・La rue aux trois poussins, Presses de la Cité, 1963(1963/10/20) [原題:ちびっこ三人のいる通り]中短篇集 |
今回は戦後の中短篇集『La rue aux trois poussins』(1963)に収録された短篇から4篇を取り上げる。書籍の刊行時期こそ遅いが、実は収められた14篇のうち8篇は、以前(第103回)紹介した新聞《グランゴワール》に戦時中掲載されたものだ。今回読むのはいずれも1939年冬に書かれたと推測される短篇[2, 7, 6, 4]である(『Nouvelles secrètes et policières』第2巻掲載順)。なぜ同紙先行掲載の2作、「ジョゼフの首」「タヒチのリトル・サミュエル」が未収録となったのかは不明だが、たんにページ数の都合で最初の2作を省いただけかもしれない。
短篇集の総タイトルは冒頭の短篇から採られており、直訳すれば『三羽の雛鳥のいる通り』だが、poussinには「雛鳥」「ひよこ」の他に「おちびさん(幼児)」の意味もあり、ここでは『ちびっこ三人のいる通り』となる。
ニューファウンドランドで7か月の漁猟を終えた《サン゠タントワーヌ号》がフェカンの桟橋に帰ってきた。船員のひとり「ちびのルイ」は身支度を調え、ノルウェーのトロール船から買った美しいカナディアンブーツを履いて町に出る。彼はすぐ列車に乗ってコンカルノーに向かう予定だったのだが、潮の加減で停泊が遅れ、その日の列車は去ってしまったので、予想外の時間ができたのである。
昔なじみの鋳掛屋や賭博師や港のねずみ(ごろつき)がちびのルイに声をかけてくる。ちびのルイは誇らしげに「ぼくは結婚するんだ!」と答え、知り合いであるレオンのカフェバーに入った。ルイはそこでもレオンに「ぼくは4日後に結婚するんだ」と告げ、その結婚資金として貯めた1800フランが入った財布を店主レオンに預けた。明日出発するまでに自分が散財しないよう、用心のためだという。
ちびのルイは上機嫌で「ビステックbistek」〔ビーフステーキ、またはビフテキ〕を注文する。なにしろ洋上では子牛肉など食べられなかったのだ。レオンの店には防水のオイルスキンとブーツ姿の漁師たちが集まり、店内には「フィル゠アン゠シス」〔田舎でよく飲まれたフィルというブランデーを、アルコール度数によって2、4、6とボトル表示で区別したもののひとつ。Fil-en-six、すなわち6(six)なのでもっとも度数が高い〕やカルヴァドスの匂いが立ち籠める。店内にはレオンの家に下宿しているジャックという若い電信技師の姿もあった。店員のテレーズはまだ16歳である。
コートを着た女性が店に入ってきたとき、すでにちびのルイはかなり酔い、電気技師のジャック氏に話しかけているところだった。ルイが若い娘の写真を取り出して見せながらの話すところに拠れば、彼はコンカルノーでこの娘と結婚するのだという。彼女の父は漁師だがつましい暮らしで、娘や息子たちもそれぞれ働きに出しており、彼女も医者のところに預けられている。「だからぼくが金を持って行ってやらないといけないんだ。先に電報で指示しておいたから、もう式の日取りも決まっているし、食事もぜんぶ注文してある。もう大丈夫なんだ……」
実際、ちびのルイは船上ではまじめに働く男で、だから貯金もできたのである。
しかし店内にグラデュットというイギリス人いかさま師がいることを見て取ると、ルイはその男に絡み始め、カードを寄越せと命じた。そして32枚のカードのデックを受け取ると、人差し指と親指の間で挟み、力を入れて、カードの束をへし折って見せた。さらにルイは店主のレオンに新しいデックを所望する。「金は払う」と大きな口を叩き、そして皆の前で52枚のカードを再びへし折った。彼はかなり酔っており、店内の赤毛の巨漢にも絡み、これができるか、と指先のへし折り芸を誇示してみせる。
レオンが止めようとするが、もはやルイは聞かない。今度は電信技師のグラスをつかんで噛んで割り、青銅の2セント硬貨を奪うとそれも2本の指で曲げてみせる。もちろん他の者たちが真似できる芸当ではないが、ルイはもはや錯乱状態だ。さらには店員のテレーズから糸と針を取り、いっぺんに口のなかに入れて、舌で針に糸を通す曲芸を始める。「おい、おまえは結婚するんじゃないのか」と諫めるレオンを振り払って彼は店を出ると、すぐさま隣のジャンヌのビストロに入り、針と糸の芸を無理に人々へ見せつけようとする。さらには隣店のレオンとテレーズの仲が怪しいとさえ吹聴を始める始末なのだ。
次第にルイは呂律も回らなくなってゆく。結婚相手の娘の名はマルグリットだ、などと呟き続けるその姿を見ていたのは、レオンの店に下宿している、眼鏡を掛けた生真面目そうな風貌のジャック氏であった。
朝の4時、眠りこけていたルイは目を醒ます。勘定しようとするが彼のポケットにはわずかな金しかない。ルイは自分のブーツを脱いで、この上物を200フランで買うものはいないか、と喚く。ようやくルイは眼鏡の電信技師が自分をずっと支えてくれていたことに気づいた。
「きみは何と呼ばれてる?」
「グロワグェン……」と技師のジャックは答える。
「ぼくはクロアレック……ほとんど同じだ。出身は?」
「カンペール〔ブルターニュ地方西部の町〕……」
「近いな。いいことを教えよう。きみがしゃれたタイプなら、ぼくの代わりにマルグリットのところへ行って結婚するんだ。彼女はドレスを注文して待ってる。ぼくはもうブーツも持ってないんだぜ。ブーツなしで彼女の前に行けると思うか?」
ちびのルイは泣いていた。
そこへ女が現れていった。「彼のいったことは本当よ。うちは大きい家じゃないけれど、父は家も船も持っているし、家は彼のものになる……」
今回の4篇はいずれも以前に見た「ジョゼフの首」「タヒチのリトル・サミュエル」(第103回)と同程度の分量の短篇だが、前回のように逐語的に内容を紹介することはやめておこう。作者生前の短篇集収録作であり、現在もフランス語圏で入手容易なので、ストーリーの結論を明かすのは控えておく。
ここで出てきた女は、しばらく前から酔って暴れ始めるルイの動向をじっと見ていた、まさにルイが結婚すると話していた相手、マルグリットであった──というのが本作の(まずひとつの)落としどころだ。実はこのあたりからいささか文意を取るのが難しくなる
女店主に促されて彼らは外へ出て、通りを歩く。酔い潰れたちびのルイをレオンの家に届けると、ジャック・グロワグェンはマルグリットをフェカン案内に誘った。岸壁、波止場、鱈が荷揚げされる《サン・タントワーヌ号》の姿をふたりは見てゆく。
ここでもうひとつのオチが示される。ちびのルイは結婚を決意したのに、フェカンに帰ってくるといつも、酒の誘惑を断ち切れず深酔いし、面倒を起こして、その度に振り出しに戻ってしまうのだ。彼はそんな喜劇(道化芝居)を繰り返すだけなのだ……。
なぜこの事実が読者にわかるかといえば、ここがオチなのだが、一方の人物がそのことを独り語りするからである。
ここを含む最終シーンで、本作は一気に難しくなる。テーマが難解になるとかそういうことではない。文章の意味が急激につかみづらくなるのだ。具体的には、誰がどの台詞をしゃべっているのかがわかりにくくなる。さらに加えて登場人物の心のうちの独り言も挿入される。そのためAI翻訳を出力すると男性言葉と女性言葉がごっちゃになってしまう。
その後、ジャックは新しい雇い主が見つかったので近く出港する旨をマルグリットに伝える。そしてある希望を口にする。
私はこの部分を何度もフランス語の原文で確認した。文法的にはとても簡単なのに、意味を取るのがとても難しいと感じた。
──Je veux l’épouser…
Jeは「私」、veuxは「したい」、「épouser」は「結婚する」、その前の「l’」は「定冠詞男性単数le」ないし「定冠詞女性単数la」の省略形であるから、「私は彼(彼女)と結婚したい……」の意味であって、とても簡単だ。しかしここでの「Je」は誰であり、「l’」は誰なのだろうか?
私の結論だが、これは、隣にいる相手に対して、わざと話し手は他人事のように、「あなたvous」「きみt’」とはいわず「定冠詞l’」で述べることで、遠回しに自分の想いを伝えているのだ。これで推測は正しいだろうか? ぜひフランス語の堪能な人に聞いてみたいものだが【註1】、ここにシムノン小説の大いなる秘密が隠されていると私は感じた。このことは最後に記そう。シムノンの小説が「人間らしい」のはなぜなのか、なぜシムノンの小説はAI翻訳がうまく機能しないのか、その理由の一端がわかった気がしたのだ。
しかし、そのことと小説としての面白さが別次元の話であるのは興味深く、そして残酷だ。残念ながら本作はさほど心動かされない、ごく平凡な小説である。だが、本作のようなシムノン小説を綿密に解析してゆくことで、ひょっとしたら今後私たち人類はAIとともに、新しい文学理論を発展させてゆくことができるかもしれないのである。
【註1】追記(2024/6/14)
本稿発表後、読者の方から「実際に原文を見てみたところ、ここはこのような意味ではないか」とご示唆を頂戴した。それを拝見し、やはり私のフランス語の理解不足によって、私の解釈が間違っていたとわかったので訂正したい。実際はこの台詞の5行前から場面と日にちが変わっている。そしてジャンは店主のレオンに言葉をかけられ、それを聞いて恥ずかしげに呟く──ここはそのようなシーンなのである。よってこの時点で話者の隣にいるのは結婚したい相手ではなくレオンであり、話者は半ば独り言としてこの言葉を発したのだ。その場にいない相手、しかしレオンとジャンの間には共通認識ができている人物について語っているので、ここでは定冠詞が使われているのである。なるほど、これですっきりと全体の意味が通る。ご教示に感謝いたします。ありがとうございました。
ときは12月12日、場所はノルウェーの東端に近いキルケネス。気温は氷点下28度。日照時間は3時間で、空は病的な黄色を帯びる季節である。
午後3時、鉱山で現場監督として働く男アンデルス・ソルスタッド(仲間からはストール゠アンデルスと呼ばれている)〔ストール゠アンデルスStor-Andersとは、ノルウェーの作家オスカー・ブラーテンOskar Braatenが1912年に発表した4幕劇の主人公〕が、ヨアヒム・トロムス医師のもとを訪ねた。トロムス医師はひとりでチェスをしている最中だった。
アンデルスは医師に酒の処方を所望する。ここキルケネスでは、アルコールは医師の処方箋がないと入手できないのだ。トロムス医師は髭面の汚い男だが、この町唯一の医師で、薬局を併営しており、鉱山で働く者たちは彼の世話にならざるを得ない。アンデルスは医師が何人かの労働者に酒を処方していることを知っていた。しかし彼はオスロ郊外から出稼ぎに来て3年経つが、こんな願い出をするのは初めてのことである。
「どこが痛いんだ?」
と訊かれ、彼は喉を指して酒が飲みたいことを懸命に伝える。彼は病気ではなかったが、どうしてもいま彼には酒が必要だった。強い酒を飲みたかったのだ。
トロムス医師はヨードチンキしか出そうとしない。いったんアンデルスは諦めて、労働者クラブのもとへと向かった。非番の仲間たちが集まってビリヤードで寛ぐ場所だ。アンデルスは知り合いである片目のペテルを見つけると、わかってはいたが訊かずにはいられなかった。「酒はあるか? ウィスキー、アクアヴィットaquavit〔北欧のスピリット〕、ジンでも何でもいい」
クラブはライトビールくらいしか置いていない。そんなものでは満足できない。アンデルスは再び町を彷徨い、鉱山長ベルネル・カルヴァーグの家にさえ行ってみた。しかしそこでも酒は尽きているという。アンデルスがトロムス医師のもとへ戻ってきたとき、まだ医師はチェスをしていた。
ついにアンデルスは医師の前で告白を始める。その日の朝、彼は一通の電報を受け取ったのだ。そこには妻のハンナが故郷で亡くなったことが記されていた。アンデルスはオスロで妻と結婚し、郊外の労働者バラックでつましく暮らしていたが、息子が生まれ、いっそうの稼ぎが必要となった。キルケネスで5年働けば充分な蓄えができると聞き、彼は妻と幼子を残して単身この町へやって来たのだ。しかしその妻が亡くなったという。まだ小さな息子には、先日船便でクリスマスプレゼントのおもちゃを送ったばかりだった。次に故郷行きの船が出るのは8日後だ。これから8日間、足止めを食らいながら、とても正気を保って生きていけそうもない。だから酒を処方してくれと彼は必死に訴えているのだ。しかし医師は同情の素振りも見せず、「私にできるのはシロップをつくることだけだ」などという……。
医師の家のなかはアルコールの匂いがする。この医者は自らも酒を飲んでいるのに、こうして愛妻を亡くした自分には酒を処方しようとしない。かっとなったアンデルスは、そこにあるアクアヴィットの瓶をつかみ、医師の頭上へと振り下ろした。彼は現場をあとにし、労働者クラブへ戻ったが、医師を殺した事実はもはや消せない……。
そして警察とともに彼が医師の家へ三度訪れたとき、チェスボードの上に頭を乗せて血を流して死んでいる医師の髭に、何かの紙片がくっついていることに気がついた。そこには……。
本作はわかりやすいが、それはアンデルスの独り言と、声に出さない心中の想いと、他者に向けて発せられる台詞が、比較的容易に区別できるためである。
最後にオチが明かされるものの、やはり凡作の域を出ない一篇である。ただ、シムノンは辺境の地を次々と取り上げては、そこで飲まれている酒の種類を明記しており、続けて読んでゆくとこれが場所の雰囲気づくりに貢献しているのが感じ取れるのは興味深い。
シムノンはペンネーム時代にノルウェーを訪れており、その成果は初期作『北方洋逃避行』(第34回)でも発揮されている。
2月の南仏、
テラスからの素晴らしい眺めを披露し、ダイニングルームや広いラウンジ、ビリヤードホールなど、申し分のない邸内をピエールは案内してゆく。夫妻はオランダ語であれこれ話し合い、妻の意見や感想は夫が通訳してピエールに伝える。どうやら新婚だと思っていたが、この夫婦は子供が3人、子守がふたり、メイドがふたり、さらにはお抱えのコックまで連れて来るつもりらしい。どうにかこの物件がまとまって、すぐさま大金が入ることをピエールは何よりも望んでいた。賃貸料は2万フラン、いや、2万5千フランはほしい……。だがとある重大な理由から、彼の無愛想な顔つきは直りそうになかった。オランダ人夫婦はどうやら乗り気だ。借りるなら明日の朝には入りたいといっている。空き家で放置されていたこの物件を貸すには絶好の機会だ。それなのに、食料庫が見たいと夫妻が訊いてきたとき、ピエールは思わず告白してしまいそうになっていた。
「実は、食料庫には死体があるんです……」
そう、何とか声に出すのは我慢したが、この邸宅には腐乱しかけた死体がひとつ転がっているのである。前にここを借りたのはハンガリー人のツァリス夫人とその愛人だったのだが、3か月の賃貸契約を結んで鍵を渡したにもかかわらず、彼らは6週間でどこかへ行方を眩ましてしまったのだ。ツァリス夫人から最後に届いた手紙はローマからのもので、秘書が書いたらしく、邸宅を借りるのは止めたと一方的な通告だった。賃貸料をどうやって取り立てればよいのか。しかもピエールは邸宅の食料庫に、誰ともわからぬ死体を見つける羽目に陥ったのだ。
警察に連絡して事が世間に知られたら、この邸宅を今後借りる者はいなくなるだろう。進退窮まったピエールは、結局死体をそのまま放置してきた。いまオランダ人夫婦を案内しているこの瞬間にも死体は食料庫にある。どうすればいい?
「……3万フラン」とピエールはいい澱んだ。「これが最後のお値段です。私の顧客でアメリカのお金持ちの方が、正式な契約を望んでおりまして……」
オランダ人夫婦はなんとその値で承諾した! 明朝、鍵を取りに来るのと引き替えに契約書を結んで代金を支払うという。ピエールはその夜、自転車を漕いで町を走った。まずは家主からスペアの鍵を借り、その脚で緋岩邸に向かい、死体を袋に詰めて自転車に乗せる。どこへ始末すればいい? ようやく帰宅したのは午前1時だった。しかし病弱の妻から質問されてピエールははっとした。
もしあのオランダ人夫婦が詐欺師だったら? 彼らが本当にオランダ人であるという確証さえないのだ。朝になって現れなかったら3万フランの目算も消える。そうなればいま抱えている借金や弁償金をどうやって返済すればいい? ピエールにとっては身の破滅だ……。
コミカルな味つけがコート・ダジュールの青い景色に溶け込んで、よい雰囲気をつくり出している。今回出てくる酒はベルモットvermouth〔白ワインをベースとして香草やスパイスを加える甘味果実酒〕だ。ピエールが夜中の大仕事を終えて帰宅し、やれやれと棚に手を伸ばして取り出す瓶である。「ときに客に酒を勧めなければならないときもあるが、ベルモットがいちばん安くて、体裁もよい」とある。また緋岩邸では集中暖房設備(カロリフェールcalorifère)がついていることも売りのようで、このフランス語を初めて知ったオランダ人夫婦が嬉しそうに驚くのも、現在読むと印象的な場面である。
最後のオチはもの悲しいものだが、前作「キルケネスの医者」と同じように、「彼がもはや他の人々と同じ世界に生きていない」ことがわかってしまう。ここで〝わかってしまう〟のは主人公の周囲の人たちであるのだが、小説のナラティヴが作者や私たち読者の視線と一体化して終わるのがこの短篇群の共通スタイルでもある。つまり物語の最後に何か感想めいた一文がつけ加えられるのだが、その感想は物語を紡いでいるシムノン自身の言葉のようでもあり、あるいは映画で最後にナレーターの声がかぶさって、私たち視聴者の心情を誘導しつつ共感したふりをしてみせる、あの感覚が用いられる。このあたりの視点の移り変わりに伴う認知フレームの技法こそが、すなわちこれら一連の短篇群の特徴なのだ。
ピエールは周囲から「無愛想な男le Malgracieux」と呼ばれているが、『ロニョン刑事とネズミ』(第79回)で初のお目見えを果たした所轄刑事ロニョンにねずみ氏が与えた愛称と同じである。シムノンはこの渾名が気に入ったようだ。
やはり本作も良作とまではいかずに終わっている。だが作者シムノンが《グランゴワール》誌の短篇連載でやりたかったことは少しずつ見えてきたようにも思われる。次の1作は今回のなかでもっとも文意を取るのが難しかった短篇だ。
赤道直下のアフリカ。マタディ〔コンゴの西端に位置する港町〕とカメルーン〔アフリカ西部の国で、大西洋に面する。コンゴより北〕の間にはいくつかの河川が海へと流れ込んでいるが、《ヴァスコ号》はそのひとつの河口にある桟橋で、もう3週間も停留を続けていた。上流から流れてくる木材を回収して輸送する役目だが、その木材がいっこうに届かないのである。そのため乗員は時間を持て余している。季節は冬だがこの赤道直下では、昼前の気温は日陰で摂氏46度から47度。
機関長のヴェルブは50歳で、孫さえある身でありながら、地元黒人女性を船室へ引き入れている。二等航海士、三等航海士、電信技師の3名はいずれも若者で、ブリッジに興じている。船長のジョッスはこのような運送業を始めて20年になるが、ヴェルブ機関長よりいくらか若く、45歳にはなっていない。だが若い船員からすればどちらも同じく老いて見えるかもしれない。《ヴァスコ号》にはもうひとり、安南人の若い料理人兼使用人がおり、なぜかはわからないがビルと呼ばれている。ビルが船室へ運んでくるブイヤベースにジョッス船長はうんざりしていた。ビルは何でも料理できるが、どんな色の魚であろうと煮込みにぶち込むだろうし、仮に黒人の狩人の姿が見えたらその黒人さえ料理するだろう。
ジョッス船長はヴェルブ機関長と不仲なのだが、彼らが給金をもらっている会社はふたりを別の船に乗せようとしない。男と女なら離婚できるのだが、船上の男同士では決して離婚できないのである。
ジョッスは故郷にいる妻のことを思い出す。彼はラ・ロシェル〔シムノンが住んでいた、フランス西部の避暑地〕からラ・パリス〔ラ・ロシェルより西側の、より海に近い町〕へ向かうカルノ通りに小さな家を建てた。ガラスを嵌め込むのはヴェルブが手伝った。ふたりは互いに近隣に住んでおり、もう何十年も陸上と船上で顔を合わせてきたわけだ。
ジョッス船長は昼食を終えてヴェルブの船室の前を通り(黒人女性を連れ込んでいるのがわかる)、士官室へ移動したが、若者らのブリッジには興味がない。今日は木曜日か? ならばラ・ロシェルの映画館ではマチネをやっているだろう。妻のエリーズはコートを着て彼女の従姉妹のコレットと出かけているかもしれない。家を建てたとき、エリーズは屋内の家具や装飾をすべて自分好みにして、従姉妹のコレットを呼び寄せた。夫のジョッス(本当の名はウジェーヌなのだが、エリーズはその名を嫌って彼をジョッスと呼んだ)が船で長期不在する間はいつもいっしょに暮らしているのだ。
「あのコレットの厄介事については……」
とジョッスは思わず呟きそうになる。いや! 慌てて自分の考えを打ち消す。コレットは18歳だが鼻のかたちのせいで15歳に見えるほどだ。まだほんの子どもに過ぎない。エリーズとは違う……。だが……。
彼女は男性に対してときどき色目を使い、皮肉をいうのだ。ヴェルブ機関長は(上陸地では黒人女性や街の娼婦と遊んで反省もしないのに)ちゃんと孫へおもちゃを買ってくる。だがコレットは彼が帰ってきたとき「でも船長は、ご自分のかわいいペットに何を買っていらっしゃるの?」などとねだったりするのだ。
まあいい! 彼女は楽しい娘だ! まだ女らしさには欠けているが、そのうち……。
だが豚のヴェルブは密かにあのコレットをわがものにしようと狙っているのではあるまいか?
本来なら船長である自分が厳しくヴェルブを叱り、同船させないようにするべきなのだ!
前回、《ヴァスコ号》が4か月ぶりにラ・パリスに到着したとき、彼らは24時間だけ余裕ができた。そのためジョッスはヴェルブとともに家へと歩いて向かった。タクシーに乗りたかったのだが捕まらなかったのだ。やがてジョッスの小さな家のバルコニーが見えてきた。
「そうだ、誓ってもいいが、あのときエリーズはバルコニーにいて、おれたちが来るのを見ていたはずだ」
ジョッスは独り言を交えながらあのときの記憶を思い出してゆく。彼らは家に行く前に保険商のところへ寄ったのだ。10分も無駄話を聞かされて足止めを食った……。
そしてようやく家の前に着いて、ジョッスとヴェルブはそこで別れたのだ。ドアが開いてエリーズが笑顔で夫をなかへ引き入れた。
「もう着いたのね。電報は打ってくれなかったの? お腹が空いているでしょう?」
もちろん! 幸いなことにコレットは居間におらず、姿がなかった。滅多にないことだ。エリーズがバルコニーに夫を呼び寄せる。テーブルに紅茶、ふたつのカップ、それに食べかけのケーキ……。
嬉しくなって彼はジャケットを取る。こうして若い妻と幸せな時間を過ごすことは、あのいまいましいヴェルブにはできまい。だがそのとき、
「誰かいるの?」
と声がして、階段を降りてくる足音が聞こえた。
それはコレットと、そして見知らぬ若い男だった。コレットは慌てて、
「行って、ジャン。私が説明するから……」
と取り繕ったが、こちらのいない間に2階へ男を連れ込むとは、なんという娘だ。ジョッスはそのとき呆れて妻に目を向けたのだ。しかし妻は弁明した。
「あの若者は軍役が終わっていなくて、仕事を見つけるまであの子たちは結婚できないわ、だから……」
エリーゼはそういって泣き出した。その夜、ジョッスはよく眠れなかった。彼はコレットのことを、そしてあの若い男のことを考えていたのだ。彼は隣のエリーズに尋ねた。
「なあ、あの若者は本当に彼女のことを愛しているのか?」
「何をいってるの?」
「彼は明朝また来るだろう。本当に愛し合っていて結婚したいなら、あの若者がこの家で寝たっていいじゃないか……。いってることがわかるか?」
「船長!」
ビルが呼んだ。「紅茶が入りました」
「いま行く」とジョッスは返答し、戻ってテーブルに着いた。船長の要望によりきちんと装飾がなされている。アフリカにもかかわらずいまここにはテーブルクロスが敷かれており、そしてビルのクリームケーキもある。料理人の前にビルは菓子づくりもやっていたのだ。
そこで船長は突然思い出した。重大な事実に行き当たり、ジョッス船長は飛び出してヴェルブ機関長の船室を叩いて呼んだ。黒人女性が出て行く。ジョッスは自分がついに気づいたことを語り始める……。
上掲のあらすじの終盤で、いきなり「船長!」という呼び声がかかることにびっくりなさったことだろう。その通り、シムノンの原文でもここは1行空けなど姑息な手段は使われておらず、「いってることがわかるか?」の次の行はいきなり、
──Pitaine ! vient annoncer Bille(後略)
と来るのである。ピタンPitaineがキャピタン=船長Capitaineの略であると気がつくまでしばらくかかった。「ピタン!」とビルの呼びかけがあった、という意味なのだが、ここで私たち読者もはっとして、意識もカルノ通りから一気に摂氏46度の赤道アフリカまで連れ戻される。
このあと小説はカルノ通りでの記憶と、船上にいる現在のジョッス船長とヴェルブ機関長のやりとりがシャッフルされながら連続的に語られてゆくのだが、この場面の切り替わりがフランス語学習者にとっては極めてわかりにくく、どれがどこの時制なのか、一読しただけではとても判断できない。しかも男性と女性の台詞も交錯するので、AI翻訳は完全にお手上げ状態で、実際には男性がしゃべっている言葉をしれっと女性言葉で表示してくる。なぜこのようなことが起こるのだろうか? なぜAIはシムノンの小説をうまく翻訳することができないのだろう。
その前に本作のオチについて簡単に感想を述べておく。ビルは安南人なので、まさか■ビルが船長の妻エリーズの愛人であった■(ネタバレ防止のため文字色反転)ということはないだろう。それはあり得ないはずだから、実際は■若者ジャンの相手は船長の妻エリーズで、従姉妹のコレットはそのことを庇って隠していた■(同様に反転)というのが本当のオチなのだ。その先に記されている後日談を読めば察せられる。しかしわかりにくいことに変わりはない。
なぜわかりにくいのかを考えてゆくと、オチが明確でないことや唐突であること以外に、別の可能性が浮かんでくる。これは作家シムノンに特有の文章表現のせいでもあるのだ。
シムノンという作家は人間の認知フレームを極めて巧みに翻弄し、その効果を最大限に発揮することで小説を面白く読ませる。この認知フレームの操作はどのようにしておこなわれているのか?
フランス語特有の「冠詞」がその謎を解く鍵だと私はついに気づいたのだ!
シムノンに特徴的な文章表現といってすぐに思い出されるのは「半過去形」である。フランス語独特の時制で、過去に継続して起こっていた習慣や状態を示すときに用いられる。シムノンは半過去をとてもよく使うので、「シムノンの半過去」とさえ呼ばれて、フランス語の教科書でも言及されたりする。
しかし、本当にシムノンの難しいところは、彼が「定冠詞」(le, la, les)や「人称代名詞」(彼il, 彼女elleなど)を極めて頻繁に用いるところにあるのではないだろうか。
ちょうど今回の短篇群を読んでいるとき、私は自分の勉強のために、小田涼『中級フランス語 冠詞の謎を解く』(白水社、2019)という本を並行して読んでいたのだが、この本にたくさんメグレものの例文が使われていることに気づいてびっくりしたのだ。この白水社の本は3冊シリーズとなっていて、他に井元秀剛『時制の謎を解く』、渡邊淳也『叙法の謎を解く』がある。私は「シムノンの半過去」という言葉を聞いていたのでまず『時制の謎を解く』を読み、確かにその本にシムノンの例文が使われていることを知った。そして『叙法の謎を解く』を読み終え、最後の『冠詞の謎を解く』に取りかかったわけだが、なんとこちらの『冠詞』本の方が先の『時制』本よりはるかに多くのシムノンを引いていて驚いたのである。
実はシムノンはほとんど人物の名前を書かないという顕著な特徴がある。最初に名前を書いたら、あとはほとんど一章分を「彼il」「彼女elle」などで貫き通す。日本語の小説でこれをやると極めて不自然になるので、私たち日本の作家は適度に名前を入れ込んで創作するのだが、フランス語は前に出てきた話題をそのままの言葉で繰り返すのを非常に嫌う言語のようで、「冠詞」や「代名詞」が大量に用いられる。
シムノン作品はこれが凄まじいほど徹底している。試しに邦訳された戦後の『ベティー』という作品を読んでいただきたい。長島良三氏の訳だが、律儀に原文の「彼」「彼女」をそのまま日本語にしているので、読んでいるうちに「いまここにずっと出ている彼とは誰のことだっけ」と、しばしば人物を見失ってしまうほどである。
私たち日本人は、ときおり海外ドラマのミステリー作品を観ていると、たとえば物語の終盤になって刑事が道に死体が転がっているのを発見して近づき、肩を返して顔を確認し、はっとする、というシーンに遭遇したとき、気まずい思いをすることになる。死体の顔を見た刑事の動揺ぶりから、それが彼の思っていた犯人だったのだが、こうして殺されているということは、真犯人は別にいる、刑事はいまこの瞬間すべての真実に気づいたのだ、とわかる劇的なシーンなのだが、残念なことにそのドラマの演出家は芸術性を尊重し、「くそっ、ワイン商の○○が殺されるとは……。ならば犯人はあいつだ!」などと刑事に死体の人物の名を呟かせる野暮な真似はさせない。そのため外国人の顔を見慣れていない私たちは、この死体がいままで出てきたどのキャラクターなのか判断がつかない、なぜならみんな同じような顔に見えるから、という認知の崩壊が生じるのだ。それと似たようなことがシムノン作品を読んでいるとしばしば起こる。いまこの場面に登場してしゃべっているのが何者なのかわからなくなる、という事態がかなりの頻度で生じるのだ。
『冠詞の謎を解く』には興味深い解説がいくつも載っており、たとえばフランス語の文章を読んでそこにある冠詞がなぜどの指示対象とつながっていると私たちは理解できるのか、それは「認知フレーム」という私たち人間が持つ心的能力によるのだ、と説明されていて、人工知能学者・認知科学者であるマーヴィン・ミンスキーの名も登場する。おお、まさに私が〈ケンイチくんシリーズ〉で書いてきた題材である。
認知フレーム:ある出来事や状況・人・物といった要素、それら要素の属性や要素間の関係などが結びついた知識のネットワーク p.67
こうした認知フレーム内に入っているものは、同じ文化圏に住む人にとって共通の前提や常識が成り立つので、いきなり会話のなかでフレーム内の事象を持ち出しても(つまり先行詞がなくても)、定冠詞を用いて「les invitation招待状やles bagues指輪はもう用意したよ」などといえるのだ、ということである。ところがフランスと日本では若干結婚式のやり方が異なり、たとえばフランスでは市長の立ち会いのもと市役所で結婚式を挙げるのだが日本では市役所に婚姻届は出すものの市長に会うわけではないので、日本だと結婚式フレームに市長は入らない、となるわけだ。
つまり、いきなり定冠詞le, la, lesが文中で使われるなら、それはすでに読者と作者の間で一定の了解がある、すなわち認知フレームが一致している必要がある。日本では小説を出すとき、この認知フレームをあまり信用せずにくどいほど説明する方が〝わかりやすくて〟〝売れる〟傾向があるようだ。そもそも主語の存在しなかった日本においては「場の雰囲気」がナラティヴを左右するのだが、そういった〝阿吽の呼吸〟は近年むしろ嫌われる傾向にある。
フランス語の定冠詞の使い方は、こうした『冠詞の謎を解く』のような解説書を読む限り、日本の〝阿吽の呼吸〟とは異なりむしろかなりメカニカルで論理的な印象を(私は)受ける。シムノンも実はメカニカルな文章を書く作家だ。しかしその先行詞への参照言及のパースペクティヴが、少し一般とは違うように感じられるのだ。ここに鍵があるのではないか。
かつてAI翻訳は極めて実現が難しい難問とされてきた。それはAIが人間とは違って「文脈」というものをうまく理解できなかったからである。なぜこの文章のあとにこの文章が来るのか、その論理立てがうまく図式化できなかったことと、先に述べた認知フレームという「常識」を教えるのが凄まじく大変で、突破口が見出せない時期があったからである。
しかし近年、コンピュータの発展に伴って、大規模言語学習というのができるようになった。いくらコンピュータに文脈やフレームを教えてもだめだと思われていたのだが、コンピュータの性能や扱うデータ容量が爆発的に速く、大きくなると、天井を突破して、なぜかはよくわからないがうまくいくようになった。しかも直近の文章を参照するだけでなく少し前の文章も参照できるようになったことで、全体の文脈をなぜかそれなりに捉えられるようになった。これが昨今のAI翻訳を支える技術の核心である(と大雑把に私は理解しているが、間違っていたらすみません)。
私たち人間でも認知フレームに伴う連想照応に問題を来すことはある。シムノンのロマン・デュール作品は、今後も新しい邦訳が出てくると思うが、もし自分にはいつも小説作品をジャンルミステリーの枠内で評価してしまうフレームが働いていると感じるならまずそれをいったん措いて読んでみる姿勢が肝要だ。小説として面白いかどうか、それだけで判断するのはとても難しいことだが、シムノンを読むとはそういうことなのだと、まず私たちみんなが理解することが重要だと私は思う。
ではシムノン作品を読むとき、私たちはどのような認知フレームで臨めばよいのか。ここがわかりにくい原因なのだと私は思う。実は私たちが合わせるべき認知フレームは、ジャンル小説のフレームでもないが、日本社会のフレームでもないしフランス社会のフレームでもない。ベルギー社会のフレームでもない。「シムノンの心中にある認知フレーム」、これが答えなのだ。私たち読者は一般に小説を読むとき、登場人物の認知フレームと一体化しようと努めるものだが、そうではなくてもう一段階メタ的に階段を上がって、作者である「シムノンの心中にある認知フレーム」と一体化する必要がある。
というのも作者シムノンのなかでは、刻々とフレームが変わっている。小説の初頭部分では、まだ作者シムノンも手探り状態で進んでいる。そして彼の脳内でいくつかの連想が浮かび上がり、次第に事象が連結されてゆく。するとシムノンの心中ではその作品に関する認知フレームが形成され、何と何が連想照応されるのかがはっきりしてゆく。まさにそうなったときシムノンは定冠詞や代名詞を用いるのである! だがシムノンにとって連想照応されたその瞬間と、私たち読者が文章を読むことで連想照応される瞬間は、必ずしも同じではない。どうしても私たち読者の側は照応が若干遅れる。だからいきなり出てくるシムノンの定冠詞や代名詞が、何を指し示しているのかわからない、という事態が生じるのだ。この仮説はいかがだろうか?
実際、「《ヴァスコ号》の船長」の冒頭がよい例だ。まずヴェルブに呼びかける台詞が1行目に書かれるが、2行目以降もその発話者の名は特定されず、「彼il」としか示されない。4段落目でようやく《ヴァスコ号》の桟橋にふたりの人物がいると示される。この時点でもまだヴェルブ以外のもうひとりの名は明かされない。5段落目で再び台詞が発せられ、ここでようやくその話者がジョッス船長だと記されるのだが、1行目の話者と5段落目の話者が同じ人物であるという説明は決して明示的ではない。どこにも同じ話者だとは書かれていないのである。よって私たち読者はさらにしばらく読み進めることでその仮説を何となく自分で承認してゆくしかない。桟橋にはふたりの男がいて、ひとりはヴェルブなのだから、次に出てきたジョッスが別のもうひとりなのだろう、と推測するわけだ。作者シムノンはもちろん読者の存在を忘れているわけではなく、「徐々に作中で情報を公開することによる読み応えと妙味」をここで披露しているのだが、私たち読者の認知フレームとはいささかのズレがある。「彼il」と代名詞で呼ぶのはまだ少し早いのではないか? という箇所でシムノンはごく自然に「il」を使う。居心地の悪い感触が残るはずだ。しかしシムノン小説の醍醐味はここにある。
『冠詞の謎を解く』には「カメラワーク・メタファー」という興味深い解説も登場する。フランス語の冠詞の用法は、映画のカメラワーク、なかでもロングショット(長回し)やクローズアップなどの技法に当て嵌めるとうまく理解できる、というものだ。たとえば最初にある人物(ないし物体)が出てくる。その人物(物体)は先行詞un Xと書かれる(「un hommeひとりの男」など)。だが長回しが続いてずっと画角内にその人物(物体)が映り込んでいるなら、その後は照応詞le X(「l’homme男」)と書いてよいのだ。
しかし長回しから切り替わって、カメラがズームアップして彼(物体)ひとりを選び出すと、彼はもはや定冠詞ではなく指示形容詞つき名詞句(「cet hommeその男」)として記される。このように画角への写り込み状況やカメラの焦点度によって文脈や意味性は変わってくるので、「homme」の前に何がつくかも変わるというのである。うまい説明だ。
となれば、『冠詞の謎を解く』でも述べられているが、話の途中で回想シーンが挿入されるとき、それはシーンが変わることになるので、一般には冠詞も変わることになる。そうした微妙な表現の変化で私たち読者は場面の転換を深層意識で理解するのだが、ここにもシムノン特有のクセがある。たとえば「《ヴァスコ号》の船長」では、何の断りもなく突然に回想シーンが始まり、また唐突に時制がもとに戻る。ジョッス船長は物語を通して赤道アフリカの船上にいるはずだ。しかし彼がヴェルブ機関長の船室の前を通り過ぎると、次の行でそのまま作者シムノンはジョッスとヴェルブの昔話を始める。また料理人ビルからケーキが差し出されると、ジョッスは以前の帰郷の記憶へと戻ってゆく。そこから彼が機関長の部屋へ駆けていってドアを叩くまで数度の回想の往復があるが、シムノンは場面が切り替わっていることを文章で明示したりはしない。
さらにシムノンが《グランゴワール》誌の一連の短篇群で試みているのは、作中人物がいおうと思いながら実際には口に出さなかった台詞を、彼ら作中人物のなかで考えさせて、あたかも声に出したかのように口語文章として提示する、という、かなり高度な表現なのだ。「《ヴァスコ号》の船長」だと、ジョッス船長は妻の従姉妹のコレットがはしたない恋愛をしていたという目撃譚を、何度もヴェルブ機関長に話そうとしたが実際はできずにいた、というくだりがある。しかし次の場面でジョッス船長はヴェルブ機関長の船室に駆け込み、「あれはコレットではなかった!」といきなり叫ぶ。もちろんヴェルブは何のことだかわからない。話を事前に聞いていないのだから当然だ。しかし船長は以前に話したつもりになって、いま自分が気づいた真実をまくし立てる。
事実と願望、また現在と過去が入り乱れる。私のようなフランス語初心者でも逐語的に原文を追っていけば何とか理解できるのだが、AIはこうなるとお手上げだ。AIが出力する日本語や英語の翻訳文は、時制も話者の性別さえもめちゃくちゃになる。日本語への翻訳が難しいのはわかるが、英語への翻訳でさえ連想照応が正しくできていないのは驚きだ。2024年現在のAI翻訳はかなりがちがちに教育されて、それなりに鍛え上げられていると思われるが、それでもなお現状のAIはシムノン小説の翻訳ができないのである。
なぜいまのAIでシムノンが翻訳できないのかをきちんと探ることは、AI研究や言語学の分野でかなり大きな成果を生むのではないかと私個人は考える。私が大学研究者ならこれで挑戦的学際研究の計画を立てて予算申請するところだが、豪快にもいま無償でアイデアを全世界に提供してしまった。まあそれでもよいのである、私たちの間でシムノンの読み方がいっそう深くなるならば。
最後にもうひとつ、一連の《グランゴワール》誌の短篇で特徴的に見られる筆致について述べて今回の原稿を終えよう。
「《ヴァスコ号》の船長」の物語では最後に、赤道アフリカでの仕事を終えてラ・ロシェルに戻った後のジョッス船長の人生が簡潔に記される。以前と打って変わって行く先々の港で女を買うようになってしまった彼の変貌ぶりは哀れなもので、道化芝居のような結末であるが、最後の1行にシムノンはこんな短文を書き添えている。
Mais on ne peut pas tout avoir.
「しかし人はすべてを手に入れることはできないのだ。」といった意味だと思われる。船長はおのれの信条を180度転換させ、出先では妻のことなど忘れて女と酒の遊びに耽る人間になってしまった。妻もいるし、港では女も酒も浴び放題だ。それでも船長の心中にはいつもぽっかり穴が空いている。かつての方が幸せであったのではないか? 「しかし人はすべてを手に入れることはできないのだ。」──ということであろう。
ここの文章効果が興味深いと私は感じる。いきなり書き手の視点が「on私たち」に変わっているからだ。「しかし私たちはすべてを手に入れることはできないのだ。」というときの「私たち」とはいったい誰か。
作者シムノンを含む「私たち人間」ということになるのだろう。ここでいささか箴言めいた終わり方をするわけだが、まるでこの一文は作者シムノンが「やれやれ、しかし私たちは……」と独り言を呟いているかのようでもある。そして「私たち」のなかにはもちろん読者である私たちも含まれている。よってこの最後の一文は多分に共感的である。
ここで物語の本当の主人公は、作者シムノンであったことがわかるのではないだろうか。私たちは作者シムノンになり代わって物語を紡いでいたのだ、と考えると、すべての表現が極めてメカニカルに、必然的に書かれていると納得できる。これがシムノン小説を読むときに私たちのなかで起ち上がる認知フレームなのだ。この認知フレームが構築できるかどうかでシムノン作品の面白さは変わるといってよい。まさに「人間らしさ」が問われているのだ。
ちなみに本作でヴェルブ機関長は船室にシャラントCharentesのボトルを蓄えており、泣き出すジョッス船長にこの酒を勧めて落ち着かせる。シャラントとはシャラント地方産のリキュールで、葡萄果汁にコニャックやブランデーを混ぜたもの。当時フランスの船舶労働者が赤道直下の苛立たしい仕事に持っていったのは、おそらくこのような酒だったのだろう。
もちろん、作者シムノンには(そして読み終えた私たちには)自明のことだ。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
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