Bergelon, Gallimard, 1941/4 [原題:ベルジュロン]
・初期タイトル:Le Docteur BargelonさらにAdventures et mésaventures du docteur Bargerton [医師バルジュロン、医師バルジュトンの冒険と災難]
・執筆:ニュル゠シュル゠メールNieul-sur-Mer, (シャラント゠マリティーム県Charante-Maritime), 1939/9
The Country Doctor, The White Horse Inn and Other Novels所収, translated by Eileen Ellenbogen, Hamish Hamilton, 1980(The White Horse Inn/The Grandmother/The Country Doctor)[英]
Tout Simenon t.22, 2003
Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012, 2023

 それを診断するのに医師である必要はなかった──誰が見てもベルジュロンは二日酔いだった。それ自体は不快なものではなく、ベッドで寝たままになっているほどではなかった。彼は汗を搔いており、その汗によってすべての疲れが、彼のなかにある悪いものが、少しずつ皮膚から出てきているように思えた。傷が治るときのような、くすぐったい感覚はいうまでもない……。
 そして、起き上がると、その感覚は変わった。頭痛がしたのだ。意識はぼんやりとしていた。なおも彼はその朦朧とした感じが嫌いではなく、またそれに伴う苦い思いも嫌いではなかった。ときにはいくらか憂鬱になるのも悪いことではない……。
 機械的な手つきで彼はベッドの横に触れ、目を開けずに、ジェルメーヌが寝たことを知った。絵のなかにある逃れようもない影だった。彼女は彼を責めることはなかったが、一日中悲しんでいた。悲しみと失望で彼女は最悪の気分だった。そして彼は、前もってわかっていたのだが、呟かずにはいられなかった。
「昨夜は少し飲みすぎたかな……」
 彼の妻は漠然と、諦めたような仕草をした。
「気にしないで……」
 だがその答えもベルジュロンが彼女の周りをぐるぐると回って、自分のことを説明し、自分に非がないと証明しようとするのを、止めることはできなかった。(瀬名の試訳)

 今回の作品も隠れた名作だと思う。『フールネの市長』第97回)と『家の中の見知らぬ者たち』第98回)がテーマ的に繋がっていたのと同じように、前作『マランパン』第100回)と本作『Bergelon』(ベルジュロン)も表裏一体、つまりふたつでひとつの作品といえるのではないか。ディーン・クーンツも似たタイトルの長篇を続けて出すことがよくあるが、多作の作家は前後作品であわせてひとつの大きなテーマを書くことがあるようだ。
 本作は前回の『マランパン』と同じく、医師が主人公である。だが今回の叙述はほぼ一視点の三人称で、パリではなくビュグルBugleというロワール川沿いの片田舎が物語の発端となる。やがて物語はその地から離れて大きくノルマンディー地方やベルギーの港町を巡回し、円環を描いて最終的には再び発端の地へと戻ってゆく。これまでのシムノン作品によく見られた、逃走と自己破滅の物語でありながら、既存の作品には描かれなかったその先が示されており、さらにオープンエンドの結末が待っている。『マランパン』はひたすら主人公の医師がおのれの内面を掘り起こし、幻滅へと至る心理小説だったが、本作『ベルジュロン』は恐ろしいシチュエーションで読者を引っ張り込むものの、その筆致には最初からどこか長閑で、コミカルで、伸び伸びとした開放感があり、決して陰鬱なだけの物語に収まらない。
 私はこうした作品がときおり差し挟まれるシムノンの創作姿勢を評価する。本作が書かれた1939年9月、欧州は第二次世界大戦に突入していた。その世界的緊張のなかで、シムノンはむしろエンターテインメント作家の矜持を発揮し、読者に〝面白い小説〟を届けることに注力したかのように見える。

 医師エリー・ベルジュロンはその日の朝、二日酔いで目が醒めたが、それを除けばいつもと変わらない日曜の始まりであるはずだった。彼は妻のジェルメール、そしてふたりの子ども、アニー、エミールと、田舎町のビュグルで暮らしている。末息子のエミールはボーイスカウトに入った。ベルジュロンは小柄なため、町の人からは「ちび医者」と呼ばれている。
 昨夜、ベルジュロンとその妻は、〝上町ヴィル゠オート〟の丘の上でかわいらしいクリニックを経営する同業者マンダランの夫妻と、ウィスキーとブリッジに興じたのだ。妻のジェルメールは夫の飲みすぎにうんざりしたという次第である。もちろん相手の医師マンダランもかなり酔っていたが、深夜にクリニックから電話があり、ベルジュロンが紹介した銀行員コッソンの妻の出産が近づいているので戻ってきてほしいとの連絡を受けて、ふたりは歩いて丘の上のクリニックへ向かったのである。マンダランのクリニックは12床あり、経営を安定させるためつねに入院患者を満杯まで引き受けることが肝要なので、ベルジュロンは共同提携を結んでマンダランに患者を紹介し、その報酬を得ている。コッソンの妻も彼が紹介したのだった。
 夫のコッソンは外で待機していた。臨月の妻をストレッチャーで外科室に運んだ。マンダランが処置にあたったが、コッソンの生んだ赤ん坊は残念ながら亡くなった。母親は大量の出血が収まらなかった。
 そして一夜明けた日曜の朝、ベルジュロン宅へ再びクリニックのマンダランから電話があったのだ。自分はこれから昼食会のつきあいで出かけなくてはならない、代わりにコッソンの妻を診てほしいというのだ。急いで行くと母親は出血多量で死にかけている。ベルジュロンが手を尽くす間もなく彼女は息を引き取った。夫のコッソンは、決してベルジュロンに目を合わせようとしなかった。
 妻と赤子をいっぺんに亡くしたコッソンは、葬儀の日から執拗にマンダランを追尾するようになった。おまえたちが深酔いしなければ妻と子は助かったはずだ、ふたりが死んだ責任はおまえたちにある、とりわけいい加減なクリニックを紹介したベルジュロンの罪は重い、とコッソンは激怒していた。むろんベルジュロンとしても、酒宴につき合っていなければ確かにマンダランもしらふのままで適切な処置ができただろうと思い、いくらかの責任は感じる。しかしマンダランは責任逃れをするばかりで、遺族に対する敬意を払おうとしない。逆にコッソンの怒りはベルジュロンひとりに集中的に向けられるようになった。彼は妻子を亡くしたことで自暴自棄に陥ったのか、靴屋の2階の貸部屋で許可制娼婦の娘セシルと同棲し、そして何度もベルジュロン宅に脅迫の手紙を送りつけ、玄関先までやってきておまえを殺すと脅すようになる。いまでいうストーカーの状態である。地元警察にも相談したが解決には至らない。
 ベルジュロンはセシルと話し合った後、発作的に手元の所持金4000フランだけを持って列車にひとり飛び乗った。行く先はかねてから身の安全のために一時非難しようと妻と話し合っていたノルマンディー地方の観光地、リヴァ゠ベラRiva-Bellaである。だがその町へ到着したベルジュロンに、思いもかけない運命が待ち受けていた……。
 
 本作の英語訳には『The Country Doctor』『The Delivery』という2種類の訳題がある。前者は『田舎医者』なのでわかりやすい。後者の意味はこれまでわからずにいたのだが、実際に作品を読んで、物語の冒頭に登場する「出産」のことを指しているのだと初めて理解した次第である。本作の主人公であるエリー・ベルジュロン医師は33歳。「ちび医者」と町民から親しまれており、シムノンは『チビ医者の犯罪診療簿』第90, 91回)に続いてこの愛称を作品中に使ったことになる。
 最初のうちはユーモアさえ感じられる筆致が続いて、読んでいる側もまさか銀行員コッソンの妻子の死が後々まで尾を引くとは即座に気づかないほどだ。しかし肩の力を抜いて読んでゆくと、どんどんコッソンのストーカーぶりが加速されて、早くも全体のページ数の半ばで主人公ベルジュロンは生命の危機をまじめに感じるようになる。ふだんのシムノン作品なら全9章のうち8章に至ってこの袋小路の状態へと主人公は追い込まれるのだが、本作はいつものシムノンよりやや長くて全11章ある。そしてベルジュロンは第6章の時点で早くも逃走を図るのだ。ここでまず私は「えっ」と驚いてしまった。ペースが速すぎる。この後、いったいどのようにしてシムノンはページを埋めてゆくというのだろうか。
 本作はこれまでシムノンが書いてきた多くのロマン・デュール作品を容易に連想させる構成だが、大きな特徴は先にも書いた通り、作者シムノンがおのれのフォーミュラの〝その先〟を書いていることだ。『逃亡者』第44回)の主人公はぎりぎりまで粘った後、最終的についに地元から逃走するのだが、辿り着いた先の酒場で彼はおのれの未来を完全に見失い、えらいやっちゃとひとり踊り呆けてエンディングを迎える。『遠洋航海』第54回)の主人公カップルは船で海外に逃走し、南国を転々としてゆくのだが、その運命はぶつ切れのまま放り出されて終わっていた。何かから逃亡し、それゆえに故郷を棄てた者たちが、結果的にどこへ行こうともおのれからは逃れられず自滅してゆくというのは、音楽におけるカノン進行や小室進行にも匹敵するシムノンの王道パターンだが、本作は速いペースでその王道進行を消化してゆくがゆえに、逃亡するまでと逃避行そのものが前後それぞれ同じくらいの分量でもって描き出され、さらにその先の運命まで書かれている。すなわちシムノン逃走小説の中期集大成であり、同時に新境地ともなっているのだ。
 逃走するまでの前半部でクライマックスとなるのが、若い娼婦セシルとベルジュロンが、彼女の狭い自室で語り合って一夜を明かすくだりだ。このころフランスでは娼婦は認可制で、免許証を持っていれば路上で客引きすることができたが、性病を発していないかどうか定期的に医師の診察を受ける必要があった。ビュグルの町で毎週水曜日にその検診をおこなうのがベルジュロンであった。警察署を診察所替わりにして、娼婦を集めて体調を診る。だからベルジュロンは若娘セシルのこともよく知っていた。妻子を亡くしたコッソンが、靴屋の2階に下宿するセシルの部屋に上がり込むようになったのは自棄ゆえだろうが、一方でセシルは酒に酔って乱暴するコッソンに手を焼き、そしてまたコッソンが命を狙っているベルジュロンの安否を心配してもいたのだ。コッソンがいないつかの間の一夜、ベルジュロンは彼女の部屋に密かに出向いて語り合い、そして奇妙な信頼関係を築きながら、自分もまた妻子ある身であったことを思い出し、彼は彼女と別れ、行き先も告げず列車に乗るのである。
 映画化された第三期の長篇『離愁』(1961)にも見られるように、あるいはペンネーム時代のメグレ前史第1作『マルセイユ特急』第27回)がそうであったように、シムノンという作家は列車による旅愁を読者に掻き立てるのがとてもうまい。シムノンは船ならお手のものだが、鉄道もパリへの往復などで頻繁に利用していたためか、船に負けず劣らず描写の陰影が豊かだ。車はまだ1939年のこの時点ではあまり華がない。シムノン作品で車が存在感を放つようになるのは、戦後アメリカに渡り、自家用車で大陸を横断するようになってからだ。飛行機については素人だったろう。ほとんど作中に登場せず、たとえ出たとしても以前に見た『南極のドラマ』第22回)のように記述はわりといい加減である。
 そして、リゾート地、リヴァ゠ベラ! ここで私がさらに驚いたのは、当地に着くなり主人公のベルジュロンは客引きの女エドナに吸い寄せられて、そのままふらふらとホテルに入ってしまうことだ。そのまま素性もよくわからない女と、彼はビーチで時間を持て余しつつ、同室のホテル暮らしを続けるのである。
 この爛れて浮世離れした、時間が過ぎているのか止まっているのかもわからないリゾート地での、ベルジュロンの魂のふらつき具合が、憎らしいほど見事に描かれている。彼も故郷から逃走しつつこんな日々を送ってはいけないということはわかっているのだ。だからある夕刻、彼は発作的に路面電車に飛び乗って、そのままさらに逃げようとする。しかし彼の思い通りに事は運ばない。修道女が3人、おしゃべりをしながら乗り込んできて、車内には彼を含めわずか数名しかいないのだが、向かいに座る修道女たちの会話は聞き取れず、しかも途中で下車してしまう。日も暮れて窓の外には人工の灯りさえ少なくなり、乗客は彼ひとりになってもまだ電車はゆっくりと走ってゆく。このくだりは往年のアニメ映画『迷宮物語』(1987)に描かれた黄昏の迷宮そのもので、こんなにシムノンは悪夢的光景を描くのが上手かったのかとこちらが舌を巻くほどであるが、さらに素晴らしいのは電車がどこまでも果てしなく進んでゆくのではなく現実と同じように終着駅というものがあり、そこから電車が復路を引き返すまでには40分の時間差があり、その間ベルジュロンは暗闇のなかでぽつんとプラットホームに座っていなければならなかったと記されていることだ。つまりベルジュロンは同じ路面電車に乗って結局リヴァ゠ベラまで戻ってくるのだ。これほど滑稽な孤独があるだろうか。
 それで主人公ベルジュロンは、そのまま娼婦エドナとリゾート地で爛れた毎日を送って、それで終わりなのかというとそうではない。ビーチの木陰でぐだぐだとしていたところ、駅から妻のジェルメーヌがこちらの方向にやってくるのが目に入った。自分を迎えに来たのだ。エドナといっしょにいることを知られてはまずいが、それ以上にベルジュロンはここから逃げ出したいとの焦燥に駆られ、彼は妻に見つからないよう再び列車に乗るのである。エドナも妻もホテルの清算も放り出して、またしてもベルジュロンは逃げるのだ。
 次に彼が行き着いた先はベルギーの旧アントワープ湾岸町(Oude Antwerp=老アントワープあるいはフランス読みでVieil Anvers=旧アンヴェルス)である。同じ港町のル・アーヴルは無意識のうちに避けていた。汚い町だと彼は嫌悪していたからだ。
 ここで彼は安い下宿を探して転がり込む。何も手荷物を持っていないことから管理人の婦人が訝ったため、彼はわざわざスーツケースをその町で買い求め、洗濯物を詰め込むのに使った。所持金をあまり切り崩したくはない。だがある夜、バーで意外な人物が彼に声をかけてきた。中学時代の地元の同窓生クラリウスが、女を連れて飲んでいたのである。ベルジュロンは格別彼と親しかったわけではない。クラリウスは粗暴な少年で、父を亡くして早くから海軍に入隊した。いま彼は自船を調達して、ロシアからアントワープまで石油を運ぶ輸送船の船長として生活しているのだという。そしてアントワープに着いたときは地元女のミナと遊ぶのが習慣だった。彼は学校時代の渾名でベルジュロンに話しかける。「クリクリ(こおろぎのこと)!  今夜はおれの船で女たちと飲もう」そして彼は闇夜の港へと連れてゆかれ、その船長室で酒とともに、職を探しているのならおれの船で働かないかと、ベルジュロンは誘われるのだ。クラリウスはさらにいう、いずれトルコのトレビゾンドTrébizondeという町に行こう、そこには女もたくさんいる、と──。
 ベルジュロンは即答できない。なぜなら彼は他のシムノン作品の主人公と同じように、自分のヴィジョンを持ち合わせていないからである。彼らはいつも咄嗟の行動で故郷を棄てて逃げ出すものの、着いたその地で新しい目標を見つけることができない。過去をきっぱり忘れて第二の人生を送ろうとか、そういう勇気ある決断ができない男たちなのである。むしろそうした勇気はシムノン作品において脇役が担うことを、本作『ベルジュロン』は如実に示している。本作の医師ベルジュロンも故郷へ未練たらたらだ。彼はリヴァ゠ベラでも、アントワープでも、妻や子どもたちに向けて「すべてはうまくいっている、心配するな」とごく短い文章を書いたはがきを送っている。しかも家族にだけでなく、自分の命を狙っているコッソンにまで、わざわざ自分はここにいると郵便で伝える。むしろ自分は家族に連れ戻されたい、自分は地元の復讐者に追いつめられていっそ殺されてしまいたい、という自滅願望が明らかにあるのだ。そしてその決断を他人の行動に任せきりで、自分では何もしようとしない。
 主人公ベルジュロンは孤独の逃避行をむしろ自嘲的に楽しんでいる節さえ見られる。ここで世界戦争に突入したばかりの世情がひっそりとページの裏側から浮き上がってくるのが興味深い。リヴァ゠ベラで彼は娼婦エドナから、「どうしてエリーって呼ばれているの? あなたユダヤ人?」と訊かれて、「きみはユダヤ人なのか?」と問い返すくだりがある。エドナは自分がロシア系ユダヤ人であること、コンスタンチノープル出身であることを述べるが、ユダヤ迫害の背景が起ち現れる一瞬である。アントワープに着いたときは周りの女たちがみなフラマン語を喋り、フラマン人独特の上がった鼻や、いつも微笑しているかに見える引き攣った口元などに改めて感じ入っている。ベルジュロンは田舎医者であるが、それでもフランス小市民らしいわずかなプライドは捨てないのである。
 本作では何度か当時の「局留め電信」が登場して活躍を見せる。詳しい居場所を明かさないベルジュロンに妻らが返信する術はこれしかないからだ。明朝には潮に乗って船を出すとクラリウスが宣言したその夜、ベルジュロンは密かに町へ向かい、自分宛に届いている局留め電信を確認する。それはなんとコッソンからのもので、明後日の午後にパリ北駅向かいのカフェでおまえを待っている、と書かれてあったのである。
 これを見たベルジュロンは、またしても彼を縛りつけようとする運命から逃走する。すなわち、同窓生のクラリウスにも下宿の婦人にも告げず、船の生活に飛び込むことから後じさりし、スーツケースも放り出して、その足で駅へ向かいパリ行きの汽車に乗るのである。だが彼はいまなお自分が何をしたいのかわからない。約束の一日前の午後にはパリに着いてしまうが、あと一日どうやって時間を過ごすのか、そして一日経って実際にカフェでコッソンと対面したときどうするべきなのか、彼には何も計画がないのだ。案の定、一日早くパリに着いた彼は散歩や映画館で無意味な時間を潰して過ごす。そして指定先のカフェに赴くのだが、そこに予告より早くコッソンが現れ、ベルジュロンは初めて愕然となり、緊張する。コッソンは大きな荷物をいくつも抱えていたが、ベルジュロンをすばやく認めてテーブル越しに座り、注文した酒を一気に飲み干した。そして彼は新聞の切れ端を見せて語り出した──。
 素晴らしいクライマックスシーンである。ここで初めて私たち読者は、復讐の鬼となっていたはずのコッソンに〝共感〟するのだ。標的を見失っている間に彼は地元ビュグルで大きく心変わりをしていた。それはある朝、ふと偶然にも、いまベルジュロンの前に差し出している、一見彼らとは何の関係もないアフリカの探訪記事を読んだからだった。
 読みながら、私たち読者は、最初のうちコッソンの意図がわからない。彼は支離滅裂な話をしているように思えるからだ。次第に焦点が合ってきて、彼の真意がはっきりとわかったとき、私たち読者はテーブル越しに、ベルジュロンと一体となって、真剣なまなざしのコッソンの目を見つめ返している。コッソンはある大きな人生の決断をして、フランスを離れるつもりでパリに最後の別れを告げに来たのだ。彼はベルジュロンに真正面から尋ねる。
「それでおまえは? おまえはどうする?」
 開戦当時の世情がここにも反映されている。フランス国内に留まるより、夢を求めて海外にすばやく渡った方が未来がある、とコッソンは確信したのである。
「Qu’est-ce que vous allez faire, vous ?(おまえはどうする?)
「Et vous ?(それでおまえは?)
 どうだ、おれといっしょにアフリカへ行かないか、とコッソンは妻子の仇であるベルジュロンに向かってそう誘うのである。彼は何度も畳み掛ける。それでおまえは? おまえはどうする? このくだりは読んでいるこちらも緊張して身が固くなってくる。医師でありながら逃走後は何ひとつ自分で決められなかった男、ベルジュロンが、いま宿敵から喉元で決断を迫られている。はたして彼はイエスというのか、それともまたしてもすべてをごまかして逃げ去るのか? 読者であるあなたならどう答えるだろう? 物語は逃げ場のない緊迫感を嫌が応にも読んでいる私たちにまで突きつけてくる。
 たとえば、主人公が死んでしまえば、逆説的ではあるが私たちは決断をせずにすむ。ここでふたりのうちどちらかが激昂に駆られて、思わず相手を刺すなどの惨事が起きるなら、物語としては一定の決着もついて、私たちは決断から逃れられる。だが作者シムノンはここで逃げなかった! 実際にベルジュロンがどう答えるのかは、ぜひいつか邦訳が出たらご自身の目で確かめていただきたい。
 最後の1章は、かつての『反動分子』第85回)のラストを思い出させる。つまり本作で作者シムノンがやっていることはどれも初めてのものではない。だからいうなれば本作は過去作の再編成である。それでもうまく再編成されたシムノン作品は、それ自体がひとつの完成された工芸品のように見事なものだ。ゆったりと進むこの最終章は、シムノン作品そのものの故郷を描き出しているかのようでもある。
 ベルジュロンは汽車に乗って故郷へと帰る。その車窓の描写がたまらなく美しい。電信柱が鉄路の脇に続いているために、目映い陽光は定期的に遮られて影を刻む。食堂車には若い兵士がふたり乗っており、廊下の隅に佇むベルジュロンは窓越しに、走り過ぎてゆくフランスの長閑な遠景を眺める。すでに戦争が始まっている時期に本作が書かれたことを思うと、ここに刻み込まれた穏やかな田舎の景色は、重要な歴史の記憶であることがわかって心に沁みる。
 そして彼は故郷のビュグルに降り立つ。その日は日曜日で、結核予防のチャリティの日であり、そしてまたエルブモン大聖堂Notre-Dame d’Herbemontへの巡礼の日だった。駅の近くからロワール川沿いを見下ろすと、何百という人が周りの田舎からも集まって、テントを張り、ロザリオや花を売っているのが見える。この日はエーデルワイスの花を売って募金にするのだ。
 牧歌的な日曜の昼下がり。いったん彼は自宅へ到着したが、玄関の鍵がない。家族は外出して留守のようだ。おそらく親子で朝から教会のミサに出向き、それから巡礼に行っており、帰宅は午後6時過ぎになるだろう。ベルジュロンの足は若い娼婦セシルの下宿へと向かっていた。通りの両脇に並ぶ商店はどこも閉まっている。靴屋も同じだが、脇にある下宿への階段の戸口はいつも空いており、その日も例外ではなかった。一歩ずつ彼は階段を踏みしめて上がってゆく。はたして、その部屋にセシルはいた。彼女と話し、そして彼はついに再び自宅へと向かう。
 ここから先も、シムノンの筆は白日夢を描くかのように儚い。彼は家の玄関に辿り着く前に、巡礼から戻ってきた子どもたちの目に留まり、声をかけられる。その声を聞いて家から妻のジェルメーヌが出てくる。彼は家に迎え入れられ、子どもたちは日曜に母親がいつもつくってくれる特製ムースを待ちかねてはしゃぎ、妻は夫に皿を差し出して「あなたもどうぞ」と薦める。何と美しく、平穏で、そして変化のない、典型的な田舎一家の幸福の姿であろう。子どもたちは妻にいい含められているのか、父親が急な仕事で遠出をしてきたのだと理解している様子であり、「どうしてお土産がないの?」と無邪気に尋ねる年端もない息子に対して、妻は優しく「お父さんは忙しくて買う暇がなかったのよ」と答える。
 最後の1ページあたりは、こちらも読んでいて泣きそうになってくる。あれほどあちこちへ逃げ回ってきたというのに、こうして思えば自分はたんに故郷から大きな円環を描いて戻ってきただけのことではなかったか。こんなにも完璧な幸せが、自分を待っていてくれるとは、ベルジュロンには思いもしないことだった。
 物語はそれで終わるのだろうか? いや、そうではない。
 このラストに到着してなお、主人公は何も決められないままであるのだ。彼は家族の幸せに浸かりながら、ある奇妙な一言が頭に浮かんで振り払うことができない──これこそがシムノンの真骨頂、円環を経て帰ってきた英雄でさえ、もはや以前の彼のままではいられないのだという、人間の核心を衝いた鋭くも短い一撃だ。『反動分子』のその先が、私たち読者の眼前に広がってゆく。
「これこそがシムノンだ。やっぱりシムノンはすごいよ」
 私は文壇のつきあいなどさほどほしくはない。実際に近ごろは他の作家や担当編集者に誘われることもなくなった。しかし飲み屋の隅で私が知人と本当に語り合いたいのはこんな話だ。みんな『ベルジュロン』って知らないと思うし、地味な話だけど、あれはいいよ、あれがシムノンの醍醐味だよ、そんなふうに誰かと語り合って過ごすのが、叶わないとわかっている夢なのだ。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。

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