La Veuve Couderc, Gallimard, 1942/4/30 [原題:クーデルク未亡人]
 執筆:ニュル゠シュル゠メール(シャラント゠マリティーム県)1940/5
『片道切符』安東次男訳、集英社シムノン選集4、1969/10/25*
・同、集英社文庫、1977/12/30*
『帰らざる夜明け』谷亀利一訳、ハヤカワ・ノヴェルズ、1972/8/31*
The Widow, translated by John Petrie, Popular Library, 1956/2[米]
Ticket of Leave, translated by John Petrie, Penguin Book, 1965[英]
The Widow, translated by John Petrie, introduction by Paul Theroux*, New York Review Books, 2008[米]
The Widow Couderc, translated by Siân Reynolds, Penguin Classics, 2023[英] ハードカバー判
・映画『帰らざる夜明け』ピエール・グラニエ゠ドフェールPierre Granier-Deferre監督、アラン・ドロンAlain Delon、シモーヌ・シニョレSimone Signoret出演、1971[仏]*
・映画パンフレット『帰らざる夜明け』東宝株式会社事業部(テアトル銀座)、1972/9/30*
・CD『Le Train et autres films』 musics de Philippe Sarde, bandes originales des films de Pierre Granier-Deferre, Universal Music France, 2001* [離愁その他の映画]
Tout Simenon t.23, 2003 Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012, 2023 Romans des femmes, Omnibus, 2011 Simenon Romans I, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2003

[ジッドからシムノンへ]
                     1945年7月14日、パリ
 親愛なるシムノン
(中略)
 私は『クーデルク未亡人』を貪り味わいました(〔本を送ってくれて〕ありがとう!)。ピエール・エルバール〔ジッドの親友であるフランスの作家、エッセイスト。1903-1974〕【註1】は決して私にこの本のよさを誇張したりしませんでしたが、私の賛意は彼のそれとまったく同じです(この本とカミュの『異邦人』との驚くべき類似性について、私たちは大いに話し合いました。しかし私が見るところ、あなたの本ははるかに彼方へと達しています、〝さりげなく〟、まるで自覚がないかのように。これぞ芸術の極みです)。そのことについてはまたいずれお話ししましょう──(中略)
 今宵はよい〔創作の〕天啓を! 
 充分に注意深く、あなたの
                     アンドレ・ジッド
 
ジョルジュ・シムノン‐アンドレ・ジッド ……遠慮しすぎることなく 書簡集1938-1950 Georges Simenon André Gide …sans trop de pudeur: Correspondance 1938-1950』p.85(瀬名の試訳)

 今回読む『La Veuve Couderc(クーデルク未亡人)(1942)は、作家アンドレ・ジッドが読んですぐにシムノンへ大絶賛の手紙を書き送ったことで有名な作品だ。しかもジッドは当時彗星の如く現れて大人気を獲得していたアルベール・カミュの『異邦人』(1942)と比較してシムノンの方が優れていると評価したのだから文学史上の大事件であった。日本でシムノンの新刊が出るといまもこの絶賛文が引用紹介されるのだが、原典は上掲の通り1945年7月14日付の書簡である。ジッドがとても興奮している様子がよくわかる。
【註1】
 作家ピエール・エルバールPierre Herbartについては『運河の家 人殺し』の翻訳を担当なさった森井良氏による論文を参照されたい。
https://dokkyo.repo.nii.ac.jp/record/3273/files/P-095-F43-54-2.pdf

 本作はガリマール社のプレイヤッド叢書版シムノン長篇集にも収められ、名実ともにシムノンの代表的傑作とされる一篇で、アラン・ドロンとシモーヌ・シニョレ主演の映画『帰らざる夜明け』(1971)の原作としても知られる。シムノン原作の映画のなかでは出来映えのよいほうで、映画ファンからも愛される佳作だ。
 しかしその哀愁漂う映画版と、シムノン自身が書いた小説版では、まるで結末が違うこともまた一部では知られている。よって本作の読みどころはまさに、ジッドが絶賛したシムノンが醸し出す「芸術の極みle comble de l’art」とはいかなるものであったのか、いまなお世界中で読み継がれている大ベストセラー『異邦人』とシムノンは本当に似ていたのか、そうではなかったのか、そして映画版の成功とシムノンの小説の相違はいかにそれぞれ異なった手法で私たち大衆の感情を揺さぶり、またその手法の違いは「芸術の極み」においていかなる作用を発揮していたのか──を探ることにある。
 本論に入る前に、「veuve」というタイトル内の言葉について確認しておきたい。Veuveとは男性名詞veufの女性形で、どちらも「やもめ」「配偶者を亡くした人」の意味がある。配偶者と生き別れて後に残された人、というだけでなく、離婚して配偶者のいなくなった人、結婚せずに独り身で通す人のことも指す。
 フランス語ではその人が男性か女性かで呼び名を変えてきた歴史があるので(たとえば菓子職人が男性ならパティシエ、女性ならパティシエール)、男やもめならveuf、女やもめならveuveと語尾が変化し、性別がひと目でわかるのだが、日本語に訳すといささか判別が難しくなってしまう。
 本書に出てくるla veuve Coudercとはクーデルク家に嫁いだが夫に先立たれてしまったタチTatiという女性のことだ。安東次男訳による邦訳『片道切符』では「クーデルクのやもめ」ないし「やもめのクーデルク」と訳されているのだが、日本語の字面だけ見ると、この「やもめ」が男性なのか女性なのかはっきりしない(さらにいえば「クーデルク」が人の名なのか土地の名なのかも日本人にはすぐにわからない)。そのため私も以前は「クーデルクのやもめ」という仮邦題を見ただけでは、これが男やもめなのか女やもめなのか、どこに住んでいるやもめの話なのかわからなかった。実際に小説を読んで初めて「クーデルク家の女やもめ」の話だと知ったのである。
 やもめという言葉は日本に古くからあったらしく、男女どちらも指していたようだが、一方で女性の場合はやもめ「寡」「寡婦」、男の場合はやもお「鰥」「鰥夫」と呼ばれることもあったらしい。ただし私は実生活で「やもお」という言葉を聞いたことはない。また私は小さかったころ、やもめとはもっぱら男性の方を指すのだと思っていた。映画《トラック野郎》シリーズに登場する愛川欽也の愛称「やもめのジョナサン」を耳にしていたためかもしれない。現代日本では誰かのことを直接指して「寡婦」「寡夫」ということはなく、これらの言葉は公文書用語として使われる。
(ちなみに私が「寡婦」という言葉を人生で初めて知ったのはエド・マクベインの邦訳タイトルからであった。なんて洒落た、かっこいい言葉だ! とそのとき思った)。
 夫と死別した女性のことを「後家」「未亡人」と呼ぶ時代もあった。日本の古い生活習慣によって、死別後も女性は一族の姓を名乗り、○○未亡人として家長の役目を担う一方、もはや一族と繋がりはないのに嫁ぎ先の名声や財産にしがみつく強欲な人間と見なされ侮蔑的に用いられることもあったかもしれない。また「未亡人」は(夫が亡くなった後も)「いまだ亡くなっていない女(人)の意味であるから、「後家」ともども失礼な言葉であるとして、近年は使われなくなってきている。しかし古いミステリー小説ではしばしば「未亡人」の言葉が登場し、雰囲気づくりの一端を担っている。
 本作における女やもめのタチは、まさに夫が亡くなった後もクーデルク家に居座り、その財産を受け取ろうと執着している女性なのだから、ここではむしろ古い「未亡人」という呼び名がふさわしい。またシムノンには後年に別の『Le veuf』(1959)という長篇があり、こちらは男やもめを指すので、どちらもたんに「やもめ」とすると区別しにくい弊害もある。そこで本稿ではシモーヌ・シニョレが演じた女やもめタチを「クーデルク未亡人」の呼び名で通すことにする。
 
 男はその日、サン゠タマンからモンリュソン〔どちらもフランス中央高地、クレルモン゠フェランの北に位置する町〕へ向かう道をひとり歩いていた。通りかかった乗合バスで、彼はタチという地元の女を知る。彼女はサン゠タマンの市場で孵卵器を買って家に戻る途中で、男は彼女が降りるとき荷物運びを手伝い、それがきっかけでジャンと名乗るその男はなんとはなしに、運河近くのタチの家に住み込み、下男として働くことになった。ジャンは孵卵器をセットする。ランプで温度を39度に保てば21日後に雛が孵るのだという。
 左頬に大きな痣のあるタチは、クーデルク家で耳の遠い義父と暮らす未亡人であった。彼らは二頭の牝牛や鶏や兎などを飼い、細々と生計を立てている。タチは少女だったころ、母親を亡くしたばかりのクーデルク家に住み込み働きとして雇われたのだ。一家には息子ひとりと娘ふたりがいたのだが、その長男は数年後、ほぼ同年齢であった17歳のタチに手を出して孕ませ、そしてしばらくして死去したのである。以後、タチは亡き息子の嫁にも手を出そうとする呆けた老人の義父とふたりで、未亡人としてこの家で暮らしてきた。
 クーデルク家のある運河沿いの場所はハシバミが茂り、釣り人が運河に糸を垂らし、村人が自転車で往復するのどかな土地だが、一家は周囲の村人から疎んじられている様子だった。家庭事情もやや込み入っており、義妹のフランソワーズは運河の向かいに建つ煉瓦工場の番人と結婚し、フェリシーという16歳の娘にはすでに赤子さえいるが、誰の子なのかわからないありさまだ。もうひとりの義妹アメリーは夫とサン゠タマンで暮らしているが、タチにこの家を乗っ取られるのではないかと心配でならず、タチを追い出そうと画策している。またクーデルクとタチの間にできたひとり息子ルイはしばらく前に軽犯罪で入牢し、いまはアフリカ囚人部隊として戦地に出ている。
 タチは粗野で馴れ馴れしい48歳の女だった。身元もわからないまま連れ込んだ28歳のジャンと自ら交わり、その日から「あんた」呼ばわりで住み込ませる。奇妙な共同生活が始まったのだが、実はジャンにも過去があった。彼はモンリュソンの醸造主パスラ゠モノワイユールの息子であり、女絡みで事件を起こし、人を殺して、これまで5年間入獄していたのである。弁護士の画策のおかげで5日前に仮釈放で出所し、気の進まないままなんとはなしにモンリュソンへ足を向けているところでタチと出会った次第であった。しかし地元の憲兵は流れ者のジャンを訝しみ、やがて彼の素性はタチやその義妹たちにも知られるところとなる。だがタチは義妹らとの口げんかに一歩も退かず、自分はこの家を出ていくことはないと頑固に主張し、人殺しのジャンをそのまま家の屋根裏に置いていた。未亡人であろうと自分にはクーデルク家の財産の三分の一を継ぐ権利がある、この家は自分のものだというわけである。
 やがて義父は運河向こうのフランソワーズが連れてゆき、家には未亡人のタチとジャンだけが残った。タチはジャンに対して挑発的なことをいい始める。自分にはこの家という遺産の他に、秘密で貯めた現金2万2千フランがある。彼女はその隠し場所さえジャンに教え、いつでも自分を殺して金を奪って逃げてもよいのだというのである。一方、ジャンは赤子のいる娘フェリシーと、ついに納屋のなかで男女の関係となった。タチはそのことに気づいたらしく嫉妬心を燃やし始めるが、ジャンは若娘との逢瀬に溺れてゆく。ジャンは自覚していた、あと一歩で自分はまた犯罪に踏み込んでしまう、と。彼の心のうちで、かつて弁護士に読み上げられた刑法の条文が何度も浮かび上がり、彼を苛む。次に何か揉め事を起こしたら、必ず自分は死刑になる……。だが充分にそのことがわかっていてなおジャンは、後戻りのできない危険な領域へと進んでゆく。

 本作が書かれたのは1940年5月。『シャルルおじは閉じ籠もった』第104回)の1939年10月から半年あまり空いていることがおわかりいただけるだろう。この間、シムノンは1939年12月に『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』第64回)を、また1940年1月に『メグレと判事の家の死体』(第65回)を、それぞれ執筆している。第二期メグレの長篇である。第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻して始まったのだが、フランスは9月3日に英国とともにドイツへ宣戦布告したものの、ドイツ軍の進撃によって1940年5月には国土を攻められ、6月14日にはパリも陥落、内閣は総辞職し、同月22日に休戦条約が調印された。その後しばらくドイツ支配下によるヴィシー政権が続くことになる。つまり本作『クーデルク未亡人』はフランスに住むシムノン一家にとってもかなり厳しい状況下で書かれたものであり、パリ占領に先立ってシムノンがメグレものの執筆を再開したのはそれなりに生活の事情があったのだと容易に察せられる。
 実際、シムノンとジッドの書簡集を見ると、1939年12月の時点でシムノンは、いやいやながら稼ぎ頭のメグレものを再開することを許してほしい、と先輩ジッドに書き送っているのがわかる。戦時中の中期メグレの長篇はとりわけエンターテインメント性の高い娯楽小説に仕上がっていることを以前に述べたが、作者シムノンもはっきり金のために書くと当時自覚していたのである。

[シムノンからジッドへ]
             [1939年12月、ニュル゠シュル゠メール]

 私の親愛なる先生
(中略)
 私の方は、私たちとしては、家族3人なので、自分のなかに引き籠もっています。(中略)家庭に対する脅威がより確実に、またより暴力的なものになるまでは、ヒロイズムが私の義務だとは思いません。
 自分をこんなふうにいうのは、あなたの忍耐強さにつけこむことにならないでしょうか? (中略)
 開戦して5日目であった、と思います。昼の1時から1時間かけて、私は、いうなれば、自宅の庭に身を投じ、そこにある花をすべて根こそぎ引っこ抜きました──鍬で耕し、均して、野菜を植えました……。そしてタイプライターに向かって書きました。何時間もそこで──何時間もあちらで。子供部屋で何時間も、ニュルを片時も離れることなく。〔余計なものは〕何も見ず、何も聞かずに。
 そうして私は夏の間ずっと空虚で、自分の努力の糸口も見つけられず3か月書き、それも稿料のあてもないまま3つの長篇を、だからもしそれらがすぐに出版されるならと私は願いましたし、思い通りにその願いが実現するか早く知りたくもありました。それでついに私は自分がつくりたいと願っている小さな世界に、それぞれの時空avoirとそれぞれの存在êtreとそれぞれの物事choseが、居場所を見つけて収まってゆく、そうした充実感の始まりに到達したのだと思います。
 生まれてきたのは……ただし『フールネの市長』はまだ出版されておらず、1年寝かされていましたが、他の小説は出版を待って大理石の上にありました……。
 生まれてきたのは……それぞれ題名は『マランパン』『ベルジュロン』『シャルルおじは姿を消した』で……間違えました、『マランパン』は春でした。最後に『雨だよ、羊飼いの娘さん…』です。【註2】
 私のつまらない話を笑わないでください。壊れるようなこの世界のなかで、私は『雨だよ、羊飼いの娘さん』などといった小説にしがみついていたのです。そして白状すると、恥ずかしいことに、私はメディアの批評よりあなたの意見の方がずっと気になっているのです。
 それだけのことです。私はこれからおそらく、家庭の鍋を沸かしてゆくために、新しいメグレものをいくつか書くでしょう。進んで喜んでやるのではありません。私はガストン・ガリマールに、彼があなたに会うとき、この件についてあなたの意見を聞いてもらうよう頼みました。『雨だよ、羊飼いの娘さん』〔出版〕後、しばらく〔刊行が途絶えて〕黙って休むとしても、私にとってはさほど苦痛ではありません。
 私の親愛なる先生、どうかこれらすべてをお受け止めください、私からの質草として──いささか生意気な──私の憧れの気持ちを、私の熱意とまた重要なるひとつの認識を、そしてもし追加の言い訳が必要ならば、どうか〔私が覚えている〕この絶対的な孤立感を加えてください。あなたの
                         シムノン
『ジョルジュ・シムノン‐アンドレ・ジッド ……遠慮しすぎることなく 書簡集1938-1950 Georges Simenon André Gide …sans trop de pudeur: Correspondance 1938-1950pp.50-51(瀬名の試訳)
 
【註2】
 ここでシムノンは自作の執筆時期やタイトルをいくらか間違えて記述している。要するにここで彼は、ロマン・デュールを黙々と書いてきたが、戦争の影響でなかなか書籍として世に出ない現状に、それまで感じたことのなかった不安を覚えているのである。

 この時期スムーズに書籍が出版されなかったのは版元ガリマール社に責任があったのだが、速筆で鳴らしてのし上がり、書いた端から本を出し続けてきたシムノンにとって、原稿がストックされたまま本にならないという事態は前代未聞のことで、かなり精神に堪えていたのではないかと思われる(1940年にシムノンが出版した書籍は『マランパン』第100回)と『家の中の見知らぬ者たち』第98回)のわずか2冊である)。日銭を稼ぐためには知人の作家ジョゼフ・ケッセルが絡んでいる右翼誌《グランゴワール》に短篇を定期的に寄せるだけでなく、一定の読者がついているメグレものを書いて売り込むしかないと考えたのだろう。しかしシムノンの目論見もすぐさま希望通りの結果を生んだわけではなく、『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』が1940年4月ころ《マリアンヌ》誌に連載されたことはわかっているが、次のメグレ長篇が紙面掲載されるのは翌1941年に入ってからだ。
 本作『クーデルク未亡人』も1940年5月に書かれたが出版されたのは2年後の1942年4月であった。そして作家アンドレ・ジッドが本書をシムノン自身から送付してもらって実際に読むのは戦争が落ち着く1945年7月のことだ。また一方、若きアルベール・カミュも1940年当時はようやく小説のかたちを成してきた『異邦人』の原稿を抱えつつ、パリやクレルモン゠フェランで右往左往していたのである。『異邦人』がガリマール社から出版されるのは同じく1942年。
 まず本作の技法に注目すると、前回(第105回)指摘した時制の交錯、回想と現在の情景が改行もなしに次々とシャッフルされてゆく特異な一連の描写が、第4章で印象的に登場する。安東次男の翻訳がその危うさを見事に日本語に置き換えて提示しているので、読むならばぜひ集英社版の安東訳をお薦めしたい。
 文庫版ではp.88からがその部分にあたる。タチがジャンの素性について町から聞き込み、家に戻ってジャンに問いかける。あなたは人を殺したのかと。その瞬間、ジャンはおのれの過去のことを思い出す。心のなかでジャンは叫び始める。さらには人殺しをしたそのときと、それよりも前の記憶、すなわち人殺しに至るまでに女学生との絡みがあったことも思い出すのである。すなわち多段階の過去がフラッシュバックするのだが、その間にもタチはより深淵へと質問を連投し、その現在進行形の会話が差し挟まれる。ジャンの心はいま現在タチに対して応えている自分の焦りと、人を殺して入獄し、弁護士に入れ知恵をつけてもらって情状酌量されたその忌々しい経緯と、なぜそもそも人を殺すことになったのかという学生時代や少年時代の回想が交錯しており、この混乱した様子が改行もないまま作者シムノンの文章によって進行してゆく。こうした書き方は以前からシムノンが少しずつ表面に出してきたものかもしれないが、私がはっきりとその特徴に気づいたのはここ数作でのことだ。シムノンは戦時中からこうした書き方を〝意識的に〟取り入れるようになったのだと思われる。この書き方が〝意識的〟であると私が述べる理由は、本作において主人公のひとりジャンが混乱に陥ったまさにそのときを狙って、作者シムノンはこうした複雑な時制展開を繰り広げているからだ。時制をシャッフルすると作中での混乱度が増す。これは小説を書くときの常套手段ではあるのだが、うまく翻訳しないと内容以前に文章として意味が取れなくなってしまう。その難問部分を安東次男は実に巧みに訳して、私たち日本人の読者にもすっと心に染み込むようにわかりやすく文章化しているので、ぜひともこの超絶技巧は直接読んで確かめていただきたい。
 この時制のシャッフルは、本作より前に書かれた『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』でもあっと驚くかたちで用いられている。第7章でメグレがアメリカの実業家クラーク氏を尋問し、その顛末を後でメグレ夫人に話して聞かせる一連のシークエンスだが、クラークへの尋問場面とその夜メグレ夫人に物語る〝未来の情景〟がときおり不意に交錯する。最初のあたりではあまりに読者が吃驚することを考慮してか、新訳版では1行空けが何度か使われているが、シムノンの原文に空けなど存在しない! シームレスに尋問シーンと夫婦の会話は往復するのである。『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』の巻末解説で編集子がこの部分の文章的特徴を提示し、「重要でないシーンは、一段落の中で夜から朝へと早回しするように描き、重要なシーンが反芻するように未来と現在を行ったり来たりさせ、読者へ印象づける。そうしたシムノンが小説を書くときの呼吸がよく分かるのが、本作の第七章なのだ」と述べているが、このシムノンの〝呼吸〟は第二期になって顕著になってきたのだと私は考えている。2023年刊行の『メグレとマジェスティック・ホテルの地階〔新訳版〕』は原文にない文章を加えてわかりやすくするなど自由訳に近い手法が採られているが、シムノンの特徴を顕著に示す第7章の時制シャッフルは、ひょっとすると編集部と訳者の判断で、あえてぎりぎりの部分まで訳文に残したのかもしれない。
 本作『クーデルク未亡人』に話を戻すと、ジャンが未亡人タチと小娘フェリシーの間で心が揺れ動く辺りから一気に背徳感が増し、そのいかにも爛れた感じがシムノンらしさを増幅させる。ジャンとフェリシーが納屋で鶏が頭の上を歩き回るなかで情事を重ねるシーンなど、あまりにもできすぎていて笑いたくなってしまうほどであるし、まさにその場面を表紙イラストで描いて読者の下心に火をつけるポピュラー・ライブラリー版の英訳ペーパーバックは、「そうそう、シムノンといったらこうでなくちゃ!」というヴィンテージものならではの雰囲気をいまに伝えて私は大好きだ。
 こうしたなかで各章の冒頭に田舎の季節感を示す素晴らしい情景描写が組み込まれる。シムノンはペンネーム時代に小さな船でフランス国内の川や運河を回ったのだが、その際に本作の舞台のあたり〔ルルー゠ブルボネLouroux-Bourbonnais付近と思われる〕も訪れたらしい。船から見えた釣り人や自転車で走る村人たちが印象画のように鮮やかに描かれているほか、次の各章の冒頭部や一行空け後の再開部分は鮮烈を極め、本作がカミュの『異邦人』で書かれた「太陽が眩しかったから」と比較されたのも宜なるかなと思わせるものがある。

 その週の土曜日は、ジャンにとって、子供が指折り数えて待ちこがれる、一日に似ていた。p.72
 いずれはまずいことが起こるかもしれぬ、とは予測できたが、こともあろうに美しい太陽が輝くある日曜日の午前に、こんなふうに騒ぎがもちあがろうとは、誰も考えなかっただろう。p.124
 朝から晩まで、なま暖かな雨が降り続け、詰めものをしたようにやわらかな空の下には、たとえようもない穏やかさ、静かさがゆきわたって、草の伸びる音さえきこえてきそうだった。p.135
 今年の夏は腐った夏だ、と言い張ったのはタチだったろうか? 二日おきに、すくなくとも三日にあげず、遠くで雷が鳴っていた。そのくせ、夕立が和らげてくれる様子もなかった。雷は、空の多く、モルヴァン山寄りに発生しているらしかった。大気は重苦しく、にわかに光線が脂で描いたように見える。ついで、地平の四隅に稲妻が裂け、運河の水面にさざ波がたち、マロニエの葉がふるえて、自転車に乗った少女達のスカートは膨れ、雨滴がいかにも不承不承にばらばら落ちてくる。そのあとは、あたりが何時間にもわたって灰色画法グリザイユのようにかき消され、風が吹き抜け、霧雨が降ってきた。p.206
(安東次男訳)

 とくに最後に引用した最終章、すなわち第10章の冒頭部は、素晴らしいとしかいいようがない。まさに集英社から出る海外文芸にふさわしい。
 集英社のシムノン選集は訳者陣に錚々たるメンバーを揃え、宇野亜喜良という最適のデザイナーに装丁を任せた見事なものだったが、そのなかから最初に集英社文庫へ収録されたのが本作『片道切符』だった。かつて私にとって集英社文庫は角川とも講談社とも異なるハイブロウな文庫の印象が強く、とりわけ海外文学に関してはアラン・シリトーやフィリップ・ロスといった強面の作家が並ぶ、岩波文庫以上に高尚な文庫シリーズであった。しかし一方で地元作家・三木卓の『はるかな町』や藤原英司訳によるシートン動物記などもラインアップに入り、背表紙のSマークが眩しく感じられたことをよく憶えている。そして著者番号の下に作品番号が数字ではなくアルファベットで記入されるのも素敵だった。本作『片道切符』は集英社文庫14Aであり、いま私が持っている古本には、「発刊以来好評の集英社文庫が、おかげさまで合計421冊になりました。」と味わい深い宣伝文のリーフレットが挟み込まれている。
 そしてp.124の引用部分に「太陽」という言葉が出てくることは、カミュ『異邦人』の有名な台詞と本書の類似性を想起させる。どちらも太陽が眩しかったことを示しているのだが、皆様はどちらの方がお好みだろうか。カミュの太陽の眩しさはフランスの植民地支配の実態と連結しているのに対し、シムノンの場合この太陽の目映さは誰もが持っているはずの幼少期の〝あの〟日曜日と直結しており、しかしその待ち焦がれるものであるはずの〝あの〟日曜日が、爛れた大人の事情を引き起こしてゆくのだと私たちに示している。カミュは若いが、シムノンはすでに大人なのである。新人カミュの持つ華々しさと、どこまでも田舎の村の風景を灰色画法として描くシムノンとの間には、デビュー作を書いてそれが話題となって芥川賞を獲ってしまった新人作家と、30年も作家として活動してきて突然初めて直木賞候補となり、一部の選考委員より年上でありながら賞を受けたベテラン作家が同じひな壇に立っている、まるでそんな感じのちぐはぐさが漂っている。しかも数年経つと芥川賞を受賞した新人作家はテレビやSNSの発言などでいつの間にか大層な文化人扱いをされ、時評や文学論などを書き始めるが、直木賞を受賞したベテランの方はいまだに黙々と小説ばかり書いている、そんな未来さえ予言するかのようである。──しかし確認して私も驚いたのだが、カミュとシムノンは10歳しか歳が違わないのだ。
 伝説が語り継がれている。1937年にシムノンが『ドナデュの遺書』第58回)を発表したとき、「あと10年でシムノンはノーベル文学賞を獲る」と囁かれたのだそうだ。しかしシムノンに受賞の知らせがゆくことはなかった。カミュはシムノンを気にかける素振りも見せなかったが、シムノンは密かにカミュを読んでいたらしい。そして1957年にカミュがノーベル文学賞を受賞したと知ったとき、これはシムノンの妻が後に証言したことなのだが、彼は怒りを露わにしてこういったというのだ。「信じられるか、あんな奴が受賞しておれが受賞しないとは」──。しかもこの伝説は、どうやらひょっとすると事実であったらしい。
 本作でクーデルク未亡人はジャンを異邦人(よそもの)として迎え入れる。ジャンはフランス人に見えないらしく、タチは二度ほど「あんたはユーゴ人?」と訊くのである。よそものだからこそタチは彼を受け入れ、下男にしたのだともいえる。クーデルク未亡人であるタチ、仮出所してきたばかりのジャン、そして父なし子を抱く小娘フェリシー、この3人はいずれもこの運河の村では〝よそもの〟である。タチとフェリシーはもとから村人に人間扱いされていない。そこにジャンが入り込み、彼はタチとフェリシーのふたりの肉体を貪るのだが、ジャンにとってフェリシーはよそもの同士とはいえいまなお分断の対象であり、彼に良心の呵責を覚えさせる程度には〝向こう側〟の人間であると見なされているのは興味深い。フェリシーは運河を隔てた向こう岸に住んでおり、ふたりが会うには跳ね橋を下ろさなければならないからだ。そして跳ね橋が下りてフェリシーがこちらの岸に来ることで納屋における性愛は成就する。ふだん彼女はタチとジャンのふたり暮らしに奥深くまで干渉することはできない構図になっている。その絶妙な断絶感がジャンを追いつめてゆくことになる。
 本作と『異邦人』の類似性が語られる大きな理由は、本作におけるラスト部分のジャンの心情と行動描写にある。『異邦人』の主人公ムルソーは太陽が眩しかったから人を銃で撃って殺し、そして裁判を受け、一種の自暴自棄に陥りつつ昂揚感を手放さずに刑罰を受ける。そうした過程が本作の終盤と表面的に似ているのだが、実際は読み比べると受ける印象がずいぶん違う。カミュの描くムルソーはやはり若いのだ。イキっているが刑罰を受けて人生が終わるからこそ最後にひと花咲かせることができたのであり、それがたまたま青春の輝きのように見えてしまうに過ぎない。
 一方シムノンの描くジャンはすでに一度捕まり、5年の刑期を経て、いま仮釈放されているのである。そうした状況で、もし罪をまた犯したなら、今度こそ死刑宣告を受けるのだということを自分でもはっきりわかっている。よって若者ムルソーとは立場が違う。従って本作のジャンは宿命的にあえて〝死ににゆく〟ことになる。だがそれは石原慎太郎氏が脚本を書いたという映画のタイトルにあったように、かつての特攻隊日本兵のような決死の覚悟によってのものであったか? まるで違う。ジャンには何の覚悟もない。ただ袋小路に自ら嵌まり込んでゆくだけだ。
 タチはジャンのことをよそものだと思っている。外国人かユーゴ人だと思っている。だが同時に、いま囚人部隊でアフリカにいるひとり息子のルネとどこか似たところがあると感じている。そのためタチは最後の最後にジャンの懐へ入り込んでくる。ふたりでクーデルク家の財産と密かに貯めた金を持って村を出て行きましょう、そしてふたりで暮らしましょうと。一方であんたがあの小娘と乳繰り合っているのはどうしても許せないという。このずかずかと土足で他人の心に入り込むタチのあまりな〝人間ぶり〟がついにジャンの心を壊す。
 ジャンはおのれの心の奥底にある最後の〝人間らしさ〟を自ら殺すかのように〝死ににいく〟──すなわち機械になる。なぜなら彼にとってはこの茶番が〝耐えられない〟からだ。前回「《サン=タントワーヌ号》の喜劇」第105回)で見た「喜劇」、すなわち「道化芝居」、あるいは「茶番」。他人のことを好きだとか嫌いだとか結婚したいだの何だのと言葉にすることすら人間として生まれてしまった自分には〝耐えられない〟。彼は自分がまったくの正気だと自覚している。ここがカミュの『異邦人』と類比される所以だろうが、彼が正気なのは彼が人間だからであり、そして同時に機械であるからなのだ。シムノンは人間がこうなる瞬間の心理をまさに理解している。ここが『異邦人』と決定的に異なる点だ。
 クライマックスで彼が叫ぶ言葉──ネタバレになるので原文のフランス語のみで記しておくが──J’en ai assez! Assez! Assez! では、何が彼にとってassezだったのか。私が思うにそれは、「人間であり続けることに対して」だ。ここでもってシムノンの『クーデルク未亡人』はカミュの『異邦人』と決定的に離れて、はるか遠くの地平へとゆく──よって最後にジャンが再び目を醒ましたとき、まず彼が述べる台詞は、表面的にはあまりにひ弱な人間のものであり、最後に書かれる台詞は表面的にはあまりに自暴自棄的なものだ。しかしこれほど『異邦人』と読後感が違うのは、シムノンはカミュと違ってもとからあの日曜日の太陽が眩しいと知っていたからであろう。
 本作は21日間の物語である。なぜそれがわかるかというと、初日にタチが孵卵器を買ってきて、その日にジャンがセットし、そして物語の最終日に孵卵器の卵から雛が生まれるからだ。この構成が素晴らしい。人間の事情などとはまったく関係なく、39度で温め続ければ、生命は宿命的に孵るのである。

 ニューヨークレビューブックス版の英訳シムノンには毎回著名な作家や評論家が見事な解説文を寄せているが、本作『クーデルク未亡人』に寄稿したのは作家のポール・セローだった。やはり彼もまたカミュの『異邦人』と本作を比較し、ジッドがシムノンの方をより賞賛したこと、またカミュがノーベル文学賞を受賞したときシムノンが激怒したことなどのエピソードを折り込みながら、充実の論考を展開している。セローもまたアメリカのポピュラー・ライブラリー版の表紙イラストを見たそうで、『異邦人』は刊行後どんどんアカデミアに認められ、格調高い文芸作品として売られていったが、一方のシムノンの本作は扇情的な表紙イラストや惹句とともに25セントで売られたのだと紹介している。もちろんセローはあからさまに書いていないが、シムノンの方が作家としてその本分をまっとうしていたのだと認めているのだ。
 セローの解説文のなかにはなるほどと思わせる指摘がいくつかある。シムノンはたいていの場合、性愛シーンをほんの1、2行で済ませてしまうのが特徴だが、本作に限っては性的な隠喩がかなり多く登場するというのである。思い返すとまさにその通りだ。そして本作冒頭部のジャンが昼下がりの道を歩いている場面で、最初に示される木立と次に書かれるジャンの影の落ちる向きが違っているという指摘にはあまりの鋭さに驚愕した。ここからセローはシムノンにとっての〝太陽〟の意味を考察する。影の位置が変わったのはおそらくシムノンのうっかりミスであろうし、シムノンはそうした些細な食い違いがあっても原稿を修正しないタイプであったらしいからテキストに残ったのだろうが、それがシムノンにとって些細なミスに過ぎなかったのは、シムノンにとって太陽の光と影は〝あの日曜日〟ならばそれだけですでに意味を持つのであり、影の向きはいわば心象に過ぎないためだったのだろう。セローはこの冒頭をもってシムノンとカミュの違いを鮮やかに示す。凄い考察だと私は感じた。
 またシムノンのロマン・デュール作品はmalentendu(誤解、感情の食い違い)の物語であって、本作も例外ではないという。カミュの戯曲に同名のものがあり(『誤解Le malentendu』1944初演)、ここから両者の類似性を見て取ることもできるが、やはり両者のそれは異なるのだとセローは指摘したいようだ。そしてシムノン作品にはしばしは登場人物を隔てる空間的な断絶があり、本作ではそれが運河として表現されているという指摘には同感である。

 本作はアラン・ドロンとシモーヌ・シニョレ主演によってピエール・グラニエ゠ドフェール監督で映画化された。グラニエ゠ドフェールは『Le Chat猫』(1971、日本未公開)に続いて本作が二度目のシムノン原作映画であり、この後さらに『離愁』(1973)を撮っている。彼はブリュノ・クレメール版TVドラマにおいても第5シーズン(1995)の『ローソク売り』以降かなりのエピソードで脚本や監督を担当した。叙情的な雰囲気の画面づくりに定評がある。
 映画は空撮で舞台の田舎の情景を見下ろしつつ進むカメラワークで幕を開けるのだが、この映像が素晴らしく、またここに流れるフィリップ・サルドの主題曲の旋律が実に美しい(この主題曲は、サルドがグラニエ゠ドフェール監督の一連の映画に寄せたCD楽曲集に収められている)。カメラはふたつの川の軌跡を捉える。ふたつの静かな川が沿うように村を流れてゆくのが見て取れるのだが、これがまさに原作でも書かれたシェール川とベリー運河を示すのであって、この絡まりそうで決してひとつにならない互いの流れが主人公たちの運命を象徴しているかのようである。
 グラニエ゠ドフェール監督は脚本も兼任しているが、シムノンの原作ともっとも異なるのはその背景で、映画は1934年に時代が遡っており、あのスタヴィスキー事件の新聞見出しや、極右派がパリで暴動を起こした時代であることが示される。こうしたなかでアラン・ドロン演じるジャン・ラビーニュは、よそものとして田舎にやってきてクーデルク未亡人と出会う。この時代、反ユダヤ感情がフランス国内で沸騰し、人殺しであるジャンはさらにユダヤ人の疑いもかけられ、いっそう村人から突き放されることになる。日本版DVDでは字幕で示されていないが途中でジャンが町の教会へ赴くとき、その教会の壁に大きく「LA MAISON DE DIEU N’EST PAS POUR LES JUIFS」(神の家はユダヤ人どものためにあるのではない)とペンキで落書きされている光景は衝撃的だ。
 また小娘フェリシー役のオッタヴィア・ピッコロが、あえて特殊な演技を見せていることも絶妙にイヤな感じを醸し出している。クーデルク未亡人役のシモーヌ・シニョレが運河の洗濯場で村八分にされる描写もそうだが、田舎の情景が美しいだけに映画版はシムノンの原作を超えた〝わかりやすいイヤさ加減〟を突きつけてくる。
 だからこそ原作と異なるクライマックスからラストへの流れ、ジャンとタチが立て籠もるクーデルクの家を重装備した憲兵隊が取り巻き、後戻りできない状況へと追いつめられてゆくくだりは、まさにピエール・グラニエ゠ドフェール監督流の〝わかりやすいメロドラマ〟として観客の涙を誘うものとなった。ジャンの行動はまったく原作と違うものとなったが、私たちは人間であるがゆえにこの〝わかりやすさ〟で充分に泣くことができる。このような〝わかりやすい〟改変は映画『離愁』のラストでも同様におこなわれており、それゆえ本作『帰らざる夜明け』と続く『離愁』はシムノン原作映画のなかでも名作と評価されたのだ。
 だがこの映画は監督の技量だけで名声を馳せたのではない。公開当時、観衆は最後に追いつめられる人殺しのジャンを、現実の俳優アラン・ドロンと重ね合わせていた。映画パンフレットを見るとわかるが、このころドロンは殺人容疑のスキャンダルの真っ只中にいたのである。前の映画『太陽が知っている』(1969)の撮影中に彼の付き人兼ボディガード、ステファン・マルコヴィッチが射殺され、遺体となって発見された。アラン・ドロンは重要参考人として何度も召喚されたが、結局証拠不充分で不起訴となった(いまなお真犯人は特定されていないと思われる)。このような状況下、本作で人殺しの役を務めたドロンは、その後も自ら危険なイメージを出演映画で連続して身に纏うことで衆目を集め時代を乗り切ったのだ、というのが今日のドロンに対する評価である。しかしそのシンクロぶりは現在の私たちが考える以上であったと思われる。確かに70年代のアラン・ドロンは私も怖いと感じていたが、本作『帰らざる夜明け』のパンフレットでは映画の最後に映し出されるテロップを当時の映画評論家が誤解して、本作は実話がもとになっていると説明してしまっている。ラストにアラン・ドロンの顔がアップになり、それが新聞写真のように白黒になる。そこに重なるテロップの文言はこうだ。

「En 1922, JEAN LAVIGNE, fils du physicien ÉTIENNE LAVIGNE, avait abattu, au cours d’une réception officielle, deux hautes personnalités.
 Au Président du Tribunal qui lui demandait les raisons de son acte, il avait répondu : J’en avais assez.

「彼は12年前パーティで2人の高官を射殺した。裁判官に動機を問われて、〝○○○だったから〟と答えた。」(ネタバレ防止のため字幕を一部伏せ字)

 映画評論家はこのテロップの内容が実際にあった出来事だと思ったのだ。その評論を読んで私も驚いたのでできる範囲で調べてみたが、プレイヤッド叢書版シムノン集の解説にもそのようなことは書かれておらず、おそらくこのテロップはシムノンの原作をもとにした監督の創作だと思われる。しかし前述のマルコヴィッチ事件に加えて映画の内容も事実がベースだと観衆に誤解させるほど、本作におけるアラン・ドロンは危険な男を演じ切っていたのである。
 映画版では原作のジャンの台詞「J’en ai assez」を、「J’en avais assez」と半過去形にしている。すなわちジャンは過去に人殺しをしてそう思ったことがあり、その思いを胸に抱いたまま半ば死んだ人間として漂流し、よそものとして田舎に辿り着き、そしてクーデルク未亡人と邂逅したことになる。だから映画のジャンは最後に、タチへ真実の愛を見つけかけたのだ。
 ただ、映画の最後の字幕は、この訳では不充分だったろう。カミュの『異邦人』に寄せたのかもしれない。だがこの字幕は正確な内容ではないのだ。
 ぜひ集英社版の訳文で、ジャンが本当は何と叫んだのかを見届けていただきたい。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。

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