paul, 1952[英]* ・Jérôme Leroy, « Je ne connais pas Furnes » Simenon ou les paradoxes du réalisme, Les Amis de Georges Simenon, 2002* [「私はフールネを知りません」──シムノンあるいはリアリズムの逆説] ※研究同人小冊子、限定50部 ・Tout Simenon t.22, 2003 ・Les romans durs 1938-1941 t.4, 2012, 2023 ・Les Essentiels de Georges Simenon, 2010 ・Simenon Romans I</strong>, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2003 |
警告
私はヴェルヌを知らない。
私は[そこの]市長も住民も知らない。
私にとってフルネは音楽のモチーフ[のようなもの]に過ぎない。
だから私の物語の登場人物に自分を重ね合わせる人がいないことを願っている。
ジョルジュ・シムノン
第一部
1あと2分で5分[〝5時〟の誤り]。ジョリス・テルリンクは、いつも机の上に置いているストップウォッチの時刻を見るために頭を上げたが、それには十分な時間があった。
まず、赤鉛筆で最後の数字にアンダーラインを引き、「サンテロイ[サン゠テロワ]新病院の給水設備と配管工事全般の見積書案」と書かれたファイルを閉じる時間があった。
そして肘掛け椅子を少し背もたれに押しやると、ポケットから葉巻を取り出し、ウエストコート[胴衣]から取り出したきれいなニッケルメッキの器具で葉巻の先端を切り落とした。
11月下旬だったため、夜はふけていた。ヨリス[ジョリス]・テルリンクの頭上、ヴールン市長の執務室[の天井]には、黄色い涙[滴]の偽物が塗られた電気ロウソクの輪があった。
(DeepL翻訳に瀬名が[カッコ]で補足)
今回初めて「DeepL翻訳」でフランス語原文から出力された日本語訳文をそのまま載せてみたが、いかがだろうか。ほとんど違和感なく読めることが驚きだ。地名や人物名などの固有名詞に揺れがあるのを修正すれば、そのまま同人誌販売ないし商業出版できるレベルに達しているのではないか。本連載で6年前の2017年(第36回『赤道』他)に語っていた未来像はほぼ達成されつつあるわけで、深い感慨を覚える。
さて今回読む長篇は、英訳版が戦後の古いハードカバー1種類しか出ていないのでいまも英語圏で稀覯本と見なされているものの、シムノンファンの間では非常に名が知られ、また評価も高い1作である。これが書かれたときシムノンは作家アンドレ・ジッドとの文通を始めていたが、そのなかで本作のことに触れ、
「ガリマール社に送ったばかりの『フールネの市長』で、私は新たな段階を迎えたと思う。[作家かつ評論家であるアンドレ・]テリーヴの言葉を借りれば、少なくとも今日までのところ私の『最高傑作œuvre de maîtrice』だ」(DeepL翻訳を改変)(1939年1月6日付)
と自信のほどを覗かせた逸話で知られているからだ。それが今回取り上げる『フールネの市長Le Bougmestre de Furnes』(1939)である。2003年にフランスでシムノンのプレイヤッド版長篇集が刊行され、このプレイヤッド叢書に入ったらフランスでは文豪と認められたことになるのだが、まさしくその選集にも本作は『運河の家』『雪は汚れていた』などと並んで収録されている。
さて、その冒頭部でとりわけ目につくのが、これまでシムノンの作品ではほとんど見ることのなかった「警告」なる短文だ。わざわざ「この物語はフィクションである」と断り書きが記されているわけで、なぜシムノンはこのような文章を載せたのか、これについては後で詳しく考察する。
続いて、DeepLによる機械翻訳の特徴を見ていただきたい。もっとも表記の揺れが激しいのは、作品のタイトルにも入っているFurnesという市名だ。Furnesはフランスとベルギーの国境に位置する北の町で、ダンケルクから少し東へ行ったその国境の先がベルギーのFurnesである。Veurneとも書かれ、フルネ、フールネ、フェルネ、ヴールン、ヴールヌ、ヴュルヌ、ヴュルネ、ヴァーナなどと記述される。またフランス語名はフュルヌであるとウェブで調べると出てくる。本稿では(私・瀬名が判断を間違えている可能性も自認しつつ)「フールネ」で仮に統一した。
第3点として、冒頭部に「第一部」と書かれている通り、本作は従来のシムノン作品と比較してやや長めの長篇であることに注目したい。本作はほぼまんなかで前後2パートに分かれる。『ドナデュの遺書』(第58回)のようにパートが変わると数か月の時が流れる。舞台はミニマルだが、過去と未来に対する広がりも持ち合わせた物語となっているのだ。
では小説の内容を見てみよう。
主要舞台はベルギー、フランドル地方の小都市フールネ。主人公はジョリス・テルリンクという50絡みの男である。かつて貧乏であったがいまは葉巻会社の経営者として成功した彼は、今期からフールネ市長に選出されていた。薄い露が立ち籠める11月、彼は自宅から歩いて市庁舎へ向かう。市庁舎の鐘がフールネ市民に時刻を知らせる。彼は自分の秘書のことを名前ではなく「ケンペナールKempenaar」(秘書)と役名で呼び、また秘書も彼のことを「バースBaas」(ボス)と呼ぶ。彼は他の市会議員や市民からも「バース」と呼ばれる存在だった。この町では人々はふだんからフールネ訛りのフランドル語を話す。彼の執務室の壁にはかつての偉大な市長、ヴァン・デ・フリートの肖像画が架かり、いつも彼を見下ろしている。
市長の仕事は書類に目を通して水道や電気工事などの公共事業を進めること、市議会に出席することだ。夕方の鐘が鳴れば自宅に戻り、使用人のマリアがつくったスープや馬鈴薯を妻のテレサと食べる。ジョリスはときにケース夫妻が営むカフェバーで飲むこともある。だが必ず一日に一度、自宅の2階に暮らす精神疾患を患ったひとり娘エミリアの部屋へ行き、「今日はいい子にしていたかい?」と限りない愛情の言葉をかける。エミリアは裸で、排泄物も自分で処理できず、父から渡されたボウルの中身しか食べない。しかし、こうしてエミリアと向かい合うときだけ、彼は人間的な自分に戻るかのようでもあった。
ある夕刻、ジョリスの自宅へ、葉巻工場で働いているジェフ・クレースという19歳の若者がやってきて、自分は母が病気で、しかも恋人の娘が妊娠して、中絶の費用もない、どうか1000フラン【註1】貸してほしい、あなたならそのくらいの金はどうということもないでしょう、と懇願してきた。他人の不幸に関心のないジョリスは「金がなければ死ぬほかあるまい」と拒絶し若者を追い出す。しかしその後に惨事が起こった。絶望したジェフは路上から恋人の家に発砲して相手に傷を負わせ、さらに自分も銃口を咥えて自殺したのである。若者ジェフの恋人はリナ・ヴァン・アム18歳で、しかも彼女は前市長で現在は市議会議員であるレオナルド・ヴァン・アムという醸造業者の娘だった。レオナルドはジョリスにとっての政敵である。
【註1】これがベルギーフランなのかフランスフランなのかは不明。プレイヤッド版『シムノン集1』(2003)の巻末に収められたジャック・デュボワJacques Duboisの解説に拠ると、現在の金額に換算してもどちらも中途半端に多いか少ない額であるとのこと。
翌朝、ジョリスは市庁舎でジェフの母親を迎える。葬儀の金もないというのだが、市長の知ったことではないと彼は思っていた。それでも場を取り繕い、秘書に貧困証明書や棺を手配するよう指示する。リナの父レオナルドも市庁舎を訪れたと聞いたが擦れ違いだった。今回の件はジョリスにとって、政敵レオナルドをスキャンダルに追い込み失墜させるチャンスでもある。レオナルドは妻に先立たれた男やもめであり、息子はブリュッセルの空軍にいるが、この噂が広まれば除隊もやむなしとなるだろう。だがすでに妊娠4か月だという娘はどうするのか。
しかし若者ジェフを援助しなかったジョリス自身もまた、今回の件で権威主義的で支配的な男だと噂され、世評を落とすことになるかもしれない。
実際のところジョリス・テルリンクは家庭内に複雑な問題を抱える男であった。彼の妻テレサはこの地区でもっとも古い家系の生まれで、父はジュスタス・デ・バーンストという建築家だったが、やはりジョリスと同様に当時は貧しい生活をしていた。ジョリスはテレサと結婚して貿易業に汗を流し、そのおかげでフールネの人々とコネをつくることができたのである。だがテレサの母親が肺炎で死んでから、テルリンク家はいつも彼女の悲しみの涙に濡れていたように思う。最初の子は授からず、2人目のエミリアは先天性疾患を持って生まれてきた。娘はすでに28歳だが、いまだにひとりでは何もできず、しかもしばしば発作を起こす。医師からは介護施設に入れた方がよいと何度も助言されていたが彼にはその決断ができずにいた。ジョリスは使用人のマリアと愛人関係になったことがあり、そのとき生まれた息子アルベールのことは妻に隠し立てもしていないが、信心深い彼女が本当のところどう考えているのかはわからない。彼が車を駆ってフールネの自宅を離れるのは、15km先のコクシードCoxyde[北海沿岸のフランドルの町。コクスアイデKoksijeともいう]に暮らす母親に会いに行くときだ。しかし老いた母は金持ちが嫌いである。理由は、誰かが病気になるとすぐに家から追い出してしまうからだ。息子のあなたも同じだと老いた母はいう。だがジョリスは例外的に、自分の娘だけは病気であっても手元から離そうとせず、老いた母にはそれが不思議でならない。
一方、レオナルド・ヴァン・アムの一族は以前からこの町いちばんの金持ちであり、彼は父のビール醸造業をそのまま受け継いで暮らしてきた。カトリッククラブの名士でもあり、クラブの建物の2階には上級会員しか足を踏み入れることができず、レオナルドを含め上院議員や市議会理事、法廷弁護士などフランドル保守派の面々が会議室に揃い、その話し合いの内容は市政や人事権行使にも大きな影響を与えている。
結局レオナルドは一命を取り留めた娘リナをオステンドOstende[北海沿岸のリゾート都市。オーステンデOostendeともいう]の看護施設に預け、そこで子を産ませることにした──とジョリスは後で秘書から聞いた。さらに翌日、幼なじみのひとりで市議会議員でもあるメウルベックが市庁舎にやって来て、「レオナルドは善き市民、善きクリスチャンとして、きみを追求せず、次の市長選にも立候補しないことに決めた」と伝えた。さらにジョリスは執務室の壁に架かる英雄ヴァン・デ・フリートと同じ「堤防の伯爵」の栄誉称号を、いまはレオナルドが持っているその称号を近いうちにおまえに与える、だから今後は公的にも私的にも今回の件について言及するな、と取引を持ちかけてきた。海や川の浸食から町を護るため堤防を造設し寄贈する者は、古くからこの称号で市民に尊敬されてきたのである。ジョリスは書類に署名し、約束を受け入れた。
孤独なジョリスの精神がバランスを崩し始めたのは、ここからだった。
新年が訪れる。屋外は冷たいが、そこかしこで「おめでとう!」と声が上がり、市庁舎でも職員は新年の喜びの挨拶を交わし、シャンパングラスを空ける。市長は来訪する市民と握手を交わすのが慣わしだ。教会も人でいっぱいになる。すべては町の秩序通りだった。
ジョリスがコクシードへの新年の挨拶から戻ると、驚くことに家にはマリアとの間に生まれた息子アルベールの姿があった。彼は妻テレサを含めて3人で食卓を囲み、マリアのつくった料理を食べた。アルベールは20歳だが分別がつかず素行の悪い兵士で、彼自身はジョリスのことをたんなる名付け親だと思っており本当の父親は死んだと信じているはずだが、あの事件の噂を聞いたらしく、レオナルド・ヴァン・アムなど自殺してしまえばいいと激しく罵り、新年から家の空気を険悪にさせる。ジョリスはこの息子が嫌いだった。
彼のもとでまたひとつ公共事業が仕上がる。市内の要所にガスが通ったのだ。ジョリスは市議のコーマンス氏やメウルベック氏らとともに、ブリュッセルから来た業者らを自宅に招待して食事をもてなす。ブリュッセルの業者のひとりは上機嫌で、「あなたは慈善家ですな。市民の幸せを考えておられる」と褒めそやすが、ジョリスは「自分はそんな人間じゃない。ただ為すべき仕事を為しているだけだ」という。ブリュッセルのひとりが小用で席を外したとき、もうひとりがジョリスに5千フランを渡そうとした。事業成立の祝い金、もっとはっきりいえば賄賂であろう。ジョリスは受け取るのを拒む。「これは習慣ですよ。フールネの貧しい人たちへの寄付だ」と業者はいうが、ジョリスは席を立ち書斎に籠もるのだった。
ジョリスはレオナルドの娘リナがいるオステンドの町へしばしば車で通うようになった。妻のテレサは風邪を引いてから体調が悪く、しばしばポストゥムス医師に往診を頼むようになったのだが、彼はそんな事情など気にする素振りも見せなかった。だが夜に帰宅して妻といっしょのベッドに入ると、妻は悲しげに声をかけてきた。「またオステンドに行くんでしょう? 彼女と会ったの? わかっているでしょう、私のいっていることが」──〝彼女〟とはむろんレナのことだ。すでに妻は使用人のマリアからそれとなく事情を聞いて感づいていたのだ。妻の言葉が降りかかる。
「あなたは市長でしょう。あなたに逆らえる人はいない。あなたのなかで何が起こっているの? あなたは幸せじゃないの? 欲しいものはすべて手に入っているじゃない?」
彼女はさらにいう。「あの若者が来たとき、彼はあなたに何かを頼んだんだわ。あなたは彼が自殺を図った理由を知っているはずよ。オステンドであなたはあの娘に何をしているの? フールネのみんなは、あなたがオステンドに出向いているのを知っているわ。ジェフの母親がどうなったのか知っている? 酒に溺れるようになったわ。市長のあなたなら庁舎での仕事を世話できるんじゃない? 彼女を支えてあげられるんじゃないの?」
そんな権限もないし酔っ払いを市庁舎で雇えるはずもないと彼は答える。妻は彼の目を恐ろしげに見つめ返すのだった。
「どうしてそんな目で私を見るの? ジョリス、みんながあなたを怖れているのよ。だからあなたを市長にした。レオナルドが娘を家から追い出したのもあなたが恐かったからよ。あなたは本当ならひと言で彼女を救えたはず。それでいまオステンドに行って、あの娘と会っているんだわ! リナは何といっているの?」
「あの娘は何もいわない」
彼がそう返すと妻はいった。「ジョリス、あなたはもう以前と同じじゃない」
ここまでが前半、第一部だ。最近は長い文書をAI(ChatGPT)が瞬時に分析・要約してくれるサービスもあるようで、利用者は適切な質問をしてAIからの返答を受ければ、全文を読まなくても内容を短時間で把握することが可能らしい。書評や文庫解説仕事の半分は本の中身を要約してその情報を読者に提供することだろうが、もはや雑誌や新聞に載っている400字以内の短評はAI出力で充分なのではなかろうか。読者の共感をよりいっそう誘いたいなら、編集部でそのパラメータを少しばかり調整しよう。うまいひと言も添えてくれるだろう。翻訳家の方々はレジュメという文書をあらかじめ編集者に提出して企画のゴーサインをもらうとのことだが、すでにこのレジュメもAIで生成すればよい。ならば人間である私たちは、いかに「その人にしか書けないあらすじ」を提供できるか、今後はその創造性に仕事の意義を見出すことになる。
今回、私はジェフリー・セインズビュリーの英訳版で本作を読んだのだが、どうも私はこの訳者と相性が悪く、作者シムノンの意図をうまくつかめなかった可能性がある。読了後にいくつかフランス語の評論を読んだところ、主人公ジョリス・テルリンクは権威主義的で、他人に対して軽蔑的な態度を取る男だと記載されているのだが、私にはそのようには読めなかったからだ。むしろ権威を手中にしながらそれをうまく手懐けておのれの幸福に役立てることができない、その術さえ知らない、いわば振り切った行動ができない男のように感じられた。それは臆病だからというよりもともと彼のなかは空洞で、何かでおのれを満たしたいという欲望もないからだと読んで感じた。実は本作『フールネの市長』は、名実ともに権力を手に入れた男が、ふとしたことからおのれの空虚さに気づき、それがゆえに崩壊してゆくという、シムノン作品によくあるテーマを扱っているのだが、私が読んだ限りその行く先というか書き手の心はいつもとは異なる。本作にはこれまで読んできたロマン・デュール作品のモチーフがあちこちに顔を見せて、その意味でシムノンの集大成的な、別の呼び方をすればいつものマンネリ化した物語のように見える。そして一部でそれは事実なのだが、これまでの作品のように主人公が迎える結末は単純な孤独や絶望や狂気ではない。もっと重層的で、しかも深い。なるほど作者シムノン自身も述べる通り、これをシムノンの最高傑作と見なしてそう評価することも可能だと思う。
「思う」といま妙に曖昧な言葉を最後に加えたのは、本作読了後に得られる感情が非常に複雑でひと言で表しがたいものであり、またそこへ至る途中のストーリーもきっぱり面白いとはいい切れないが実に見事な描写を多分に孕んだ含蓄豊かなものであって、しかも登場するキャラクターはみな書き割りのような性質を側面的に持ちながらそれぞれそうした類型をはるかに超えた人間性を湛えて、どれもがこれまでのシムノンとは一線を画す豊潤さを有しているように「思われる」からだ。しかし同時にそれは「思える」に過ぎず、それを実証的に説明しようとすると途端にこの作品は手元から逃げ出してしまう。すべてを纏め上げるための〝何か〟がまだ足りないようにも思えるのだ。むしろシムノンはいまここで階段をひとつ昇り、足を蹴って、まだ彼にはその余力が残っている、その蹴った足先の行方はまだ定まっていない、人生の新たな局面に突入したことを自覚しつつ、まだ未来は確実に見えてはいない、そんな状況を象徴するかのような1作に仕上がっているのである。
実際、本作を書いているときのシムノンは人生の転換期にあった。まず戦争が近づいており、シムノン一家は海岸近くのラ・ロシェルから、わずかに内側のニュル゠シュル゠メールNieul-Sur-Merへと転居していた。またシムノンは妻ティジーの妊娠に気づいていたはずである。初めての子どもマルクMarcが翌1939年4月に生まれることになる。つまりシムノンは父親になろうとしていたのだ。
見通せない未来が周囲に立ち籠めており、しかし自分の目の前には新しい生命の誕生という初めての未来が拓けつつある。そんな状況を本作にそのまま当て嵌めて考察するのはあまりに安直で避けたいところだが、ある程度は影響があったのも事実ではないか。本作のいちばんの特徴は、作者であるシムノン自身が急いでいないことだ。すべてを丁寧に、一歩ずつ、そして反覆しながら進んでゆく。冒頭の「警告」で「私にとってフールネは音楽のモチーフ」のようなものだとシムノンは述べているが、まさに本作におけるフールネの町は音楽のようにいくつかのモチーフが繰り返される。それがとても見事なのだ。
たとえば雨。作中で何度も雨に濡れる市街の描写があり、フールネの町の規模感を伝えている。市庁舎前の広場にも雨が降った後はぬかるみに人の黒い足跡が残る。また強い雨のときは、窓から街路を見下ろすと、雨滴がピンポン球のように跳ねている。こうした描写のひとつひとつが鮮やかで、読者の心に訴えかける。また市庁舎の時計。プレイヤッド叢書に付された解説に拠れば、実際のフールネ市庁舎に時計はついていないそうだが、その指摘が信じられないほどの説得力と存在感をもって、時計の鳴らす鐘の音が私たちの心に響く。あるいはジョリスが通う近隣のバー。やはりプレイヤッドの解説に拠ると、実際フールネ市庁舎のそばにはよく似たバーがあるそうだ。ここで市民はカードゲームに興じ、主人公ジョリスは葉巻をくゆらす。何度も同じことが繰り返され、そして主人公の居場所はたった数か所に限られている。しかしその舞台にはきちんと奥行きが感じられ、世界がその先まで四方へ広がっていることが実感できる。これまでのシムノン作品ではあまり感じられなかった広がりだ。
シムノンは1933年のルポルタージュ「陛下の税関役人」(第59回)でフランス‐ベルギー国境における煙草の密輸組織について書いており、おそらくはこの取材でフールネ近辺を訪れたであろう。またプレイヤッドの解説ではシムノン夫妻は1938年9月30日にフールネ近郊のデ・パンネDe Panneという港町を訪れ、半日観光をしたというから、フールネにも足を伸ばした可能性が高い。シムノンが本作を書き始めるのはこの旅行から帰ってすぐのことである。
シムノンがベルギーのフランドル地方を書いた作品としては、第一期の傑作『運河の家』(第37回)がある。またシムノンはいつも庶民を書いていたというイメージが強いかもしれないが、実は富裕層の男もしばしば素材に選んでおり、たとえばメグレものの『第1号水門』(第18回)に登場するエミール・デュクローがそうであるし、今後読んでゆく戦後第三期のロマン・デュールにはずばり『首相Le président』(1958)や『富裕の男Le riche homme』(1970)というタイトルのものもある。つつがなく毎日を暮らしてきた男が、ある日突然日常を飛び出して逃走し、自滅してゆくといった展開は『逃亡者』(第44回)を始めとして『汽車を見送る男』(第81回)などシムノンの定番であり、また些細な出来事をきっかけに誰かが狂気を爆発させるのではないかという予兆的書きぶりは『白馬荘』(第88回)に見られ、さらに静かな家庭内で実は疑念が膨張し人間関係の腐食が進んでいるという暴露的吸引力も『ラクロワ姉妹』(第87回)で書かれている。冒頭に派手な事件があった後、終盤までほとんど何も起こらず、しかし最後に主人公は町のなかで閉塞し、孤立し、自滅してゆくように見える──という点で見ると、まっさきに思い出されるのは『人殺し』(第55回)であろう。あらすじでは明かさなかったが、本作では終盤に市議会の場面があり、ここで主人公ジョリスは議員たちから追いつめられるのだが、このような公式の場での裁きとそれに対する人間の行動を描いて終盤への決着をつけてゆくやり方は『重罪裁判所』(第83回)にもあった。
だが本作『フールネの市長』はこれらのどれとも少しずつ異なる。私はいつも本連載のために読みながらメモを取るのだが、今回はその量がふだんの1.5倍になった。読んでいて気づいたのだが、まず登場人物が多い。名前のつかないモブ(群衆)ではなく、それぞれの人間性が(その障碍性や女性性も含めて)生々しく起ち上がっている。後半の第二部からは主要舞台がリナのいるオステンドと地元フールネの2か所となり、とりわけオステンドで赤ん坊を産んだばかりのリナ、そしてその看護役でブリュッセルからきたマノラという若い女が印象的に描写され、そこへ何をするでもなく会いにゆくジョリスがまさに絡め取られるかの如くにじりじりとおのれのアイデンティティを失ってゆくさまは、これまでのシムノンではなかなかお目にかかれなかった凄みがある。リナの住処の近くには商店があり、ジョリスはいつもこの店でリナへの土産物を買ってゆくのだが、店のヤネケ夫人とのやりとりも音楽のモチーフとして変奏してゆく。
一方でフールネに戻れば妻のテレサは小腸がんが進行して容体が悪化し、新たにやってきた妻の義理の妹マルトの存在がさらに家の空気を沈痛なものにしている。ジョリスは市庁舎のなかでも孤立してゆく。あるとき市議会議員のコーマンズが、知り合いの息子で障碍を持つ子がいるのだが、彼には音楽の才能があるのでぜひ奨学金を出してほしいとジョリスに持ちかけるものの、彼はいつものように拒絶する。そうしたことが重なり彼は市庁舎の秘書からも「バース」(ボス)とは呼ばれなくなる。市民の誰もが「テルリンク氏」と名前で彼を呼ぶようになるのだ。
港町オステンドで若いリナは父親のいない赤子を育てている。だがやや内陸に入ったフールネに戻れば、いままさに妻のテレサは死につつあるのだ。彼女はすでにおのれの死期を悟っており、司祭を呼ぶ手配までマリアにことづけている。そして市長としてのジョリス・テルリンクもまた政治家としてその生命を終えようとしていた。もはや市庁舎に嘆願で訪れるものは誰もいない。
本作で惜しいと思われるのは、作中で一度ではなく数度、ジョリスがおのれは空虚だ、と地の文で感想を漏らしてしまうことだ。これは書くにしても一度だけでよい。そうでなければ衝撃は薄れてしまう。クライマックス直前で、リナと会っていたジョリスは再び虚無感に襲われる。これほど空虚だったことはない、すべてが空っぽだと彼は感じる。だが本当は読者の私たちにはわかっている。彼がそう感じるずっと前から、彼のなかには何もなかったのだ。最初から何もなかった男が、自分には何もなかったと気づく──これまでのシムノン作品ではここで物語は終わっていた。だが本作は違う。自分は空っぽだと気づいた後に人はどうするのか。料理店のテーブルに上がって呆けたように踊るのか? 居間で新聞をぼんやり眺めながら、そこに書かれているすべてが自分からは遠く切り離された出来事だと感じておのれのなかに閉じてゆくのか? 本作のジョリスは違う。ここが「シムノンは一歩踏み出した」といえる最大のポイントだ。
シムノンは初期のころほとんど宗教について書かなかったが、本作では『ラクロワ姉妹』に続いてカトリックの宗教観が妻テレサを通して描かれている。それは生と死の問題や、父のいない赤子を産み育てることや、障碍のある子をいかに育てるのが幸福といえるのかといったことだけでなく、地域政治を支える重要な基盤のひとつとしてカトリックのコミュニティは否応なしに権力を持ち、人間関係のなかに重力をつくる。本作ではそのことが真正面から書かれている。プレイヤッドの解説でもジャック・デュボワがこの点を指摘しており、私たち日本人にはうまく把握できない背景も示されているので、長くなるが引用しよう。
16年前に祖国を離れたシムノンは、『フールネの市長』のなかで、ベルギー・フランドル地方の自治体レベルの政治生活をかなり正確に描いている。カトリック、リベラル、社会主義の3つの党派が、不均衡ながらも当時の政治生活を支配していた。これらの党派が機能したそのモデルは「支柱化pilarisation」と呼ばれている。真の〝支柱者(支持者)pilier〟は各党派で活動し、できるだけ多くの地域住民を政党に引きつけ、党派のイメージに忠誠を誓うために、さまざまな組織のネットワークを自らの周囲に構築した。カトリック聖職者が支配するフランドルにおいて、このような構造化の形態をもっとも遠くに持っていったのは、これら党派のうちの第一派閥であった。この党派はとりわけ、右派のカトリック・サークルの強力な連合体に依存しており、オカルト的な力を発揮して、さまざまな活動を通じてすべての人の文化的生活を組織することを自らに課していた。同じモデルに触発されたとはいえ、自由主義者と社会主義者はフランドル地方で同じ足場を築くことはできなかった。
シムノンはこの背景を図式化している。強力なカトリック・サークルに指示される保守党と、聖職者の締めつけから逃れようとし、個人の功績に基づく妥協のない個人主義を掲げ、あらゆる形態のパターナリズムやえこひいきに敵対する民主党(私たちの理解ではリベラル)を対比させる。この第二の立場を体現していたのがテルリンクであり、テルリンクは多数を占めていたにもかかわらず、目に見えるような味方はいなかった。彼は高い水準と誠実さを備えた人物であり、彼が象徴するものに対するシムノンの共感をはっきりと示している。2つの陣営の間では、経済力は不均等に配分されている。ヴァン・アムはあらゆる伝統の「金持ち」である。テルリンクは、少なくとも母親の目から見れば、そうなりかけているにすぎない。(DeepL翻訳を一部改変)
まさに妻が死ぬというそのとき、主人公ジョリスは市議会に出席しなければならない。カトリッククラブに集う面々はこの市議会の場でジョリスを権威の座から引きずり下ろそうとする。空っぽとなったジョリスは最初のうち自分が何をしているのかさえわからない。議会の場では喫煙は厳禁だが、質疑応答しているうちに彼は自分でも気づかないまま葉巻に火を点けているというありさまである。彼はこのまま狂って物語は終わりを迎えるのか。
そうはならないのだ。新たなシムノン誕生の瞬間である。ぎりぎりまで追いつめられたジョリスはついに気づいて、これまでになかったほど穏やかな顔つきになる。そのきっかけは、何年か前に彼が飛行機で市の上空を飛び、ふだんから見慣れた景色を見下ろしたという、その記憶を思い出したことにあった。市庁舎や行きつけのバーの建物も俯瞰した。
別の視点で物事を見る体験をしておくことは、誰にとっても重要だ。その記憶は後にその人を変える。世界の過去と未来に想いを馳せるきっかけとなりうる。そしてひとりが変われば、その物語を聞いた他者も変わる。聞いた人の心が動く。
穏やかな顔になった主人公ジョリスは、直前まで思っていた返答とはまったく異なるスピーチをする。彼の前に見えるのはかつての市長ヴァン・デ・フリートの肖像画だった。彼の最後のスピーチであった。
葬儀の場面で物語が終わるのは、葬儀から物語が始まった『ドナデュの遺書』を想起させる。だが『ドナデュの遺書』の物語は最終的に『バナナの旅行者』(第82回)へと受け継がれ、人は世界の果てまで逃げても自分からは逃れられないという結末へと萎んで終わっていた。本作のラストは開けている。しかもその視界は虚無の向こうに広がった新たな景色だ。これまで述べたように本作にはいくつかの点で不満も残る。だが本作は『ドナデュの遺書』などよりずっと複雑でかつ奥深い地平へと辿り着いており、それをもってシムノンの最高傑作と評価するのもありだと私は思う。ただ、ここで満点をつけるのは適切ではないという気持ちも同時にあるのだ。フランス語の原文でちゃんと小説が読めるようになったら本作にはもう一度挑戦したい。いくつもの細部を読み逃しているような気がしてならないからだ。
本作はまた、創作と事実と真実の関係性について考えさせる一篇でもある。ベルギーに拠点を置くハイブロウなファン団体「ジョルジュ・シムノン友の会Les amis de Georges Simenon」(ただしここ数年の活動状況は不明)に所属するジェローム・ルロワJérôme Leroyという人物(作家だと思われる)が、おそらくは会合の席で仲間に配布した個人小冊子『「私はフールネを知りません」──シムノンあるいはリアリズムの逆説« Je ne connais pas Furnes » Simenon ou les paradoxes du réalisme』(2002)は、シムノン研究の未来を見据えた提言書だ。翌2003年にはシムノン生誕100周年が待っている。そうしたなかで会員のルロワ氏は、私たち読者はもっともっと新しい視点でシムノンを読み直してゆける可能性が拓けている、と仲間たちに檄を飛ばしたのだ。
私の考えでは、偉大な作家を定義するものは、彼について語るべき事がつねにあるという事実であり、彼の作品が尽きることのない言説や、世代から世代へと、ときには根本的に矛盾したかたちで更新される分析に適しているという事実である。ジョルジュ・シムノンの生誕100周年を前にして、親愛なる友人たちよ、私たちがこうした問いかけから逃れられないことは間違いない。なぜジョルジュ・シムノンは偉大な作家なのか? (DeepL翻訳)
ここでルロワ氏が着目するのは、シムノンの小説におけるリアリズムの問題だ。たとえば先にタイトル名を挙げた『首相』というロマン・デュールは、まさしくフランスの総理大臣を主人公に据えており、後にジャン・ギャバン主演で映画にもなったが、この主人公のモデルをジョルジュ・クレマンソーであると断定することは難しい(らしい。私はまだ未読なので詳細不明)。シムノンは歴史を書いているようでいながら実際は事実に即した書き方をしているわけではなく、その物語はあたかもパラレルワールドで起こっているかのような印象を与える、つまり「シムノンはリアリズムの法則を覆し、全体を象徴的なもの、寓話的なもの、たとえ話へと引き寄せている」のだ、とルロワ氏は鋭く指摘する。シムノンは実在の場所を正確に、かつ魅力的に記述することで有名なので、シムノン作品に出てくるパリのカフェやレストランや通りの名前を紹介するガイドブックもいくつかある。だがルロワ氏はこの小冊子であえて、「しかし、私は読者として、シムノンはまさに「非場所non-lieu」、不確かでぼんやりとした空間の偉大な作家であったという印象をしばしば抱いてきた」と、旧来の言説とは異なる意見を提出してみせたのである。
この指摘にははっとさせられる。なるほど、確かにそうだ、と膝を打ちたくなるし、一気に視界が晴れるような強力な真実が含まれていると感じる。こうしたふわふわとした〝非在感〟がシムノン作品から感じられるのは、シムノンが若いころ旅を好み、世界一周旅行までして、しかし世界の果てまで行ってもそこに暮らす人々は文明に塗れていると知ったためでもあろうが、その感覚はシムノン以前のフランス作家が持っていたコスモポリタン的欲望とはまったく異なるものだった、とルロワ氏は看破した。シムノンはかなり最初の段階から実は「非場所」の住人であったので、戦後はアメリカに渡ったりもしたが、その後はずっとスイスに籠もって暮らした。「最終的にスイスの隠れ家を選んだのも、どこにも行きたくないという願望の一部であるように私には思える。(中略)あたかもそれが、「非場所」に属することによって正確に決定される登場人物を創り出すもっとも確実な方法であるかのように」。
そのためいくつかのシムノン作品では、舞台が明示されないことがある。ルロワ氏の示す例では『郊外』(第50回)がそれで、この小説を読めばフランス語圏の人の多くはリエージュを想像するそうなのだが、タイトルの無個性さがまさに表すように、それはどこの場所でもない。そしてルロワ氏は本作『フールネの市長』に置かれた警告文に着目する。「私はフールネを知らない」で始まる、本稿の冒頭に示した短文である。ルロワ氏はこう書いた。「個人的には、これをたんなる法的予防措置とは考えにくい。むしろ、一種の私的な芸術であり、シムノンによれば、リアリズムと場所のパラドクス、つまり、まったく同じではなく、全く別のものでもない町の存在と不在を指摘するエレガントな手法なのだ」。そして続けてこう述べた。「しかし、読者を現実の別の平面に連れてゆきたいというシムノンの願望は、彼のもっとも偉大な小説のひとつである『雪は汚れていた』において、もっとも明確かつ完全に成就する。ここでは、町だけでなく国全体が再現され、しかも外国の占領下にある国である。(中略)シムノンは『雪は汚れていた』によって、語源的な意味でのユートピアを創造したのであ(中略)る」。(以上、いずれもDeepL翻訳)
見事な洞察だと思う。このようにシムノンの描いたリアリズムを逆説的に捉え直すことで、私たち読者は旧来的なシムノン評に囚われることなく、今後もより深く読み込んでゆくことができるとルロワ氏は実証したのであり、シムノンを読むことで私たちは「「私はいったいどこにいるのか」、そして何よりも「私はいったい誰なのか」」と問い続けることができる──だからこそシムノンは偉大な作家なのだと、ルロワ氏は読書仲間に向けてメッセージを発したのだ。
上の引用部分に「ユートピア」という言葉が出てきたことにあっと驚いた方もいることと思う。なぜしばしばメグレものは日本の捕物帳に似ているといわれるのか──それは以前に縄田一男氏の考察を引用したように(番外編3「メグレと鬼平」前篇・後篇)、野村胡堂の『銭形平次捕物控』によって完成を見た捕物帳は、「法の無可有郷(ユートピア)」としての江戸、すなわち「まったく同じではなく、全く別のものでもない」パラレルワールドとしての江戸を描いているからなのである。シムノンはその「非場所」に郷愁を加えるタイプの作家ではなかったが、一部の捕物帳は喪われた過去の江戸をユートピアとして懐かしむ。このシムノンの冷徹さ、文明への懐疑の視点が、同時に捕物帳との決定的な違いを私たちの前に浮き立たせているのもわかるだろう。こうした新しい読み方へと私たち読者を導く手がかりのひとつが、まさに『フールネの市長』冒頭の警告文から読み取れるということなのだ。
このジェローム・ルロワ氏の愛情に満ちた檄を私たちは忘れてはならないと思う。この1年ほどで、パトリス・ルコント監督の新作映画の功績もあって、日本ではシムノンの新しい読者が生まれてきた。しかしすでに何十年も評論活動をおこなってきたミステリーの専門家たち、ずっと海外ミステリーを読んできた熱心なミステリーファンの方々はどうだろうか。いまこの瞬間に、シムノンの新しい読み方を見出せているだろうか。ルロワ氏が述べる通り、つねに新しい言説や分析が読者の側から生まれない限り、どんな作家でも時代を超えて生き延びることはできない。むしろいまは海外ミステリーのプロパーでない人たちの方が、よりよくシムノンを読み込めているのではないか。そのことはひとつの希望でもあるが、ミステリー業界にとってはどうだろう。
私はルロワ氏が書いたような新しいシムノンをこれからも誰かと語り合っていたい。私の気づいていないシムノンがきっとまだたくさんある。シムノンの評価は、おそらくあるときまで、日本のミステリー業界のなかで収束しており、もうそれでシムノンの探求は終わったと思われていたのではないか。
まったくそうではないのだ、という明快な事実を、私たちは今回の『フールネの市長』1作からだけでも知ることができる。
今年開かれたこの扉の価値は、いま私たちの多くが感じているよりずっと大きいのだと、私は思う。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
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