Malempin, Gallimard, 1940/4/30 [原題:マランパン]
・初期タイトル:Les Prés étaient sous l’eau [牧場は水没していた]
・執筆:シャラヒベルクハイム城Château de Scharrachbergheim(バ゠ラン県Bas-Rhin), 1939/3
Malempin: Note sur cahier écolier en marge d’une dipherérie, « Cahiers du Nord » n° 2-3(第2-3合併号), 1939[マランパン 学校ノートの余白にあるジフテリア症例のメモ] 第二章まで掲載
The Family Lie, translated by Isabel Quigly, Harcourt Brace Jovanovich, 1978[米]
Tout Simenon t.22, 2003
Les romans durs 1938-1941 t.4, 2012, 2023
Simenon Pedigree et autres romans, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2009


【図100-1】

 冷静に考えても、あの日は他のどんな日よりも速く過ぎて行ったと確信しているし、〝目も眩むほどの〟という語句さえ自然と浮かんでくる。私の心のどこかに似たような記憶がある。学校の校庭で遊んでいたときのことだ。いや、それはあり得ない、路面電車の話だから、校庭であったはずはない。重要ではない! とにかくどこかの路上だった。あるいはどこかの広場だった。広場かもしれないというのは木々が見えて、それが白い壁に影模様を描いていたからだ。私は夢のなかにいるかのようで、ただ見えるのは足下で鉄道の堤防のように流れ落ちてゆく地面だけだ。そして突然、すでに異常な速度だったにもかかわらず、落下は加速し、勢いが強まり、そして最後に急停止した。私は頭から足のつま先まで震えており、こめかみの脈は早打ちし、唇は濡れて、目も見開いており、そして私の1メートル先の路面電車もまた全身で震えていた。
 私は何かを証明したいのではない。あの日、私が速く走れたのは、たまたま力を発揮できたからなのか、それとも大惨事が迫っていたためだったのか? 
「馬鹿野郎!」と運転士は叫んだが、私もまた彼と同じように青ざめていた。
 私は歩道の方へ入らなければならなかった。そして敷居に座り込んだ。
 私がいま話している日のことは、いまとは何の関係もないことだ。たぶん6月の好日で嬉しいからではないか? 今朝6時に起きたとき、ちょうどメイドが下階へ降りてきた。浴室で髭を剃っていると、ベッドから妻が私に念を押してきた。
「保険を忘れないでね……」
 ボーヌ通りは閑散としていた。私はオルセー通りからタクシーに乗り、桃のように黄金色に輝くパリを抜けてサン゠ラザール駅へと向かった。(瀬名の試訳)

 読み終えた瞬間、「うむむむ」と唸り声を上げそうになってしまった。これはひょっとして、凄い作品ではないのか。あるいはもしかするとそのように湧き上がってきた私の情動はまったくの幻覚で、むしろこれは人間の情動という者さえ吹き消してしまう、すなわち虚無そのものの作品なのではないか。
 本作Malempin(マランパン)は1939年3月、もうすぐシムノンにとって最初の子どもが生まれるという人生の重大時期に書かれた。実際に長男のマルクMarcが生まれるのは4月19日である。このときシムノン夫妻は出産に備えて、妻ティジーの故郷であるアルザス地方(メグレ夫人の故郷でもある)に移り、シャラヒベルクハイム城というところに住み込んでいた。城といわれて私たちが想像するほど大きくはないが歴史的な屋敷で、現在も地元の観光名所になっている。ただし戦争突入直前であるから、ドイツと隣接するアルザス地方はとりわけ緊張が高まっていただろうと想像できる。それでもシムノン夫妻は安全性の高い南西部のリゾート地、ニュル゠シュル゠メールを離れて、あえてアルザスで子どもを家族の新たな一員として迎え入れようとしたのである。
 もうひとつ本作の大きな特徴は、シムノンにしては極めて珍しい一人称叙述形式が採られていることだ。私の記憶では『わが友らの三つの犯罪』(1938)(第78回)以来ではないか。本作は『わが友らの三つの犯罪』と違って作家シムノン自身が主人公ではなく、パリで暮らすエドゥアール・マランパンという医師が書き手であるにもかかわらず、そこに記されるマランパンの少年時代の思い出は、まるでシムノン自身の記憶のように読めるのである。つまり本作はシムノンの(疑似)自伝的小説であり、そのため後にフランスのプレイヤッド叢書でシムノン集の第3巻が彼の自伝的作品群でまとめられたとき、『わが友らの三つの犯罪』や回想録『私は思い出す…Je me souviens…(1945, 1961)、またそれを小説形式に整え直した大長篇『血統書 Pedigree(1948)らとともに収録されている。
 本作はこの回想部分の描写が実に見事なのだ。どれも「本当にあったことではないか?」と読者に思わせるほどで、しかも状況の詳細は示されないながら、どこをとっても現場の空気感が濃密に伝わってくる。
 さらにプレイヤッド叢書巻末掲載の解説文を読んで、本作には大きな秘密が隠されていることもわかった。この指摘を知っているのと知らないのとでは、本作に対する感想がまるで違ってくる。だがその前にまずはあらすじを示そう。
 
 時期は6月、主人公はパリのボーヌ通り近くのアパルトマンに家族と暮らす、病院勤めの医師エドゥアール・マランパン、42歳。妻は15年前に知り合って結婚したいくらか年下のジャンヌで、ふたりの間には11歳のジャンと8歳のジェローム(愛称ビロ)という子どもがいる。休暇が近く、家族いっしょに2週間ほど南仏で過ごそうと計画していたが、直前になって次男のビロがジフテリアに罹った。家族に感染が広がらないよう、ビロはパリ右岸シャンピオネ通りのアパルトマンに独居しているマランパンの母親フランソワーズのもとへ一時預けられており、その日マランパンの妻は義母ところから息子を連れ戻してきたのだった。同じ病院に勤務する小児科医モランがわざわざ往診に来て、いくらか血清を打ってくれた。弟のギヨームもアパルトマンに立ち寄って、ビロの容体を気遣ってくれた。
 ベッドで横になっている次男が、マランパンを見上げている。ビロの本名ジェロームは、私の祖父の名でもある。祖父ジェロームから父アルチュール・マランパンへ、そして私、エドゥアール・マランパンへと血は繋がってきた。
 私はビロの目を見て幼かったころの自分自身を思い出した。自分もまた息子と同じように、眠りに就きながら逆光のもとで立って見下ろしている父親、アルチュール・マランパンの姿を、なぜかいまでも憶えているのだ。ビロも大きくなったら自分と同じようにいま見下ろしている父、すなわち私の姿を思い出すのだろうか。そう考えているうちに私は記憶を手繰り寄せ、息子の容体を書き記すノートに、自分の少年期の思い出も綴り始めていた──私は幼かった一時期、エリーズというおばの家に暮らしていたのだ。そしてあるとき、おばの夫だったテッソンおじが行方不明になった。その事件の真相はいまもってわからない。
 私は徐々に当時の記憶を思い出してゆく。私の両親はアルシーArceyで農家を営んでいたが、おじとおばの家はそこから一時間半ほどのサン゠ジャン゠ダンジェリーSaint-Jean-d’Angélyという村にあった。私はおばの家から近くの学校へ通っており、両親は毎週日曜日にだけこちらやってきて私の様子を見届けた。私が憶えている冬、村は冠水し、牧草地はどこまでも水に浸かってぬかるんでいた。母フランソワーズのおじにあたる男で、エリーズおばの結婚相手でもあるテッソンが失踪したのはその冬だ。
 私には姉のエドメ(愛称メメー)と弟のギヨーム(愛称ギー)がおり、私が小さかったころは姉だけが学校へ通っており、弟は冬になると必ずインフルエンザに罹って寝込んだ。私の母フランソワーズは、あのころから農家の嫁のようには見えない女性だった。父は寡黙で、巨大で、いつもアルコールの臭いがして、食事のときに何も話さない男だった。父が仕事をしていた場面は思い出せない。牛の世話は下男のウジェーヌがおこなうのが常だった。
 エリーズおばは私を気に入って、この子はいずれひとかどの人物になるからしっかり学校で教育させたいと、私を預かり受けてくれたのである。ただし、私の母やおばより20歳以上も年上のテッソンは、公証人であったが自堕落な人物で、仕事を諦め、あちこちから金を借り、そしていったん懐が温かくなるとすぐに散財してしまうような男だった。
 おばはいつも私にチョコレートのひとかけやキャンディをくれた。姉や弟が来るときは、アップルタルトをつくってくれた。店で売っているようなタルトはマランパン家の男には小さすぎると彼女は主張したのである。一方、おじのテッソンは、普段から食事の用意ができても自分の肘掛け椅子から離れようとしなかった。
 もうひとり厄介だった人物がいる。私の父の兄でジャミネという、誰も名字で呼ばなかったが、少し離れた村でカフェを経営していた、マランパン家の一員であったはずの男だ。母にとって彼はいちばんの敵で、当時ヴァレリーという娘とつき合っていた。私はそこからあの年の〝サント・ヴァレリーの日〟を思い出す。いつもジャミネがヴァレリーに会いに行く日だ。後日カレンダーで調べてみたら、それは12月10日だった。ならば私の記憶のなかにある、あのテッソンの日曜日は、12月7日だったことになる。
 私は思い出す。日曜日、サン゠ジャン゠ダンジェリーの家に、ジャミネがテッソンおじを訪ねてきたのだ。そのときおじは不在だったが、私は彼とおばとの会話を聞いて、彼が娘を妊娠させてしまい、金を所望しに来たのだと子ども心にもわかった。そのときサン゠ジャン゠ダンジェリーの家には私の両親や姉や弟が来ていた。ジャミネは私の父にも金を無心したはずだが、どうなったのかはわからない。母は怯え、父はパイプを銜えて黙していた。テッソンおじはそのときおらず、彼がおじを捜したかどうかも憶えていない。その日ひと悶着あったことは確かだが、それよりふしぎなことに、私には別の記憶がある。ジャミネはサント・ヴァレリーの日であったはずの日にもう一度やってきた憶えが私にはあるのだ。
 その後、夜になってもおじは帰宅せず、エリーズおばはひと晩中夫を待っていた。朝になって病院へ電話した。なぜおばは警察ではなく病院に電話したのだろう? おばはしゃがれ声のエヴァという姉にも連絡を取ったが、やはりテッソンの行方はわからなかった。
 以来、テッソンおじは消えてしまった。おじは元公証人という立場を利用して、私の父からだけでなく多くの人から金を借りていたはずだ。そうした彼を、誰かが殺して死体を隠したのではないか。その犯行者はひょっとしたらエリーズおばだったかもしれないし、あるいは私の父だったのかもしれない。長らく学校を休んでいた私は、テッソンおじの失踪が確実となったころにようやく登校し始めていたが、あるときぬかるんだ牧草地の上の板道を渡っていたとき、ふと脇に小さなものを見つけて泥のなかから拾い上げた。それは確かにテッソンおじのカフスボタンだったのだ。
 私はしばらくそこに立ちすくんでいた。私は怖くて震えていた。そして全速力で走った。ようやく学校に到着したがすでに遅刻で、何も事情を知らない先生はいった。「マランパン、減点よ。席につきなさい。歴史の教科書、20ページ……」
 ──なぜエリーズおばは彼女は警察の事情聴取を受けたとき、ジャミネは一度しか来なかったと証言したのだろう? それは嘘だ。彼が二度来たことは幼い私が知っている。おばは私を口止めしようとしたのだろうか? あるいは私の両親さえ、私の口封じを講じたのではなかったか? 
 私はノートに記憶を書き綴りながらマランパン家が抱えてきた秘密と、そして一方では妻のジャンヌが彼女の家系から受け継いできた宿命について考えを巡らせる。妻には彼女なりのプライドがあったはずだ。私は若かったころ、指導教師のフィロー医師に招かれて彼の家のパーティに出向き、そこでジャンヌと初めて出会った。指導教師は将来ある若手男性医師らに、すぐそれとわかる集団お見合いの場を設けたのだ。ジャンヌはまるで女性向けの小説から抜け出してきたような女だった。結婚相手の求人広告を思い出させた──私は当時、カタログから商品を選ぶかの如くに彼女を選んだ。アパルトマンの家具もカタログで選んだ。
 それ以来、ジャンヌはマランパン家のことも、アルシーで暮らしていたころの私たちのことも知らない。だが外科医の家で育った彼女には、貧乏人と結婚して苦労の絶えない人生を送るつもりなどなかったはずだ。いま自分は医師となり、それなりの地位を築いているが、それはすべてエリーズおばが高校へ進学するための学費を、死後の遺言状で私に分配してくれたおかげなのだ。
 父もすでに亡くなった。あのジャミネは結局子どもを設けて、その娘は地元の製粉工場の息子と結婚したと聞く。
 いったいテッソンおじはどこへ消えたのだろう? 〝私〟のなかで、息子ビロがジフテリアから回復するパリの10日間の出来事と、古い記憶が交差してゆく。おじをこの世から消した真犯人は、ひょっとするとかつての私の父、あるいはいまも生きている私の母なのではないだろうか──。

 シムノン流の〝意識の流れ〟という筆致があることはこれまでも述べてきた。本作はそのスタイルがひとつ頂点を極めた作品だと思える。本作は主人公の医師がノートに書きつけた文章という体裁を採っており、マランパン医師はおのれの連想の赴くままに、過去の記憶と現在進行形の家族の状況を書き連ねてゆく。過去と現在が入れ替わるとき一行空けなどの生ぬるいわかりやすさをシムノンは使わないと以前から指摘してきたが、今回はその地続き具合が度を越している。その意味で読者側には相当に高度なエンパシー能力が求められ、おそらくふつうに小説を読むのが好きだというような最近のベストセラーエンタメ小説に慣れている読書人は、この長篇がほとんど理解できないのではないか。翻訳を出したとしても「ハイブロウすぎる」と初心者向けのガイド本では敬遠されてしまうかもしれない(杉江松恋監修『十四人の識者が選ぶ 本当に面白いミステリ・ガイド』)。
 だが、このイメージ喚起力はどうだ。本作を推すとすればここに書き留められている無数の鮮烈な〝瞬間〟の堆積、そこにこそ読みどころがあるといえるのではないか。記憶というものをこれほど鮮やかに描き出せる作家は、以前から述べてきた通り、レイ・ブラッドベリと並んでシムノンわずかひとりとさえ思える。そしてブラッドベリの描き方は、ちょうど夏の水たまりに映り込んだ太陽のようにきらきらとして、また同時に水面の質感を想起させるものだが、一方でシムノンはもっと遠景を、すなわち本作ではどこまでもはるか水に浸かってぬかるんだ泥の牧草地という開放的視界の感覚を持つとともに、窓から入った陽射しが室内の空気中に漂う埃や煙草の煙を浮かび上がらせたときの、その場に染みついた特有の生活臭を含むような、子どもの記憶であってもどこかに大人の事情を孕んで払拭しきれない苦みを伴っているのである。
 本作ではその手の内を主人公マランパン自身が文章のなかで解説している。作者シムノン自身がおのれを極めて冷静に観察していることがわかる興味深い記述なので引用しよう。

 私の記憶が全体的に正確になってゆくにつれて、あのころの記憶がそうであるように、私が物質性と呼びたいものが失われてゆく。もちろん、シャピトル通りの家と、そこでの匂いや音や、ものに当たった陽射しのきらめきはいまなお憶えているけれども、アルシーに住んでいたときのような濃厚で熱いプラズマは形成されていない。
 あの雰囲気に私は決して戻ったことがないし、間違いなく、いったん巣穴から出たなら、私は二度と戻らないだろう。すべてはより鮮明に、しかしより非物質的に、どれもが1枚の写真のようになる。

 あのころの記憶は印画紙に浮かび上がった写真のようだと、主人公マランパン自らが語っているのだ。ライカを持って世界旅行をしたシムノンの世界観がそのまま表現されている。写真は一瞬の時間を切り取ったものであり、同時にそのシーンは印画紙に閉じ込めると、すべては無数の黒い点となって、近づけば近づくほど意味性を失ってしまう。匂いや音やきらめきといった、私たちの神経シナプスの発火が記憶する一瞬の刺激で少年期の記憶は成り立っているが、それらはみなシナプスの発火であるから、鮮烈ではあっても決して物質性を持たないのである。
 こう書かれているほどであるから、作者シムノンは主人公マランパンの記述と、エリーズおばの家で起こったことと自宅での出来事は、その解像度を変えて書いているはずだと推測できる。だが後者は後者で個々のディテールが凄まじい。たとえば自宅でのシーンは次のようなものだ。事件から数か月が経って主人公が自宅へ戻り、学校から帰った土曜のある夕方のことを、主人公はこのように書き綴ってゆく。そのとき父は台所にひとり座り、テーブルには鋏が置かれ、主人公はタオルや地下水を感じ、弟のギヨームは入浴済みで、母は髪を梳かしている。その夜、主人公が悪夢にうなされてはっと目を醒ますと、ベッド脇に父親が立っていた。〝私〟は寝ているふりを続けようとしたが、父は私をずっと見ていた──私を含め多くの人は鮮やかすぎる悪夢を見たことがあると思うが、本作を読むとそれに近い戦慄を覚える。
 翻ってエリーズおばの家にいたころの記述では、物語とは何の関係もないが、ときおりあまりにも印象的で頭から拭い取れないほど異様なショットが登場する。道を歩いていると線路脇に少女が立ってこちらを見つめていた、というようなもので、それらはデイヴィッド・リンチ監督の映画に出てくる笑顔で芝生に水撒きする人のスローモーション映像に似ている。私の頭は巨(おお)きかったという、シムノン作品になぜか頻繁に登場する異形の記述も、こちらの不意を衝くかのように繰り返される。そしてエリーズおばの家では何度もアップルタルトが振る舞われたはずなのに、自宅に戻ると家族全員タルトのことなど忘れていた、というくだりも悪夢的だ。私たち読者はずっと読んできて甘いタルトの匂いを憶えているのだから、自分のなかで発火するシナプスが後になって意味性を剥奪されるがゆえに、私たちの神経細胞群は著しい混乱を来す。記憶はあるのに意味がない。これがシムノン流の〝意識の流れ〟に他ならない。
 本作は家族の物語である。マランパンという姓を持つ父方の系統樹がまず一本あり、そこに副え木がなされるように、母フランソワーズの一族と、〝私〟の妻ジャンヌの血統が組み込まれてくる。マランパン家には昔から符丁めいた独特の言い回しがいくつか伝わり、主人公はいまでもそれらを使うことがある。たとえばエリーズおばが歳の離れたテッソンおじと金のために結婚し、性交していたことなどは一種隠語的に記述される。そうしたことも含めて主人公エドゥアール・マランパンは最初のうち自分の〝父性〟を遡り、翻って自分の〝息子〟に受け継がれたであろうおのれの一部を考察しようとするのだが、実生活で母と頻繁に会い、また次男の介抱で妻とも話を交わすなかで、次第に血統というものにおいて母方の影響がもたらすものの重大さに向き合わざるを得なくなってゆく。代々続いたマランパン家は、実はそこへ入り込む〝母性〟によってつねに運命的に〝殺されて〟きたのではないか──と、本文ではそこまで露骨に記されてはいないが、主人公はひたすら文章を書き連ね得ているのに、日を追うにつれて自分自身の〝物質性〟を見失ってゆくのである。

 本作を読み進める途中で、プレイヤッド叢書掲載のジャック・デュボワ氏による解説文に目を通したのだが、そこに驚愕の指摘があった。本作で使われている「マランパンMalempin」という姓は、後の自伝的長篇『血統書』で用いられるマメランMamelinという姓に似ているだけでなく、その名前は過去に実際に起こった忌まわしい事件を容易に連想させるもので、その事件は本作の少し前に書かれた『フールネの市長』第97回)からも連想できるアンドレ・ジッドの実録犯罪作品、「ポワティエの幽閉女La Séquestrée de Poitiers」(1930発表)に書かれているというのである。『フールネの市長』「ポワティエの幽閉女」の影響があるという指摘は当時からアンドレ・テレーヴなど複数の評論家によってなされていたらしいが、後にデュボワ氏と同じく著名なシムノン研究家であったミシェル・ルモワヌ氏によって改めて指摘され、デュボワ氏はそのことを解説文に組み込んだのだ。私は吃驚し、プレイヤッド版『フールネの市長』のデュボワ氏の解説文を読み直したほどだ。
 ジッドはかねてから重罪院にかけられる犯罪事件に関心を寄せ、その裁判の経過を記録するかたちのノンフィクションをいくつか残しており、「ポワティエの幽閉女」も実際にあった事件を書いた中篇作品である。1901年5月、ポワティエの警察署に匿名の告発書が届き、警官がそこに記されたブランシュ・モニエ夫人宅を訪れて捜査したところ、2階の小部屋から25年もの間幽閉されていた長女、ブランシュ・モニエ嬢52歳が全裸姿で発見された:ジッドは夫人をバスティアン・ド・シャルトルーという名に、また娘をメラニーという名に変更しているが、混乱を避けるためここでは全員を実名で示す。英訳版でも実名表記が採用されている]。室内は汚物に塗れており、虫が湧き、まともなベッドも置かれておらず、発見当時のモニエ嬢は体重わずか25キログラムで、決して薄布を離そうとしなかったという。当時の衝撃的な写真はウェブ上で見つかるので検索してみていただきたい。ブランシュ・モニエ夫人の夫はすでに亡くなっていたが、夫人宅には何人か入れ替わったものの家事手伝いが常時働いていた。道を挟んだ向かいには、地元の要職に就いたこともある長男(モニエ嬢の弟)、マルセル・モニエの家族も住んでおり、彼は母親の家に出入りしていた。
 モニエ嬢は病院に運び込まれて手当を受けた。彼女はもともと聡明だったそうだが、成長するにつれて精神失調の気配も見られたらしく、それが幽閉の原因となったと思われる。彼女はものの名称などはしっかりと述べたり書いたりすることができたが、いったいなぜ25年も幽閉されていたのかという質問に対してはずっと意味不明の答えを返し、激しく怒り出すのが常だった。母親は逮捕されたが数か月後に体調を崩して亡くなった。それでもモニエ嬢は決して家に帰ろうとはしなかったという。そして幽閉されていた部屋のことであろうが、あなたはどこにいたのかという質問に対して、彼女は常に「親愛なる偉大な底地マランピアCher Grand Fond Malampia」と答えた。
 つまり、娘を最初に幽閉したのは母親のモニエ夫人だったが、その後は何か余人には推し量ることのできない共存関係が構築され、モニエ嬢は自分から積極的に逃げ出そうとすることもなく、食事は家事手伝いが運んできたものを食べ、排泄物は放置し、汚物と悪臭のなかで生き続けてきたのである。とうぜん弟もそのことは知っていたが、具体的な行動を起こすことはなかったらしい。
 最後までモニエ嬢は正気を取り戻さなかった。ジッドの作品ではモニエ夫人が亡くなり、弟マルセルが無罪判決となるところで終わる。少し調べただけなので見落としているかもしれないが、この作品はどうやら本邦で訳出されたことがないらしく、日本のジッド全集にも載っていない。フランス本国では1930年にジッドの実録犯罪作品3篇が『汝裁くなかれ Ne jugez pasとしてまとめられ、「ポワティエの幽閉女」はそのなかに収録された。刺激の強い事件なので他のミステリー作家も、たとえばエラリー・クイーンや牧逸馬といった人たちが実録ものなどで言及している可能性はある。だが残念ながらいまはぱっと思い出せない。私はイリノイ大学出版部から出ている英語版で読んだ。モニエ嬢が語った「偉大な底地(大きく深い)マランピア Grand Fond Malampia」の真意は不明だが、現在では自ら監禁された女性が指し示すおのれの魂の在処、といったような意味で用いられるようだ。
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjYyYrnmq2DAxVnVPUHHSZACikQFnoECAkQAQ&url=https%3A%2F%2Ffukuoka-u.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F2592%2Ffiles%2FA1104_0001.pdf&usg=AOvVaw3GYWEoXc7muW9oD6T4y7tB&opi=89978449
 こんな情報を得てしまったおかげで、私は本作の後半部を、ふつうの読者以上に緊張しながら読み進めることになった。つまりシムノンがこの幽閉事件にヒントを得て本作を書いたなら、ひょっとして失踪したテッソンおじは実はエリーズおばの家の2階に幽閉されており、同じ屋根の下で暮らしていた主人公はずっとその事実を知らずにいたのではないか──そういう展開が待ち受けているのではないかと身構えてしまったからである。
 シムノンが実際にどう処理したかはここでは書かないが、本作は私の想像とは異なる結末を迎えた。しかしその結末が、すなわち最後の1ページが、久方ぶりに凄まじい揺さぶりを私の心にかけてきたのである。この結末はいったいどう解釈すればよいのか。そしてこれに関してプレイヤッド叢書の解説者デュボワ氏は手がかりを書き記していないのである。
 今後読む人のために結末の詳細は書きたくないが、ジフテリアから回復した次男ビロと母親フランソワーズの間でとても美しいシーンが描き出される。そのとき主人公のマランパン医師は完全に蚊帳の外で、彼がこの10日間ノートに縷々綴ってきた父性の実在性やその継承などといった問題は、妻と息子の前でまったくの無意味へと帰すのである。主人公の眼前には底なしの虚無が広がるだけだ。強調しておくが、作者シムノンはあと1か月で初めての子どもが生まれるという妻の横で、この小説を書いたのである。これから自分の子が生まれてくるというときに、父親の物質性を完膚なきまでに否定する結末へと突き進んだのだ。作家の業を感じずにはいられない。
 しかし、私のこの読み方は、正しいのだろうか? 英訳されたシムノン作品のすべてを簡潔に紹介しているデイヴィッド・カーターのポケット・エッセンシャル版ガイド本『ジョルジュ・シムノンGeorges Simenon(2003)に記載されている本作へのコメント欄では、

 温かく、愛情に満ちた作品であり、シムノンにしては珍しい。

 と、つまりまったく逆の読後感が示されているのだ。いやいや、これは「温かく、愛情に満ちた」どころではない、最後は家族のなかに愛などどこにもないのだと、絶望でさえない虚無へ突き落とされて終わっているのではないのか。英訳版のタイトルは『嘘の家族The Family Lieだが、これは家族の絆とか血統だとかいったものが実はすべて嘘っぱちであり、とりわけ父親など脆く、儚く、いずれ息子の記憶のなかでも粗い粒子のスナップショットとして留まる程度のもので、そんな現実を前に父親の役割や未来への貢献など考えてもまったくの無駄なのだと、作者シムノンは書いたのではないのか。
 よって私は本作を凄まじい作品だと感じるが、ひょっとするとそれは読み間違えなのかもしれない。ただ、そんな読者側の混乱をよそに、戦闘突入直前のこの時期、作家ジョルジュ・シムノンは若き巨匠として地元ベルギーの文壇から崇め奉られる存在になりつつあった。


【図100-1】

【図100-1】は本作『マランパン』の冒頭二章が初めて紹介された雑誌、《北方ノートCahiers du Nord》1939年第2-3合併号である。「ジョルジュ・シムノンに捧げる特集号」と表紙に記載されている。ベルギー、ワロン地方のシャルルロワという都市に拠点を置く出版社が発行したものだが、ご覧の通り地方発のごく質素な文芸評論誌で、毎回ひとりの作家を取り上げて特集する体裁のものであったようだ。
 しかし寄稿者のなかにはアンドレ・ジッドや、シムノンを最初に〝発見〟したといわれるアンドレ・テリーヴも混じっている。テリーヴはシムノンが本名名義でメグレものを連続刊行し始める前の1929年、仲間とともに文芸批評紙《批評旬報Quinzaine Critique》を起ち上げていた。メグレシリーズが毎月出るようになったときからすべてを《批評旬報》の時評欄に取り上げたことで、テリーヴを始め私たちは誰よりも早くシムノンを評価したといわれるようになったのだと、当時の創刊仲間のひとりがここで書き記している。他にも複数の寄稿者がおのれとシムノンの結びつきを、ときには互いの〝友情〟を語っている。
 そして雑誌の主宰者は、作家シムノンを一種の英雄と見なしていた。ピエール・ミルPierre Milleという作家はこんなふうに寄稿文を書き起こしている。

 《北方ノート》誌は私にジョルジュ・シムノン氏について数行書いてほしいと依頼してきた。「私たちに協力していただけるなら、貴殿はベルギーにおけるフランス語文学に真の貢献を成すことになります。なぜなら現在、私たちの国はフランス文化を著しく弱めかねない事態に陥っており、ワロン人は全力でその文化を擁護しているところだからです。ワロン地方の数少ないフランス語文芸誌は、ラテン語系の最果てで戦っているため、フランスの作家から見捨てられていると感じることがあまりにも多い状況です。シムノンにオマージュを捧げるということは、フランス語圏の作家をゲルマン文化の台頭と戦わせることを意味するのです」(後略)

 ドイツの勢力に対してフランス語を日常語に使う一部のベルギー人はいま非常に弱い立場に置かれており、フランスからも孤立しているが、シムノンという作家を担ぎ上げることでその存在意義を主張し、形勢逆転の狼煙としたい、ということなのである。シムノン自身がこのような文芸政治の駆け引きに関心があったとは思えない。すでに書き終えた本作『マランパン』の冒頭部をこの雑誌に提供したのも、たんに依頼されたからに過ぎないと思われる。しかしこの時期、地元ベルギーの文壇で、シムノンに対する熱い期待が勝手に高まっていたことは事実なのだろう。
 この後の戦争期、シムノン一家は空襲の危険の少ない田舎へ疎開し、だがドイツ資本を含む映画会社へ彼は原作を提供し続け、そのために戦後はフランスを離れて渡米することになる。戦中から戦後にかけてはアルベール・カミュやマルグリット・デュラスといった作家が登場し、シムノンに対して抱かれていた文学的希望は、そうした新しい作家たちへと託されるようになってゆく。
 本作『マランパン』は、そのような当時の周囲の勝手な期待や希望など、実際は何の実在性も持たない夢や幻想のようなものに過ぎないと、まるで指摘しているかのようでもある。そんな作品をあえて《北方ノート》誌に提供したのだとしたら、シムノンの精神は人間として相当にねじれているが、作家としては極めて真っ当で健全であったともいえる。
 このねじれ具合をエンターテインメントとして読むのがシムノン第二期の醍醐味だともいえる。シムノンが次の《硬い小説ロマン・デュール》を書き終えるとき、すでに欧州は戦争に突入していた。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。

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